第29話 ナントカパッチャ

『今日、飲み行くから遅くなる。メシは作ったから、勝手に部屋で食って。俺のポストん中にカギ入れとく。ポストのロック解除は“0910”』



 恭介さんから届いていたそんなメッセージに気付いたのは、夜のバイトを終えた直後だった。


 そういえば、スマホの電源を入れて以降、恭介さんのメッセージを受信するのは初めてかもしれない。

 そもそも“友だち登録”すらまともにされていなかったらしく、『友だちではない人からのメッセージです』という注訳付きでメッセージが届いてしまっていた。


 慌てて申請を承認し、返信を打つ。



『了解しました。あと、スマホ、ちゃんと復活しました。今まで無視しててごめんなさい』



 そんな文面で送信されたそれには、すぐに“既読”の表示がつく。しかしそれ以降、彼からの返信はなかった。


 トーク画面を閉じ、小さく肩を落とす。



(恭介さん、飲み会かあ……。お酒弱いのに、大丈夫かな……?)



 そんな不安を胸に抱きつつ、再び私の視線はスマホへと移った。開かれたブラウザにはネットショップのページが表示されており、検索フォームには『水着』と打ち込まれている。


 検索結果として出てきた色とりどりの水着を眺めながら、私は嘆息した。



「……色々ありすぎて選べないや……」


「えーっ! 絵里子ちゃん、水着選んでんの!? どこ行くの!? プール!?」


「ふびゃああっ!?」



 直後、ぴとりと背中に引っ付いた人物の声に私は奇声を上げて大袈裟に跳ね上がる。


 早鐘を刻む心臓を押さえ、「あ、あ、浅葱あさぎさん!」と声を紡げば、瞳を輝かせた浅葱さんは更に密着した。



「きゃーっ、水着! いいなあ~! 海!? ナイトプール!? どこ行くの、誰と行くの! ねえねえ!」


「あ、う、え、えと……」


「もしかして彼氏!? 好きな人!? ラブ!? どっきゅん!?」


「か、か、彼氏ではないです!」



 かあっ、と頬に熱が集まる。そんな私を見た浅葱さんは、一層鋭く目を光らせてしまった。



「むむっ……これはもしや、オトコの気配……、ラブの匂いだわ!」


「ラ……!?」


「大変よ翔ちゃん! 絵里子ちゃんにラブの気配が! ライバル登場! コイガタキ!」


「ちょっ、な、何言ってるんですかぁぁ!?」



 暴走する浅葱さんを慌てて止める。一方で、藤くんは慣れているのか微笑ましげに目を細め、「うん、モモちゃん、仕事しようね」と軽く聞き流していた。……こういう所、本当に藤くんって大人だと思う。


 結局その後、浅葱さんは微笑む手塚さんオーナーによって引きずられるように仕事へと戻って行ったが、「絵里子ちゃん、またラインするから詳しく聞かせてねええ!」と最後まで大騒ぎしていた。


 そんな彼女に苦笑しつつ、私はバイト先を後にしたのだった──。




 * * *




 すっかり夜も更け、午後10時を過ぎた頃。


 ようやくアパートへと戻り、風呂や着替えを済ませた私は、恭介さんからのメッセージに従ってポストのロックを解除した。


 “0910”──9月10日?

 何か特別な日だったりするのかな。


 そんな事を考えながら、私は中に入っていた鍵を手に取り、そのまま彼の部屋の扉を開ける。



「お邪魔します……」



 小さく告げて、暗い部屋に電気を灯した。フローリングを踏み締め、いつものテーブルへと向かえば、卓上には綺麗な字で書かれたメモが残されている。



 ──冷蔵庫に、アクアパッツァとサラダがあります。



「……あくあぱっちゃ?」



 一体なんだそれは、と眉を顰めた。アクアパッツァ。まるで魔法の呪文みたい。


 首を傾げる私だったが、とりあえず指示された通りに冷蔵庫を開け、くだんのナントカパッチャ──もう名前忘れた、何パッチャだっけ──を取り出す。


 お皿に盛り付けられていたのは、白身魚の周りにアサリとトマトが散りばめられた何ともオシャレな一品だった。



(お、おいしそ……!)



