第46話 からっぽになった日

 あれは、去年の12月の終わり頃。



「……妊、娠……?」



 ──吉岡 絵里子、高校3年生。


 発育途中の体に小さな“命”を身篭ったのだと知ったのは、肌寒い冬の夜の事である。


 “陽性”の反応を示す使用済み検査薬を凝視した私は、慌ててそれを袋に詰め込み、外から見えぬよう取手をきつく結んでゴミ箱の奥に押し込んだ。



(妊、娠……)



 頭の中で繰り返し、腹部に触れる。


 この中に子供がいるのだと考えると、先の見えない未知の恐怖で体が震えた。父親は確実に航平だ。それ以外に覚えはない。


 待って、どうすればいいの?

 私まだ18歳だよ。


 春からは美術系の専門学校に進学する。

 アルバイトはしてるけど、貯金なんて全然ない。

 そもそも親がこんなの許すわけない。


 航平が知ったらなんて言う?


 ……喜ぶわけないよね。


 だって、航平は私よりも──。



「……ねえ、お姉ちゃん。どうしたの、トイレに閉じこもって……体調悪い? 大丈夫?」


「!」



 ふと、心配そうな律香りつかが扉の向こうから声をかける。

 私はきゅっと唇を噛み、強引に笑顔を作った。



「……う、うん。大丈夫だよ。心配しないで、律香」



 優しくて、可愛くて、誰にでも愛される妹が──私には眩し過ぎて、辛かった。




 * * *




 ──後日。


 こっそりと受診した病院で貰ったエコー写真を机の引き出しの奥に隠した私は、毎日ベッドに転がっては溜息をつく日々を送っていた。


 家族や友人、子供の父親である航平にすら打ち明ける事が出来ないまま、時間だけが刻々と過ぎる。


 幸いにもつわりは軽く、たまに具合が悪くなる程度で日常生活に大きな支障はなかったが──たった一人で抱え込んだ不安と焦りは、日に日に膨らみを増していった。


 そして、妊娠判明から2週間。


 私はついに覚悟し、航平に切り出す。



「……ねえ、航平」


「んー?」


「も、もしもの話なんだけど……私が、妊娠したら……どうする?」



 二人きりの帰り道、真っ赤な陽だまりが照らす道の途中で彼に問いかける。航平は一瞬きょとんと目を丸め、ややあって「何それ」とおかしそうに笑った。



「将来の事? 結婚しようとか言わせるつもり? あはは、したたかだなー、絵里子」


「ち、違うよ、将来の事じゃなくて……もしも、今妊娠したらって話で……」


「えー? 悪いけど、俺そういう冗談好きじゃないや。つーか普通に考えて無理っしょ、このタイミングで子供とか。俺大学行くし、産むのはまず無い」



 航平は笑い、平然と告げる。私は息を呑み、頬を引きつらせた。



「……そ、そっか、そうだよね……。それ、もし妊娠したら……堕ろせって、事だよね……?」



 強引な笑顔を作ったまま、問いかける。すると航平は足を止めて振り向き、笑顔で答えた。



「──うん。ごめん」



 何の悪びれも無さそうに。

 さも他人事のように。

 航平は頷き、また歩き始める。


 私は一瞬言葉を無くしたが、「つーか、何でそんな事聞くの?」と尋ねる彼の声によって我に返り、再び笑顔を取り繕った。



「……う、ううん、別に。そういう映画見たから、つい気になって」


「ふーん、あっそ」



 興味なさげに相槌を打ち、航平は私よりも大きな歩幅で淡々と前を歩く。


 苦い、苦い、嘘をついた。

 分かっていたのにショックを受けた。


 本当に航平は私に興味がないのだと、まざまざと実感して胸が苦しくなる。



(……分かってたけど、痛いや……)



 彼にとって、一番大事な人は私じゃない。


 親も、私より出来のいい律香を一番に愛しているに違いない。


 友達だって普段は仲良くしてくれるけれど、私はいつも「ついでに」誘われる程度の存在で、誰かの一番にはなれない。



(……私の事なんて、誰も──)



 一番に想ってはくれない。


 そう思い至った時、まるで私の心の声に答えるように、お腹の中が音を立てた。



 ──ぐうぅ。



「……!」



 ぴたりと足を止め、今しがた呻いたお腹を押さえる。

 たった一瞬、たまたま偶然、私の心に答えるようなタイミングで鳴いた自身の下腹部を──私は黙って見下ろした。



(……今、何か、言ってくれた……?)



