第45話 910〈side 恭介〉

『ここから飛んでも死ねねえぞ!! 怪我してただ痛いだけだ!!』



 ──それはあの日、俺が一番最初に絵里子へ放った言葉だ。


 ベランダの仕切りから身を乗り出し、震える彼女の手を取った。細くて、小さくて、すぐに壊れそうで。


 涙を落とした彼女と目が合い、青ざめて震えるその様子に、まだ死を覚悟しきれていないのだと瞬時に悟った。迷いがあるのだと、そう思った。


 迷いがあるなら、まだ救える。


 俺でも空白を埋められる。


 絶対に俺がお前を繋ぎ止める。



 ──そう、きっと、今だって。



「……っ、やっと、見つけた……!」



 息を荒らげ、力無く声を絞り出して、俺はようやく掴み取った彼女の手を強く握り締める。絵里子は表情を歪め、「どうして……」と呟いて俺の手を振り払おうと足掻いた。


 だが、俺は離さない。



「嫌っ……! 離してください!」


「ざっけんな!! 絶対に嫌だ!!」


「どうして来たんですか! 私なんかっ……私なんか本当は見てない癖に!!」


「何言ってんだ、見てるよ!! 俺はお前しか見てな──」


「──嘘つき! 私にアキさんを重ねてるだけじゃないですか!!」



 悲痛に声を荒らげ、絵里子は涙を落として俺を睨んだ。その発言に俺は一瞬言葉を詰まらせたが、ようやく彼女の抱いている誤解がすとんと腑に落ちる。


 ──ああ、本当だな、九龍。


 一定の距離を保ったまま言葉で伝えていなかったせいで、俺がコイツを苦しめてたんだ。



「……違う」



 呟き、握り取った手の力を強める。絵里子は肩を震わせ、嗚咽をこぼして俯いた。



「……ひっ、ぐす……っ」


「……違うよ、絵里子。俺は、アキとお前を重ねたりなんかしてない。アキの代わりだなんて思ってない」


「……っ、嘘だ……っ、信じません……」


「嘘じゃない。俺は、お前しか見てない。……絵里子にしか、こんな気持ちにはならない」



 力無く俯く絵里子に一歩近付き、逃げようとする体を引き寄せる。絵里子、と本来の名前を優しく紡げば、「こんな時ばっかり、絵里子って呼ばないで……」と弱々しく彼女はかぶりを振った。



「……ううん、呼ぶ。俺はちゃんと絵里子と話してるって、お前に分かって欲しいから」


「……っ、そんなの、嘘だよ……」


「嘘じゃない。俺は今、絵里子を見てる。絵里子に触れてる」



 後退しようとする彼女の背中に手を回し、強引に抱き上げる。低い柵の向こうに居た体をそのまま安全な場所まで移せば、絵里子は再び抵抗した。



「やっ……! 離して!」


「嫌だ、離さない」


「ぐすっ……嫌……! 離してよ……っ、ばかぁっ……!」


「信じて貰えるまで、絶対離さない。──俺は、お前の事がどうしようもなく好きだって」



 今まで言わなかった言葉をはっきりと告げ、絵里子の背中を古びた休憩スペースの柱に押し付ける。間髪入れずに唇を奪い取れば、彼女の体が強張ったのが分かった。


 くぐもった声を上げ、小さな抵抗も感じたが、それすら無視して唇を何度もついばむ。すると次第に絵里子の抵抗は弱まり、柱に背を付いたままゆっくりとその場に座り込んだ。


 優しく下唇を食みながら、彼女の目を見つめる。薄く開いた茶色い瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちた。



