第28話 独りよがり〈side 恭介〉

 鳥羽と別れて数十分。最寄りのスーパーから出た俺は、すっかり日の沈んだ空を仰ぐ。


 家には昨晩から塩抜きしていたアサリがあるし、今夜はアクアパッツァにしよう。そう考えた俺は、スーパーで値引きされていた白身魚とミニトマトを購入したのだった。


 緩やかな登り坂、疎らな街灯の明かりが照らす道。

 いつものように淡々と、白線の内側を歩いて家路につく。


 やがてようやくアパートの敷地内へと辿り着いた頃、向かいの橋田さん宅からは相変わらず独特な笑い声が響いていた。

 何かテレビでも見ているのかもしれない。旦那さんを早くに亡くして一人暮らしなのだそうだが、橋田さんの家からはいつも楽しそうな声がする。


 年の功を重ねれば、たとえ大事な人を失っても、こうして笑って生きていられるのだろうか。



(……俺には、出来なかったな)



 そう考え、目を逸らす。


 幸い友人や家族には恵まれていたが、どんなに強く生きようとしても、いつもどこか心の奥がからっぽで。いっそ途中退場リタイアしちまおうか、と馬鹿な考えが過ぎった事もあった。


 そうだ。いつも、俺はからっぽだったんだ。


 ──あの日、ハナコに出会うまでは。



 最初にハナコに会ったのは、3月初旬の朝。“燃えるゴミ”の日。


 俺はふらりと外に出て、ゴミ袋を片手にゴミ捨て場へと向かった。そこで、ちょうど小さなゴミ袋を出したハナコとすれ違ったのだ。


 暗い表情、痩せた手足。短過ぎる滅茶苦茶な前髪に、毛先がバラバラな栗色のボブカット。

 ろくに目すら合わせず、黙ったまますれ違う。


 隣の部屋に誰かが引っ越してきたのは、物音や雰囲気で何となく察していた。随分若い女が引っ越してきたんだな、と、最初の印象はその程度だった。


 しかし、その直後。

 彼女が出したゴミ袋の中身を見て、俺の世界は変わる。



『……、ゼリー……』



 彼女が出したゴミ袋の中身のほとんどは、空になったゼリー飲料の残骸。


 俺はそれをよく知っていた。知っていたから、彼女の事が気になった。アキがいなくなってから初めて、俺の心が動いたんだ。


 だから俺は、あの時、彼女を追いかけて──。



「──恭介」



 ふと、背後から名前を呼び掛けられる。次いで鼻を掠めた香水の匂いに、物思いに耽っていた俺はハッと我に返った。


 振り返れば、やはりそこには予想とたがわぬ人物が立っていて。



「……九龍……」


「やっほー、元気ー?」


「……お前……! もうここには来んなって言っただろ!」


「くく、そんな怒んなよ。アパートの階段上がってないからギリセーフっしょ?」



 サングラスを取り、胸ポケットに引っ掛けながら彼は笑う。挑戦的な態度がしゃくに障り、眉間のシワを深めた頃──やはり気になるのは、いつもと同じ香水の匂いだった。



「……九龍」


「んー?」


「お前……に会った?」



 皆まで言わず、そっと問い掛ける。漂う香水の匂いは、確かにあの時ハナコが持ち帰ったものと同じ。


 九龍は暫く黙っていたが──ややあって、フッ、と短く笑った。



「──うん、会ったよ」


「……は……」


「最初は見た目フツーだな~って思ったけど、喋ってみたら案外可愛いじゃん? 俺ってば本気になっちゃうかも~、愛しのハ~ナコ♡」



 挑発的に口角を上げ、九龍はスマホの画面を俺に見せつける。


 その画面には確かに、驚いた顔をしたハナコと──そんな彼女の頬に九龍の、ツーショットが表示されていて。



(──は?)



 ぴきり、と。

 俺の胸の奥で、何かが音を立てて軋む。



「あーあ、ハナコってば可愛かったなあ~。ほっぺにチューしただけで顔真っ赤にしちゃって。あれさあ、全然オトコに慣れてないでしょ。すぐ落とせそー」


「……おい」


「ほっぺでアレなら、唇にチューしたら面白そうじゃない? どう反応すんのかなァ。あとさ、ハナコってめーっちゃ肌すべすべなの。綺麗だったな~、あのまま脱がせてぜーんぶ食べちゃえば良かった♡ 最近ああいうタイプの初心ウブな子抱いてないからさ、どんな顔するのか興味あ──」



 ──ガッ!!


 楽しげに続ける九龍の声を遮り、俺は思わず胸ぐらに掴みかかった。黒くけぶる感情を隠す事も出来ずに顔を近付け、「……九龍」と低音を発せば、彼の視線がゆっくりと持ち上がる。



「──お前、アイツに何かしたら殺すぞ」



 瞳孔の開き切った俺の眼球は、低くこぼれた言葉と共にまっすぐと九龍の目を射抜いた。


 宵闇に満ちる静寂の中、やがて九龍はくつくつと喉を鳴らす。



「……はあ? 何マジになってんの。お前ら付き合ってるわけじゃないし、別にハナコに“アキ”をわけでもねーんだろ? 恭介」


「……っ」


「ハナコってさあ、純粋で素朴なとこが可愛いよね~。何だろ~、この気持ち。俺、やっぱハナコにマジになっちゃったのかも♡ ……だからさあ、恭介、」



 ──ハナコの事、俺が貰っていい?