 ぱちりと瞬き、お腹をさする。


 この中に居るのは、私の子供。

 私を愛していない男との間に出来た、子供。

 けれどこの子にとっての母親は、世界に私一人しかいない。


 ──そうだ。この子にとっての一番大切な人は、今、私一人しかいないんだ。


 そんな当たり前の事に、私はその時ようやく気が付いた。



「……あなたは、私の事、一番に愛してくれるの……?」



 ぽつりと呟き、腹部を撫でる。すると不思議と愛おしさが募り、まだまだ小さな自分のお腹を私は思わず両腕で抱き締めた。


 ──この中に、子供がいる。


 それまで恐怖でしかなかったそんな未知なる感覚は、あの瞬間にぱちんと弾けて母性に変わったのだと思う。


 この子を愛してあげたいと、強く感じた。


 産んであげたいと、そう思った──。



 その後は航平から逃げるように家に帰り、自室に駆け込んで机の引き出しを開ける。


 病院で受け取ってから隠したままだったエコー写真を取り出した私は、クローゼットの中から貰い物の一眼レフカメラを引っ張り出した。


 これは叔父からのお下がりで、美術系の学校に行くなら役立つかもしれないからと譲り受けたものだ。データは消去してあるらしく、中には何の写真も残されていない。


 貰って以降一度も使っていなかったそれだが、ようやく使い道が出来たと私は微笑んだ。



「これから大きくなるまで、君の事、このカメラでたくさん写真に撮ってあげるからね」



 ──陽葵ひまり


 私のお腹の中に暖かく差し込んだ、陽だまりみたいな君に、そんな名前をつけた。


 そしてあの日、私は、君の最初の写真を撮ったんだ。



 ──カシャ。



 まだまだ小さな“命”の欠片が映り込む、エコー写真。


 それが、君を写した、最初で最後の思い出だった。




 * * *




 結局誰にも打ち明けられないまま、1ヶ月の時が経つ。


 妊娠10週目。

 まだまだお腹が膨らむ気配はないが、そこに陽葵が居るのだと思うだけで心が満たされた。


 しかし、それと並行して季節も移り変わり、卒業の時期も近付いてくる。


 お金の事、進路の事、育児の事──周囲に妊娠を打ち明ける事。


 その全てをおざなりにしたままで良いわけがなく、私はそっとお腹を撫でた。



「……ちゃんと、言わなくちゃ……」



 溜息と共に呟いた、その時。


 コンコン、と部屋の扉を叩く音が響く。



「……お姉ちゃん、入るね」


「!」



 返事も待たず、暗い面持ちで部屋に入ってきたのは妹の律香だった。彼女は俯きがちに歩み寄り、私の座椅子に腰掛ける。



「……? ど、どうしたの、律香。珍し──」


「──お姉ちゃんさ、妊娠してない?」



 直球で投げ掛けられた言葉に、私はひゅっと息を呑んだ。どうしてそれを、と口にする間もなく、「……やっぱりそうなんだね」と苦々しく律香は続ける。



「ごめん。見た。机の中の、エコー写真」


「……っ!」


「ねえ、どういう事なのお姉ちゃん。いつから? 相手は誰? まさか航平先輩?」


「……り、律香には、関係な……」


「関係あるよ!! 家族だよ!?」



 律香は突如声を荒らげ、立ち上がって私に迫った。



「お姉ちゃん、ちゃんと分かってんの!? 妊娠だよ!? 産むにしても堕ろすにしてもお金かかるの!! それに学校どうすんの!? 結婚は!? 育児は!? 誰がすんの!?」


