第44話 君の手を〈side 恭介〉
『今夜、バイトで遅くなります』
ハナコからのそんなメッセージを受信したのは、うだるような暑さに負けてコンビニの駐車場でアイスを食っている最中だった。
もうすぐ日が沈む、バイト終わりの午後。
(了解、と……)
シンプルなメッセージを返せば、珍しくすぐに既読がついた。あ、ちゃんと見てるんだな、と密やかに安堵する。
それと同時に、昨晩の出来事がふと脳裏をよぎった。下手くそな笑顔を作って口付けてきた、彼女の言葉と共に。
「……手しか好きじゃねえのに、何でキスしたんだよ……」
小さく呟き、食べ切ったアイスのハズレ棒をゴミ箱に捨てる。
考えすぎて頭の中は何も纏まらない。暑いし、モヤモヤするし、なんかもう全部面倒だ。
俺は溜息と共に立ち上がり、早めに帰ろうと帰路を歩み始めた。
重い足取りで歩を進めれば、浴衣姿の若者に何度もすれ違う。
ああ、そう言えば──今日は夏祭りだったような。
(しまった……今日祭りなら、ハナコと予定合わせとけばよかったな……)
後頭部を掻き、俺はあからさまに肩を落とした。
ハナコの浴衣姿見たかったのに、と悔やみながら、花火だけでも一緒に観れないだろうかともう一度ラインの画面を開く。
指の先で打ち込むのは、恋心をこじらせた情けない男の悪あがき。
『あのさ、今日、バイト早めに上がれたりする?』
『無理ならいいんだけど』
『なんか祭りらしくて』
『一緒いかない? ちょっとだけでも』
『無理ならいいんだけど』
──いや、必死かよ。
衝動のまま連投したメッセージに自分で頭を抱えつつ、僅かな希望に胸を震わす。その期待に応えるように、ハナコからの既読はすぐについた。
だが、いつまで待っても返信が来ない。
「……? 忙しいのか?」
既読がついて数分、じっと返事を待つ俺だったが、結局音沙汰ないまま自宅の近くまで戻ってきてしまった。
ちょうどその時、偶然彼女のバイト先である居酒屋の前を通りかかる。
そしてつい、俺は店の前で足を止めた。
(……そういや、アイツの働いてるとこ、まだ見た事ないな……)
少し、見てみたい気もする。
だが、悔しい事に俺は酒がほとんど飲めないのだ。
一人で居酒屋に入ってきた癖に酒も飲まず、ソフトドリンクだけ頼んで帰るだなんて──流石に奇妙過ぎる。ハナコとの“約束”がある以上、ここで飯を頼むわけにもいかないし。
(……ダメだな。今度鳥羽と来よう)
そう考え、踵を返そうとした。だが、その刹那。
突然店の扉が開き、そこから出て来た派手な髪色の女とばっちり目が合ってしまった。
「……あ……」
互いに硬直し、暫しの沈黙がその場に流れる。しかしややあって、女が先に口を開いた。
「あ、1名様ですか? どうぞ~!」
「えっ……、あ、いえ! ちょっと、見てただけなんで」
「あれ、そうなんです? 今夜はお祭りで混む予定なので、入るなら今のうちですよぉ〜?」
「あ、あぁ……どうも」
営業スマイルを浮かべる彼女に苦笑しつつ、ちらりと店の中を覗き込む。
しかし店内にハナコの姿はなく、俺は眉を顰めた。
「……? あの、ハナ……じゃなかった。絵里子って、今日何時からですか?」
「え? 絵里子ちゃん? ……あれ!? もしかして、お兄さんって絵里子ちゃんのラブずっきゅんなお隣さん!?」
「……は?」
突如、不可解な発言を放った女店員。
思わずぽかんと呆気に取られれば、彼女は瞳を輝かせ、
「あーっ! すごい、イケメン! やるじゃん絵里子ちゃん! あ、私の選んだ水着どうでした? 似合ってた? 絵里子ちゃんったら、先月水着選べないって顔真っ赤にして相談してきて、それが可愛くって〜!」
と矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。そのまま女のマシンガントークが始まってしまい、呆然とする俺を差し置いてぺらぺらと彼女は話し続けた。
(な、なんだコイツ……ハナコの同僚か? すげー喋ってくるし……、あー、なんか面倒だな。もういいや。花火に誘うのは諦めて、適当に理由つけて帰ろ……)
そう思い至り、げんなりしつつ「あ、やっぱいいです……」と言いさした俺だったが──その直後、彼女が放った発言によって、俺の眉間には深いシワが刻まれる。
「あー、でも良かった、絵里子ちゃんのお隣さんの顔見れて! 昨日が最後だったのに、私バイト入ってなかったから見送れなかったんですよぉ、絵里子ちゃんの事」
「……? 最後?」
「え? あれ、知りません? 絵里子ちゃん、昨日でバイト辞めたんですよ。実家に帰る事になったからって……」
「──は?」
告げられた衝撃的な言葉に、俺は唖然と目を見開いた。
バイト辞めた? 実家に帰る?