 きゅるる、とお腹が鳴る。私はいそいそとそれをテーブルに移動させ、保温状態になっている炊飯器も開けてご飯をよそった。


 今日は結構忙しかったから、お腹すいちゃったな。



「……いただきます」



 椅子に腰掛け、いつもの挨拶を控えめに口にする。しかしもちろん返ってくる声はない。


 この数ヶ月、ずっと恭介さんと会話をしながら食事をしていたせいだろうか。一人きりの晩ご飯が、妙に寂しい。



(変なの……前は、一人でご飯食べるのなんか普通だったのに)



 そう考えながら口に含んだナントカパッチャは、あっさりしているのに濃厚な味わいですごく美味しかった。


 アサリはぷりぷりしているし、白身魚も身が柔らかい。煮汁には貝の旨みやバターの塩味がたっぷり含まれていて、やっぱり恭介さんは天才だなあ、と一人で頷く。


 彼がここに居れば、今頃「天才です!」と面と向かって褒めちぎっていた事だろう。そしてまた照れた顔で「大袈裟なんだよ……」と呆れられていたかもしれない。あの照れ顔、結構かわいくて好きなんだよね、と密かに私は微笑んだ。


 ほぐして口に運ぶ魚の身と共に、ご飯とサラダも少しずつ減っていく。


 頭の中で考えるのは、恭介さんの事ばかり。


 今頃、何してるかな。

 どこの居酒屋さんにいるのかな。

 誰と一緒に居るんだろう。


 ──女の子と、一緒だったり、するのかなあ。


 そう考えて、胸がきゅっと苦しくなった。



「……恭介さん……」



 まだ、帰ってこないのかなあ、と。


 そう考えた瞬間──家の外で、突如ガタガタッ! と何かが倒れるような音が響いた。



「……!?」


「あーっ、おい、恭介! お前、しっかりしろって……!」


「……、鳥羽さん……?」



 直後、耳に届いたのは鳥羽さんの声。何やら焦っているようなその声に、私は思わず立ち上がって玄関へと走る。


 そのまま扉を開ければ、ぐったりと力の抜けた恭介さんを支えた鳥羽さんと目が合った。



「あっ、カノジョちゃん!! 助かった、恭介ん家のカギ、どれか分かんなくて困ってたんだよ!」


「えっ……ええ!? あ、あの、これ、ど、どうしたんですか!?」


「それがさー、コイツ飲めねーくせにアホほど強い酒飲んじゃって……ご覧の通り、完全に撃沈ですわ」



 真っ赤な顔でもたれかかる恭介さんを呆れたように見て、鳥羽さんは肩を竦める。「なんか嫌な事あったんかなー」と彼が続けた頃、恭介さんは「うぅ……」と苦しげに呻いた。


 これはまずい、重症だ。


 そう考えて顔を青ざめていると、鳥羽さんは大きく溜息を吐き出す。



「ほんっと、急に呼び出されたかと思えば、よくわかんねーままいきなりヤケ酒し始めてさ。さすがに心配になって、こっちは1滴も酒飲めなかったわ」


「あわわ……えと、す、すみません……」


「かと思えば、2軒目でいきなり『のとこに帰る』って言い始めて。そのままエリコエリコ言い出したから、今タクシーで連れて帰ってきたとこ──」


「──……?」



 ぱちりと、大きく目を見開いて思わず言葉を遮った。


 すると鳥羽さんは「えっ!?」と頬を引きつらせる。



「あれ……!? も、もしかして、カノジョちゃんの名前じゃない……? “エリコ”って……」


「あ、い、いえ……私の名前ですけど……」


「そ、そうだよね!? はー、良かった、ビビった……俺、一瞬コイツが別の女の名前呼んでたのかと……」



 危ない危ない、と鳥羽さんは安堵の息を吐き出す。しかし、私はそれどころではない。



「……あ、あの……」


「ん?」


「恭介さん、本当に……“エリコ”って、呼んでたんですか……?」



 恐る恐ると問い掛ける。


