第30話 とんとんとん〈side 恭介〉

 頭が割れるように痛い。

 ふと意識が浮上した時、まず最初に感じたのはそれだった。


 低く唸りながら眉根を寄せ、重たい瞼を持ち上げれば、カーテンの隙間から漏れる陽の光が視界に入る。


 あれ、俺、昨日いつの間に帰ってきたんだ? ──そう考えて瞳を瞬き、響く頭痛に顔を顰めた瞬間。


 腕の中でもぞりとうごめいたの存在によって、俺の意識は瞬時に覚醒した。



「……え……、は?」



 すう、すう、と穏やかに繰り返される寝息。甘いシャンプーの香り。栗色の髪。


 大きく目を見開いたままその姿を確認し、俺は背中に嫌な汗を滲ませる。



 ──え? 待て。ちょっと待て。



 軽くパニックになる頭の中、俺は腕の中の人物をもう一度よく目を凝らして見つめた。だが、何度凝視したところで状況は変わらない。


 ここは俺の部屋。見慣れたベッドの上。

 そんないつもと同じ光景の中に──なぜか、ハナコがいる。


 それをようやく認識した直後、俺は一気に顔を青ざめた。



(えっ、待っ、えっ……!? な、何でハナコがここにっ……、いや、そもそも俺、昨日どうやって帰ってきた!?)



 焦燥を抱え、痛む頭に手を当てながら考えるが、答えは出ない。鳥羽と共に入った1軒目の居酒屋の途中から、完全に記憶が途切れてしまっている。


 もちろん、帰宅後にハナコと何があったのかも。



(ま、待て……! 俺、何もしてないよな? 服着てるし、そういうアレの痕跡はないし……!)



 と、そう考えた頃。

 不意に、腕の中のハナコが「んん……」とくぐもった声を発した。



「……!」


「ん……」


「……は、ハナコ……?」



 ぎくりと身を強張らせた直後、薄く開いた彼女の瞳と視線が交わる。ややあって、「恭介さん……?」と俺の名前を呼びかけた彼女だったが──途端に何かを思い出したのか、みるみるとその頬を真っ赤に染め上げた。


 やがて彼女は視線を泳がせ、「お、おはよう、ございます……」と消え去りそうな声を紡ぐ。


 その反応に、今度こそ俺の背筋は凍り付いた。



(……やばい。これ、絶対なんかあった)



 そう確信し、俺はすぐさま彼女から距離を取る。



「っ、ご、ごめん、ハナコ! 俺、何かした!? 何も覚えてないんだけど……!」


「……、え……? お、覚えてないんですか?」


「ま、全く……っつーか、帰ってきた記憶もない……。俺、何した……?」



 恐る恐ると口にした問い。

 ハナコは一瞬息を呑んだが、暫くしてまた頬を真っ赤に染めながら答えた。



「……っ、な、なにも……してません……」



 ──嘘つけ!!!


 明らかに不自然なハナコの応答に胸の内だけで絶叫し、俺は鈍く痛む頭を抱える。昨晩の記憶が一切思い出せぬまま、俺は「ほんとごめん……」と謝る事しか出来なかったのであった。




 * * *




 ──結局、昨晩俺とハナコの間に何があったのかは分からずじまいだった。


 かなりしつこく尋ねてみたが、彼女は頑なに「何もないです」の一点張り。だが、終始まともに視線が合わず、顔もいつも以上に真っ赤で。


 いや、絶対なんかあったじゃん……と俺は途方に暮れる事しか出来なかった。


 あのままハナコは家に戻り、絶賛二日酔いの俺はシャワーを浴びて大量の水を飲んだ後、死んだように二度寝して今に至る。


 時刻は夕方4時。

 未だに気分は優れぬまま、気だるい体を這いずって俺は起き上がった。



「……メシ、作んねーと……」



 ぽつり。自身に言い聞かせるように呟くが、やはり不調の体は重くて仕方がない。俺は嘆息し、もう二度と酒なんか飲まねえ、と固く心に誓った。


 するとちょうどそんな頃合で、部屋にはインターホンの音が鳴り響く。



 ──ピンポーン。



「……?」



 客人の訪れを報せる呼出音。俺はまだ口の中に残っている不快なアルコールの味を飲み込みつつ、玄関へと向かった。


 そのまま扉を開けてみれば──そこには、気恥ずかしそうに目を泳がせるハナコが立っていて。俺は思わず目を見開く。



「えっ……? ど、どうした? まだメシ出来てないけど……なんか忘れ物?」


「……あの」


「ん?」


「その……恭介さん、体調悪いんじゃないかなって、思って……」



 ご飯作りにきました、と。


 どこか緊張した面持ちでそう告げたハナコの手には、俺のよく行くスーパーの袋がぶら下がっていた。


 俺は一瞬硬直したが、「入ってもいいですか……?」と不安げに問い掛ける彼女と目が合い、「あ、どうぞ……」とつい扉を大きく開けて中へといざなってしまう。


 しかし流れのままに彼女を受け入れたところでふと、『いや待て、こいつ料理なんか出来んのか?』という根本的な疑問にぶち当たった。



「……っ、は、ハナコ! 待て! お前料理とかした事あんの!?」


「え? あ、ありますよ?」


「嘘!? 包丁とか使える!?」


「なっ……! つ、使えるに決まってるじゃないですか! もう、ばかにして……」



 こちらは大真面目に問いかけたのだが、どうやらハナコは馬鹿にされたと思ったらしく、ぷう、と頬を膨らませてむくれてしまう。


 その際ようやく彼女との視線が交わり、俺の胸はきゅうと一瞬狭まった。



(……あ、可愛かわ……)