待て、そんなの全く聞いた覚えがない。
それに、『今夜はバイトで遅くなります』ってメッセージが、ついさっき来たはず──。
──おやすみ。さよなら。
その時俺の脳裏を駆けたのは、昨晩の彼女が告げた、別れ際の言葉だった。
(……え……?)
途端に、俺の胸は焦燥感で満ちる。
おやすみ、さよなら──そんな彼女の言葉が頭の中を巡った。
ぐるぐる、何度もハナコの声が響いて、飛び交って、繰り返して。
やがて浮かび上がったのは、昨晩の彼女の哀しそうな微笑みと──俺が最も恐れている、最悪の可能性。
『──おやすみ。さよなら』
まさか。
「……アイツ、まさか……っ」
ぞっと背筋に悪寒が走り、俺は即座に地面を蹴った。
背後から女店員が何かを叫んだが、それすら耳には届かない。彼女に構わず道を曲がり、緩やかな坂道を全力で駆け抜ける。
同時にスマホを手に取り、ハナコにすぐさま電話をかけた。
だが、何度呼び出しを繰り返しても彼女の応答はない。既読がついたままのメッセージにも、返信がない。
頼む、勘違いであってくれ。
俺の思い違いであってくれ。
──そこに居てくれ。
「はあっ、はあっ……!」
全力で坂を登りきり、アパートの階段も駆け上がる。ハナコの部屋の前でようやく足を止めた俺は、ピンポン、ピンポン、と何度もインターホンを鳴らした。
しかし反応はなく、扉を強く叩いても、中からは物音ひとつしない。
「ハナコ!! 居るか!?」
大声で呼びかけても、結果は同じだった。俺は焦りを募らせ、ダメ元でドアノブに手を掛ける。
刹那──なんと、部屋の扉が容易く開いた。
「……っ!」
まさか開くとは思わず一瞬硬直したが、すぐさま我に返って中へと踏み込む。「ハナコ!!」と彼女に呼びかけ、小さな冷蔵庫とダンボール以外に何もないリビングを駆け抜けて寝室の
そこにも、やはりハナコの姿は無い。部屋の真ん中には薄っぺらい布団が畳んであるだけで──しかしその上に、何らかのメモのようなものが残っていた。
俺は息を呑み、それを手に取る。
──約束、守れなくてごめんなさい。
たった一言、それだけが記されたメモ。俺は表情を歪め、ぐしゃりと紙を握り潰して身を
「何でだよ、くそ!!」
部屋を飛び出し、再び階段を駆け下りる。噴き出す汗を拭い、縋る思いでスマホを耳にあてた。だが、やはりハナコは答えない。
苦々しく舌打ちし、俺はスマホに表示された別の名前をタップする。なりふり構ってなどいられず、繰り返すコール音の先にいる男の応答を待った。
程なくして、電話に出たのは──九龍で。
『……もしもし? 何だよ、恭介から電話かけてくるとか珍し──』
「九龍!! お前、ハナコが今どこに居るか分かるか!?」
行く宛もなく走りながら怒鳴るように問い掛ける。すると九龍は『……はあ? 知らないけど』と答えつつ、『何で?』と問い返した。
「……っ、はあ……っ、ハナコが、居なくなった……!」
『……あ?』
「勝手にバイト辞めて、置き手紙残して、どっかに消えた! アイツ、死にに行ったのかもしれない……! 早く追いかけねえと……っ、追いかけねえとハナコが!!」
『待て、落ち着け。お前、今どこ』
九龍は些か低い声で冷静に問いかける。俺は乱れる呼吸を整えつつ立ち止まり、周囲を見渡した。
そこは、4月にハナコと花見に来た河川敷にかかる橋の上。
「……橋……っ、俺ん家の近くの、河川敷の橋の上……」
『……あー、あそこか。分かった、お前そこで待ってろ。あと、ハナコの顔が分かる写真とか持ってたら送って。今すぐ』
「はっ……!? 何で……」
『いいから送れバーカ。そんで、そこから一歩も動くなよ。じゃ』
──ブツッ!
通話はそこで途切れ、無機質な音を残してスマホは元の画面に戻る。
俺はまだ九龍の思惑を理解出来ずにいたが、写真を送れ、という彼の指示にはとりあえず従い、すぐさま自身のスマホに保存されている写真を見返した。
“お気に入り”のフォルダにカテゴライズされたハナコの写真は、何枚かある。
俺の部屋で眠る無防備な寝顔。
水族館でクラゲを眺める華奢な後ろ姿。
バイト帰りに猫と戯れて、柔らかく笑う顔。
──ああ、猫を見て笑ってるこの写真なら、ちゃんと顔が分かる。
そう考え、俺はその写真を九龍に送った。既読はすぐについたが、返信はない。
「……ハナコ……」
俺は眉根を寄せてその場にしゃがみ込み、力無く呟く。
スマホの中で猫を見て笑う彼女は、こんなにも自然な笑顔を浮かべているのに。
これが、俺には引き出せなかった。
俺の料理だけじゃ届かなかった。
最近は特にそうだ。取り繕った笑顔ばかり。
(おかしいって、ずっと気付いてた癖に……何でこうなるんだよ……!)