「……俺とキスするの、嫌?」



 小さく問えば、絵里子の表情が切なげに歪む。やがて力無く、彼女は首を横に振った。


 ──嫌じゃない。


 消え去りそうな声で答えた彼女に、俺は口角を上げて再び唇を重ねる。

 赤みの増す絵里子の頬を撫で、鼻先の触れ合う距離で、俺は言葉を紡いだ。



「アキには、こんな事出来なかった。しようと考えた事すらなかった。……俺にとってアキは、一番大事なだったから」


「……、ともだ、ち……?」


「そう、友達。……でも、絵里子は違う。いくらでもこういう事がしたいし、俺だけを見ていて欲しいと思う。……お前を、愛しいと思う」



 熱い頬に触れたまま、細い首筋に唇を押し付ける。絵里子は息を呑んでたじろいだが、抵抗は感じなかった。



「……俺は、絵里子が好きだよ。アキじゃなくて、絵里子を見てる。ずっと、お前を見てる」


「……っ」


「ごめんな、絵里子。俺が、自分の事何も教えなかったから……お前を不安にさせたよな。ごめん……」



 華奢な体を強く抱き締め、柔い髪を撫でる。絵里子は固まったまま何も言わず、俺に大人しく身を預けていた。


 熱を帯びる頬にぴたりとくっつき、俺は彼女の耳元で問う。



「……まだ、信じない? 俺がお前の事好きだって」


「……」


「なんか言えよ。ずっとキスすんぞ」


「……っ」


「それとも、もっとされたい?」



 いつもの調子で軽くからかえば、途端に絵里子は耳まで真っ赤に染め上げてぺちっ、と俺の胸元を叩いた。いつも通りの愛らしい反応に、俺は心底安堵する。


 こういう反応が可愛くて、ついからってしまう。


 すぐ赤くなる頬に触れたいと思ってしまう。


 なあ、俺、やっぱお前が好きだよ。


 何も言わない彼女の耳元にそっと唇を寄せ、俺は更に声を紡いだ。



「……9月10日。何の日か、知ってる?」



 問えば、絵里子はぴくりと反応して言い淀む。しかし程なくして、ようやくおずおずと答えた。



「……恭介さんの、誕生日。……それと、アキさんの……命日」


「うん。そうだけど、違う」


「……え?」


「9月10日は──」



 ──俺とお前の、“約束”が終わる日だ。



 はっきりと耳打ちすれば、絵里子が涙の溜まる瞳を見開く。俺は破顔し、そのまま続けた。



「覚えてないかもしれないけど、お前と最初に約束した日、3月10日だったんだよ。それからちょうど半年後が、9月10日」


「……うそ……じゃあ、ポストのロックも……アキさんの事を思って、あの日付に合わせたわけじゃ……」


「……あー、なるほど。そういう勘違いしたわけか……、違うよ。お前と約束した後で、あの番号にしたの」



 唖然とする絵里子に告げて、俺は目を細めた。



「俺、ずっと誕生日が嫌いだった。アキが死んで、九龍との友情も壊れて、何もかも失った日だったから」


「……」


「でも、お前が現れた。お前と出会って世界が変わった。二人で交わした約束の期限日が、偶然あの日と同じになって……大嫌いだった9月10日が、俺にとって何よりも大事な日になった」



 腕の中の絵里子を更に強く抱き締める。


 か細く嗚咽を噛み始めた彼女は、ついに涙をぼろぼろと落とし、本格的に泣き出してしまった。



「俺はお前が大事だよ、絵里子。誰よりも、何よりも、お前が好き。お前を愛してる」


「……っ、ふ、う、……っ」


「最後まで守らせろよ、俺に。約束も、お前も」


「うっ、えぐ……っ」


「そんで、その先も俺と居ろよ。約束がなくても、一緒に居てくれよ。……ずっと、俺が守るから」



 とん、とん、と背中を叩き、泣きじゃくる絵里子を優しく包み込む。


 子供のように声を上げて泣く事はなかったが、彼女が顔を押し付けている俺の胸元は、大粒の涙でびっしょりと濡れてしまっていた。


 泣きたい時は泣いていい。

 無理して笑わなくていい。

 素のままのお前が、俺は好きだよ。


 抱き寄せたまま囁いて、震える彼女を落ち着かせる。

 やがて、ようやく彼女が落ち着きを取り戻した頃──俺はついに切り出した。



「……なあ、教えてくれよ。お前が死にたい理由」



 自ら線引きしていた境界を踏み越え、彼女の核心に迫る。


 腕の中の絵里子はびくりと肩を震わせたが、構わず俺は踏み込んだ。



「原因は何? あの元カレか? 上辺だけの友達か? 地元に残してきた家族? 出来のいい妹?」


「……」


「それとも──そのカメラか?」



 絵里子を腕の中から解放し、俺は彼女と共に抱き込んでいた一眼レフのカメラを見下ろす。絵里子は表情を苦しげに歪め、カメラを強く抱き締めた。


 だが、何も答えない。



「……言いたくない?」


「……」


「……でも、だめ。今はから、決まり事は適用出来ない。……言って、絵里子」



 ──俺も一緒に背負うから。


 正しい彼女の名を紡ぎ、俯く顔を覗き込む。

 その言葉の直後、絵里子の瞳はぐらりと揺らいだ。


 そのまましばらく黙り込んだ彼女だったが、俺が全く引く様子を見せなかったため、とうとう観念したのだろう。


 瞳を潤ませ、何度か躊躇する様子を見せながらも──ようやく、絵里子は小さな声を絞り出した。



「……大事なもの、だったんです……」


「……」


「……ううん。大事に、してあげたかったんです……」



 絵里子はぽつぽつと言葉をこぼし、そっとカメラの電源を入れる。ダイヤルを『再生』に合わせ、映し出された画面を見下ろして、彼女はぽたりと一粒の涙を落とした。


 黒いばかりの画面。

 遠目から見た俺は、一瞬、そこに何が映し出されているのか全く分からなかった。


 風景ではない。

 人の写真でもない。

 小物や、動物を写したものでもない。


 だが、程なくしてそれが“何”なのかを理解した途端──ドクッ、と心臓が鈍く音を立てて軋んだ。



「……!!」


「一緒にいてあげたかったの……ずっと、愛してあげたかったの……」


「……っ、絵里子……」


「あの子だけは、きっと……私を一番に求めてくれていたはずなの……っ」


「絵里子、これ……っ!」



 どく、どく、と心臓が重く音を立てる。


 つうと流れた汗が、肌の上を滑り落ちていく。


 絵里子は諦めたように顔を上げ、ぐにゃりと下手くそな笑みを浮かべた。



「……名前は、ヒマリといいます」


「……っ」


「女の子か、男の子かは……分かりません」



 息を呑み、俺は再びカメラの画面を食い入るように見つめる。


 ……ああ、そうか、これが。


 これが──お前の、死にたい理由なのか。




「──私の、子供です」




 哀しく笑った彼女の腕の中。


 大事に抱かれた一眼レフのカメラに、たった1枚、残されていたのは──


 ほんの小さな“命”の欠片が写り込む、胎内の、エコー写真だった。




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