 だって、出会ってから今日まで、彼は私の名前を正しく呼んでくれた事なんて一度もない。ずっと私は、彼の中で、『腹鳴はらなりハナコ』のはずなのに。


 しかし鳥羽さんは、さも当然のように頷いた。



「え? うん、フツーに呼んでたよ? ってか、エリコって呼び方以外聞いた事ないけど……」


「……っ」


「……あ! 俺、下にタクシー待たせてあんの! ごめんけど、あとは任せていい? 最悪水飲ませてトイレに突っ込んどきゃいいから!」


「あ……は、はい!」



 鳥羽さんは恭介さんを寝室まで運び、「ごめんね、よろしく!」と手を振って部屋を出て行く。残された私はしっかりと扉を施錠し、すぐに恭介さんの元へと駆け戻った。


 耳まで真っ赤に染め上げ、ベッドに沈んでいる彼の顔を覗き込む。「恭介さん……」と控えめに呼びかければ、虚ろな瞳が私を映した。



「だ、大丈夫ですか……? 気分悪くない……?」


「……ハナコ」


「あ、はい……」


「ハナコ……」



 とろんとした恭介さんの目元。ゆっくりと瞬きを繰り返していて、今にも眠ってしまいそう。

 うわ言のように私の名前を繰り返す彼を心配しつつ、私は立ち上がって「お水、持ってきますね」ときびすを返そうとした。


 ──しかし、その直後。


 不意に伸ばされた彼の手は、私の腕を掴んで引き寄せる。



「えっ!? きゃっ……!」



 ──どさっ。


 抗えずベッドへと倒れた私は、同時に温かな体温に包み込まれた。


 ふわりと鼻を掠める、煙草とお酒の仄かな匂い。その中に恭介さんの服の柔軟剤の香りが混じって、密着する胸から伝わる鼓動の音がやけに大きく響いていて。


 ……え? 私、今、抱き締められてる……?


 そう理解した途端、頬にはふつふつと熱が迫り上がる。



「ひっ、あ、えっ、きょ、恭介さっ……!?」


「……ハナコ……」


「きゃっ……!」



 困惑する私などお構い無しに、恭介さんは私の体を更に強く抱き締めた。ワックスで固められた前髪が、つんと私の頬に触れる。


 え、え、ええ……!?

 ど、ど、どうしよう、近っ……!!


 と、脳内でパニックになる私の心情など彼が知るはずもなく。


 至近距離にある長いまつ毛が揺れて、黒い瞳が上向うわむいて。


 ひたい同士が、こつりと触れ合う。



「きょ、恭介さん……っ」


「……ハナコ……」


「な、なに……」


「……キスさせて」


「……、は……」



 ──キッ……!?


 唐突な発言に私は目を見張り、すぐさま「だめです!」と首を横に振った。すると彼は私の手のひらを握り、逃げられぬようベッドに縫い付けて覆いかぶさる。


 まるで押し倒されたかのような体勢になり、私の頬は一層熱を帯びた。



「……っ、きょ、恭介さん!? ちょっ……ま、待って! き、“決まり事”に違反してます! だめです!」


「……俺が触りたい。だから、


「そ、そんな無茶苦茶な……!」


「……ねえ。何で俺とはキスしないの。九龍とはしたのに」



 端正な顔が迫り、問い掛ける。

 私は頬を真っ赤に染め上げたまま、忙しなく視線を泳がせた。



「ち、違……! あれは、九龍さんが勝手に……」


「じゃあ、俺も勝手にしたらいい?」


「ええっ!? だ、だめに決まってるじゃないですか! そ、それに九龍さんはだったし……!」


「じゃあ、俺もほっぺにする。九龍にされたの、どっち? 俺が上書きして消毒したげる」


「な、な、何言って……!」



 普段では考えられないような台詞が次々と飛び出し、もはや混乱しすぎて目が回りそうだった。その間も恭介さんは手汗の滲む私の手のひらに指を絡め、顔を徐々に近付けてくる。