いつもそうだ、俺は。
アキの時もそうだった。
死の予兆に気付いていながら、中途半端に手を差し伸べて、最後の最後でその手が届かない。
また繰り返すのか?
また、目の前で手放すのか……?
「……っ、絶対に嫌だ……!」
拳を握り込んで口走った瞬間、その場にはクラクションの音が響く。
「──恭介!」
「!?」
「乗れ!」
不意に目の前で白いセダンが停車した直後、スモークガラスの窓が開いて九龍が声を張り上げた。俺は一瞬息を呑んだが、即座に立ち上がって助手席に乗り込む。
刹那、俺がシートベルトを締めるのも待たずに九龍はアクセルを踏んだ。
「九龍、お前、何でここに……」
「たまたま近くに居たんだよ。つーかそんな事より──見つけた。ハナコ」
次いで告げられた言葉に、俺は目を見開く。
「はあ!? なんっ……お前どうやって……!」
「ばァーか、俺の情報網ナメんじゃねーよ。100人以上の大規模グルチャのいくつかにハナコの写真送りつけて、どっかで見なかったか聞きまくった」
「……!」
「祭りのおかげで、今日はみんなこの辺歩いてるからね〜。割とすぐヒットしたわ。この道の先で目撃証言アリ、一眼レフのカメラ持って丘の上に登ってったって。そのカメラに心当たりは?」
「……ある」
法定速度ギリギリで車を飛ばす九龍に頷けば、「ほら、当たりじゃん?」と肩を竦めて笑った。
一眼レフのカメラ。
最初にハナコがベランダから飛ぼうとした時も、大事そうに抱えていたもの。
俺は歯噛みし、苦く口火を切る。
「……アイツ、初めて会った時も、あのカメラと一緒に身投げしようとしてた。何が映ってるのか、知らねーけど……」
「……」
「悪い、九龍……俺……っ、アイツの事止められなかった……! アイツを守るって、ちゃんと誓ったのに……また……」
「──守るよ、お前は。絶対守る」
九龍はまっすぐと前を見つめたまま、鮮明に言葉を紡いだ。「え……」と顔を上げれば、彼は更に続ける。
「何弱気になってんだバカ。言い訳すんなら全部手遅れになってからにしろ」
「……っ」
「ハナコは、まだ逃げないよ。アイツには未練も迷いもきっと残ってる。……特に、お前への未練がな」
九龍はそこまで続け、サングラスを取って目を細めた。
「お前、ハナコに自分の事話した事あんのかよ。アイツの事、強引にでも聞き出そうとした事あんのかよ」
「……っ、それは……」
「無いんだろ、知ってるよ。ハナコが言ってた、『恭介さんは相手の許容範囲を明確に線引きして、それ以上は絶対に深入りしない』って」
「……!」
「お前は優しさのつもりかもしれないけど、そうやってお互いの心に深入りしなかったから、アイツはお前の事を誤解して居なくなったんじゃねーの」
俺もずっと誤解してたし……とか細く続けて、九龍は細い小道の脇でブレーキを踏む。小高い丘の上の公園へと続く階段の前、彼の車は動きを止めた。
「ハナコ、この上に登ってったらしい。さっさと行け、そんで殴ってでも止めてこい。止められなかったら俺がお前を殴る」
「……九龍……」
「ハナコに死なれちゃ困んの、俺。高級ハンカチの弁償代、まだ1万円分返済が残ってるから」
へらりと笑い、九龍は俺の背中を押す。俺はぐっと言葉を詰まらせたが、すぐに深く頷いて車の扉を開けた。
「──ありがとう、九龍」
最後にそれだけ呟き、車を飛び出す。そのまま石造りの薄暗い階段を全力で駆け上がった。
この先に居るであろう彼女を思い、俺は強く奥歯を噛み締める。
──なあ、ハナコ。
俺、お前に遠慮し過ぎてたのかな。
約束を取り付けて。
決まり事で縛って。
そうやってお前を守っていたつもりが、実は、お前を苦しめていたのかもしれない。
なあ──“私にはもう何もない”なんて、そんな事言うなよ。
からっぽなら埋めてやる。
俺が約束してやる。
欠けたお前の心を、今度こそ、俺が満たしてみせるから。
だから──
俺と、生きろよ。
「──絵里子ォ!!」
階段を全力で登り切った、丘の上の柵の向こう。
泣きながらカメラを抱き締めて震えていた、華奢な君の手を──俺はまた、繋ぎ止めた。
.
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