「……ど、どうにか、する……」


「どうにかって何!? 何も考えてないって事じゃん!! まさか産もうとか思ってる!? バカじゃないの!?」



 律香は今までに見た事もないような剣幕で怒鳴り、私の肩を掴む。震え上がると同時に「その子、航平先輩との子でしょ!?」と詰め寄られ、私は俯く事しか出来ない。



「絶対ダメだよ! あんな人がお姉ちゃんの事幸せにしてくれるわけない!! 絶対ダメ!!」



 ──うん。私もそう思うよ。



「お姉ちゃんは知らないかもしれないけどっ……あの人、お姉ちゃんの事が好きなわけじゃないんだよ!! お姉ちゃんを使って、私に近付こうとしてるだけなの!!」



 ──うん。知ってるよ。



「ごめんなさい、お姉ちゃんっ……! 初めて彼氏出来たって嬉しそうにしてるお姉ちゃんを傷付けたくなくて、ずっと、言えなくて……っ、ごめんなさいっ……」



 ──どうして律香が謝るの?



「こんな事になるならっ……もっと、早く言えばよかった……!」



 ──どうして、律香が泣くの?



 自分とよく似た幼い顔を歪めて泣き出した彼女に、私はそっと手を伸ばす。ぽろぽろと零れる涙を拭い、私は笑った。



「……大丈夫だよ、律香。泣かないで。私、がんばるから。どうにかするから」


「……っ、お姉ちゃん……」


「ん?」


「……何で、笑ってんの……?」



 目の前の妹の顔が、更にぐにゃりといびつに歪む。哀しみに満ちたその瞳は、やがて怒りを帯びてまっすぐと私を射抜いた。



「……お姉ちゃんって、いつも笑ってるよね」



 そして、静かに彼女は告げる。



「ずっとにこにこして、へらへらしてる。ずっとだよ? 嫌な事があっても、怖い事されても、ずっと」


「……り、律香……?」


「馬鹿なんじゃないの? なんでそうやって笑えるの? へったくそな顔でにこにこして。ほんとに馬鹿みたい。大馬鹿だよ、お姉ちゃん」



 早口で捲し立て、律香は涙を浮かべて私を睨んだ。そしてついに声を荒らげる。



「頑張るって何……いつもそうだよねお姉ちゃんは! 頑張る、大丈夫、ってその場しのぎの言葉ばっかり!!」


「……っ」


「本当の事言いなよ!! 本当は私に言いたい事たくさんあるくせに!! 私、何も分かんないよ、お姉ちゃんの事っ……!!」



 ぼろりと溢れ出した涙が、律香の頬を伝って次々に滑り落ちる。私が返答を躊躇って黙り込んでいるうちに、「堕ろして……」と彼女はか細く呟いた。



「……子供、堕ろしてよ、お姉ちゃん……」


「え……」


「あんな男との子供、産むべきじゃないよ!! そんな子供いらない!! お姉ちゃんの幸せを奪うだけじゃん!!」



 悲痛に訴えた彼女の発言に、私の頭が真っ白に染まる。



「目を覚ましてよ、お姉ちゃん! 何考えてんの!? おかしいよ!」


「……」


「産むなんて絶対だめ! 明日病院いこ!? お父さんとお母さんは私が説得するから、さっさとそんな子供堕ろし──」



 ──バシンッ!!


 刹那、私の手のひらが熱を帯びて痺れる。

 途端によろめいた律香は、唖然と目を見開き、言葉を失って私を見つめた。


 しん、と満ちる静寂。

 やがて彼女が自身の頬を押さえた事で、ようやく、私は律香の頬を平手でぶってしまっていた事に気が付く。



「……、あ……」



 ざわり、ざわめく胸。


 ごめんねとか、そんなつもりじゃなかったとか、焦りと共に様々な言葉が脳内を飛び交うが、どれも声に出す事が出来なかった。


 陽葵の居るお腹が、きりりと痛む。



「……っ!」



 唖然とした律香の視線に耐えきれず、私はとうとう立ち上がって身をひるがえした。そのまま部屋を出て走り去ろうとした私だったが、階段へと差し掛かった瞬間に「お姉ちゃん!!」と叫んだ律香がその腕を掴んで引き止める。



「待って、お姉ちゃん!」


「……っ、やだ、離して!」


「だめ、暴れないで、危な──」



 ──がくんっ。


 その時。突として律香の手が離れ、私の足は階段を踏み外した。

 世界の動きが一瞬止まり、何も聞こえなくなって、スローモーションみたいにゆっくりと景色が流れていく。


 あれ、私、浮いてる?