「選べよ。唇がいいか、ほっぺがいいか」


「よ、酔い過ぎですよ、恭介さん……っ」


「ああそうだよ、酔ってるよ。でも無理、ムカついてしょうがない……。何でよりによって九龍なの……何で俺、こんなムカついてんの……」



 力無く発し、恭介さんはくたりと私に寄りかかった。ムカつく……と何回も繰り返す恭介さんは、戸惑う私の目をじっと見つめる。



「……キス、したら怒る?」



 とろん、と眠たげに見つめる彼。色気すら孕むその問いかけに、私は息を呑んでたじろいだ。



「お、お、怒る……」


「ほっぺでも?」


「……う……」


「ほっぺもダメ?」


「……、ほ、ほっぺ、なら……」


「セーフ?」


「う、うん……」



 羞恥心に耐え、こくりと頷く。


 そうだ、彼は酔っていて、見境がなくなっているのだ。きっとそうに違いない。だってそうじゃなきゃ、私にそんな事聞くはずがないもの。



(い、1回だけ、ほっぺにキスしたら、きっと満足してくれるよね……?)



 真っ赤に染まっているであろう私の頬に、恭介さんの唇が降りてくる。その唇が頬に触れるまで、残り数センチ──というところで。


 彼の手は、突然私のあごを掴んだ。



「……!?」


「……ごめん、やっぱやだ」


「へっ……!?」


「──アイツと同じじゃ、嫌だ」



 ただ一言、そう発した彼の黒い瞳に射抜かれた、直後。


 降りてきた唇は──私の唇と、重なった。



(……えっ……)



 ぴたりと止まる、世界の動き。

 “決まり”を無視して触れ合う鼻先。


 一瞬でかすめ取られた唇は、すぐに離れて、けれどまた降りてくる。柔らかなそれは壊れ物にでも触れるかのような慎重な動きで、硬直する私の唇をついばんだ。


 お酒の匂い。煙草の匂い。

 止まったままの私の思考が、彼の香りで徐々に冷静さを取り戻し始める。


 そこでようやく我に返り、抵抗しなくては、と強く己に言い聞かせた。


 けれど──なぜだか、体は動かなくて。



「……ハナコ」



 吐息混じりの声が呼びかけ、答える間もなくまた唇を塞がれる。長いまつ毛を震わせながら閉じた瞼を持ち上げれば、切なげに見つめる彼と視線が交わった。



「怒っていいよ、俺の事……。あとで、たくさん怒っていい……」



 ──ごめんな、と。


 私の下唇を控えめにみながら、恭介さんが呟く。


 親に叱られた後の子供のような、切なくて苦しげな表情。頬に触れてくすぐったい、彼の黒い髪。


 長いまつ毛の奥に窺える瞳は、どこか寂しげに揺らいでいて。



(……なんで、そんな顔するの……?)



 泣き出す直前みたいなその顔に、私の胸がきゅうと狭くなる。項垂れる彼の後頭部へ、私は思わず手を伸ばした。



「私……“ハナコ”じゃないです……」


「……」


「……“エリコ”だもん」



 さらりと黒い髪を撫ぜ、気恥ずかしさに耐えながら拗ねた風にこぼす。すると寂しげだった恭介さんの目が、まるで眩しいものでも見るみたいに細められた。


 やがて彼は、「知ってるよ……」と答えて再び顔を近付ける。



「……ちゃんと、知ってる」


「……」


「……俺は、最初から──しか、見てないよ」



 自身に言い聞かせるように、確かめるように。

 正しい名前を初めて告げて、彼はまた、私の唇をそっと塞ぐ。


 リビングのテーブルの上には、まだ、食べかけのナントカパッチャが残されたまま。けれど舌の上に残るのは、彼の与える大人の味ばかり。



(お酒と、煙草って……こんな味、するんだ……)



 そんな事をぼんやりと考えた、その夜。


 私は、初めて──彼の用意した晩ご飯を、最後まで食べ切る事が出来なかった。




 .


〈本日の晩ご飯/アクアパッツァ〉

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