 そう耳打ちした九龍のドルガバの香水は、ふわりと香って鼻腔びこうの奥にまとわりつく。


 俺は一層強く彼の胸ぐらを掴んだが、反論する前に九龍が俺の言葉を遮った。



「クールでかっけー恭介くん、もちろん答えはOKっしょ? だって、んだもんねえ? 舞奈のこと貰っていいか聞いた時、そう言ってたじゃーん? 『好きにすれば』って」


「……っ、お前……!」


「あはは! キレんなよ、目がマジで笑える。つーか、離してくんない? 服伸びちゃう」



 九龍は目を細め、掴みかかっている俺の手を引き剥がす。乱れた襟元を正し、ふう~、と息を吐いた彼は不気味なほど穏やかに笑った。



「……っつーわけで、ハナコとの良好な交友関係は今後も維持させていただきますね~。独りよがりな罪滅ぼししちゃってる、勘違い系お世話係さん♡」


「……黙れ、“ハナコ”って呼ぶな……!」


「えー? 心外だなあ。別に恭介が水族館で『ハナコ~』って呼んでたのパクッたわけじゃないよ? 鼻血垂らして間抜け面してたから、“鼻たれハナコ”って呼んでるだけ~」



 くすくすと笑う九龍の手元のスマホには、『鼻たれハナコ』と名前が登録されたラインの個別トーク画面が開かれている。



『おはよう、鼻たれハナコ♡』



 そう打ち込まれた九龍の送信メッセージには“既読”の表示があり、『おはようございます』というハナコからの返信が残っていた。


 ハナコが返信している──その事実に、俺は目を見開く。


 待て、そんなわけない。

 だって、アイツのスマホは今、電源が入っていないはずだろ?


 俺は焦燥に駆られながら自身に言い聞かせたが、表示されているアカウントは明らかにハナコのものだった。俺は無意識のうちに表情を歪め、ちくりと感じた胸の痛みに歯噛みする。



「……アイツ……スマホの電源……いつ……」


「あー、あのスマホね。俺が電源つけてあげたの。めっちゃ号泣されちゃったけど~」


「……!」


「あれー? もしかして知らなかった? あはは、ごめんね~俺が先越しちゃって♡ 信用されてないのかなあ、恭介ったら」


「違……っ」


「ねえ、やっぱ俺にちょーだいよ、愛しのハナコ。カノジョじゃないなら良いっしょ? お前に止める権利ある?」



 にい、と九龍は不敵に口角を上げ、スマホをポケットにしまった。俺は眉根を寄せて俯いたまま、離れる彼の影を目で追う。



「さーて、言いたい事言ったし、そろそろ帰ろっかな。なんかごめんね恭介~、後からノコノコ出てきたくせに、大事な女の子と俺の方が仲良くしちゃって♡」


「……っ」


「あ、そうそう。舞奈だけどさ~、割と抱き心地良かったわ~。でもアイツちょっとメンヘラっぽいから、俺やっぱパス。ハナコに期待する♡ そんじゃね~」



 ひらりと手を振り、九龍の背中が離れていく。まるで浮雲のように掴み所のない彼の姿は、やがて角を曲がって見えなくなった。


 その姿を見送っても、胸の奥のざわめきは収まらない。黒く濁った感情が渦巻き、俺の知らない場所でハナコが九龍に何かされるのでは、と考えるだけで吐き気がした。



「……ふざけんな……」



 独占欲にも似たこの感情は、ハナコに対するそれなのか。それとも、アキに対するものなのか。ハッキリとした答えは出せない。


 けれど俺は、確かにあの日──目玉焼き陽だまりの乗ったハンバーグを食べながら泣いたハナコを、守りたいと思った。笑わせたいと思った。



 からっぽなら埋めてやる。


 俺が約束してやる。


 だから、俺に、半年だけ時間をくれ。



 ──自分だってからっぽなくせに、よくそんな言葉が吐けたと思う。


 これがただの罪滅ぼしでも、独りよがりでも、エゴでも自己満足でも何でもよかった。


 何でもいいから、俺は──あの日繋ぎ止めてしまった彼女の手を、まだ離したくない。



「くそ……」



 だが、延々と蔓延はびこるこの胸のざわめきは、まだどうにも収まりそうになくて。


 俺は舌打ちと共にスマホを取り出し、画面を操作して耳に当てた。数回の呼び出し音の後、程なくして相手との通話が繋がる。


 呑気に『どした~?』と尋ねてくるそいつに、俺は低い声で告げた。



「……鳥羽」


『んー?』


「──今日、やっぱ久々に飲み行くぞ」



 静寂の中で吹き抜けた湿気混じりのぬるい風が、雑木林の木々をざわざわと揺らしていた。




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