 と、アルコールにむしばまれた脳みそがそんな考えを一瞬口に出そうとする。だがなんとか踏みとどまり、俺は緩みかけた口元を押さえた。


 ……俺、わりと好きなんだよな。ハナコの膨れっ面。


 なんて考えている間に、彼女はしっかりと手を洗い、鍋に水を張っていた。丁寧に袋から取り出したジャガイモを手際よく洗う姿があまりにも意外で、俺は目を丸める。



「……なんか、意外と慣れてる?」


「慣れてはないですけど……たまに、家で作ってたから……」


「そーなの?」


「うち、両親が共働きであんまり料理しない人達だったんです。でも妹がいたから、少しでも何か作って食べさせてあげなくちゃ、って思って、練習したというか……」



 簡単な料理しか出来ませんけどね、と付け加えたハナコは、ピーラーでジャガイモの皮を剥きながら苦笑した。そのまま続いた話によると、父も母も至って普通の、どこにでもいる優しい両親なのだそうだ。


 彼女の育った、家庭の話。

 以前、茶碗蒸しを食べながら問い掛けた時には語ろうとしなかった“家族”の話に、俺は密かに目を見張る。


 彼女の事情をすべて知っているわけではない。

 むしろ、俺は彼女の事を何も知らない。


 おそらく家庭環境があまり良くなく、家族と揉めて家出まがいの一人暮らしを始めたのではないかと勝手に勘繰っていた。

 だが聞く話によると、彼女の親はいわゆる“毒親”とか、そういう類の両親ではないらしい。その事実には少し安堵する。



「……お前、“お姉ちゃん”なんだな。末っ子っぽいのに」


「あはは……全然お姉ちゃんっぽくないですよね。よく言われるんです、妹の方が良いって。妹の方が偉いって……」


「いや、そんな事ねーよ。妹の事は知らねーけど、ハナコもちゃんとしてる。俺の体調気遣って、今もメシ作ってくれてるじゃん。偉いよ、ちゃんと」



 思った事を素直にそのまま口にすれば、ハナコは驚いたように振り返った。やがて彼女は頬を染めて眉尻を下げ、「……そんな事言うの、恭介さんぐらいです」とか細くこぼす。


 赤く染まる耳。白いうなじ。

 恥ずかしそうに目を逸らす仕草がいちいちいじらしくて、つい触りたくなってしまう。


 そう考えた時、ふと──の彼女の顔が脳裏を過ぎった。


 華奢な体を押さえつけられ、抵抗も出来ず紅潮した顔。潤んだ瞳で俺を見上げる、あの視線が──。



(……え……)



 不意に断片的な記憶が蘇り、俺は硬直した。え、待って、ちょっと待て、と混乱する頭の中、唇で触れた柔い感触も思い出す。



 ……あれ? 俺、昨日、アイツに──



 と、そこまで考えた俺は、直後にガバッ! と口元を押さえつけた。


 立て続けに次々と蘇る、昨晩の記憶。



(え、嘘、いや、待て。待て待て待て。俺、昨日……酔った勢いで、かなり強引に……キスした気がするんだけど……)



 ──それも、かなり長時間。


 そう思い出した途端、頬は一気に熱を持ち、口元を押さえる手が汗ばむ。


 長い口付けの末、最後には『恭介さん、もうむり、死んじゃいます……』と涙目で訴えていた彼女の声まで綺麗に脳裏で蘇り──とうとう俺は耐えきれずしゃがみ込んだ。



「──えっ!? 恭介さん!? どうしたんですか!?」


「……っだ、大丈夫……」


「た、体調悪いんですよね!? ご飯出来たら呼ぶので、あっちで寝ててください!」


「……はい、寝ます。……反省します……」



 俺は素直に頷き、ふすまを開けっ放しにしたまま寝室へと戻る。ハナコは心配そうに俺を見ていたが、笑って誤魔化して安心させてやる余裕も無い。


 これは、マジで反省案件だ。

 いや、ほんと何してんだよ俺、馬鹿なのか。



(いやいや、酔ってたとは言えさすがにキツい……絶対引かれた……。内心怖がってんじゃねーかな、俺の事……)



 ベッドに転がった俺は両手で顔を覆って猛省しつつ、台所に立つハナコの背中を指の隙間から盗み見る。


 ──とん、とん、とん。


 耳に届く包丁のリズムは、慣れていないようでどこかぎこちない。けれど指の隙間から覗く彼女の一生懸命な横顔が、胸をきゅうと締め付けた。


 心底、可愛いと思う。

 顔が、とかそういうのじゃなくて、まとう雰囲気とか、仕草とか。


 最初は全くそんなつもりなかったのに、最近はすぐに触りたくなる。そういった衝動を抑えるために“決まり事ルール”を作って己を縛り付けていた結果が、おそらく昨日のアレなのだが。


 ──とん、とん、とん。


 包丁のリズムは、不器用ながらも心地よく、まだ俺の耳に届いていて。同じように不規則な音を刻む胸の鼓動が、また俺によくない妄想をうながしてしまう。


 ……指の隙間から覗く彼女の全部が、俺のものだったらいいのに、なんて。



(……あー……なんか俺、変なスイッチ入ってる気がする……)



 からっぽだった胸の奥、突として浮かんだ陽だまりに、まるで目がくらむよう。


 二日酔いはしんどいが、彼女がこうして俺のために心配してくれるのなら悪くはない。「ほんと、酒に頼りすぎだろ、俺……」と密かに漏らした俺の呟きなど知る由もないであろうハナコの刻む音は、とんとんとん、といつまでも、俺の耳に響いていた。




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