 そう考えた瞬間、宙に投げ出された体は浮遊感をなぞって真っ逆さまに落ちていった。


 ──ドンッ、ゴンッ、ガンッ!


 何度も物凄い音がして、頭が真っ白になって、多分きっとすごく痛かった。でも、あんまり覚えてない。


 意識がなくなる寸前、駆け寄ってきた律香が青ざめた顔で何かを叫んだのが見えて──



 ぷつり。



 線香花火の先っちょが落ちるみたいに、じゅわり、音を立てて、私の灯火は吹き消された。




 * * *




 ──次に目を覚ました時、私がいたのは病院のベッドの上。


 全身が痛くて、頭がぼうっとして、暫く何も考えられなかったけれど──病室の外で怒鳴り合う両親の声が、鮮明に耳に届いていた。



「──あなたのせいよ! あなたがちゃんと絵里子に構ってあげなかったから!!」



 悲痛に響く、母のヒステリックな叫び声。首は痛くて動かせず、視線だけをゆっくりと扉の奥へ向ける。


 するとすぐに父の反論も耳に届いた。



「はあ!? 何言ってるんだ、俺のせいだって言うのかよ! お前がちゃんと見ておかなかったからだろ!」


「私はずっと絵里子に寄り添ってあげていたわ! あんな子になったのはあなたのせいだとしか考えられない!!」


「俺だって働きながら家族との時間を作ってやっただろ! 誰の稼ぎで生活できてると思ってんだ!?」


「私だって働いてるのよ! それに私、知ってるんだからね! あなたが部長の奥さんと──」


「もう、やめてよ! お父さん、お母さん! お姉ちゃんに聞こえちゃうよ……!」


「あんたは黙ってなさい! もういいのよ、あんな親不孝な子……!」



 ──うちには必要ないわ……!



 怒鳴り合う両親。それを止めようとする律香。

 三人の会話を黙って聞きながら、私は目を細める。


 ああ、全部バレちゃったんだな──そう考えて、唇を噛みしめた。

 母の怒鳴り声はまだ続く。



「──妊娠して流産だなんて! なんて馬鹿な事っ……!」


「……おい、少し落ち着け。律香の言う通りだ、絵里子に聞こえたらどうする」


「触んないでよ! あんただってもう要らないわ、この浮気者!!」


「いいから、あっちで話そう。律香、お姉ちゃんについててやれ」



 そんな会話の後、すすり泣く声と共に両親の声が離れていく。元々不安定になりやすい母は、精神的にすっかり参っているようだった。きっと、全部私のせいで。


 ──妊娠して流産だなんて……!


 先程の母の言葉が、頭の中で何度も回る。



「……流、産……」



 呟き、痛む腕を動かして下腹部に触れた。いつもと同じ、小さなお腹。



「……ひまり……」



 呟いた名前。まだ見ぬ我が子の、愛しい名前。

 お腹を撫でて、何度かその名を呟いた。もう届かないと分かっているのに。


 あのね、陽葵、私ね。

 君と見たい景色がたくさんあったの。

 君を愛したかったし、君に愛されたかったの。


 私の陽だまり。守るべきもの。


 ああ、でも、だめだ……だめだったんだ。

 もう居ない。もう何もない。

 私の大事なものが、欠けてしまった。



「ひまり……」


「ひま、り……」


「……う、あ……っ」


「うあぁ……っ!」



 込み上げた涙が溢れ出し、こめかみに向かって流れていく。


 全部痛くて、にがくて、からかった。


 笑い方を忘れて、生きる力もなくしてしまった。



「うああぁぁっ……!!」



 その日、私のお腹の中は──からっぽに、なってしまったんだ。




 .

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