第19話 リゾット
ふわふわ、漂ういい香り。
これはおそらくバターの匂い。それから、飴色に炒めた玉ねぎの匂い。
きっと、恭介さんがまたおいしいご飯を作ってるんだろうな。今日の晩ご飯はなんだろう? きゅうきゅうと空腹を訴えて、私のお腹が鳴いている。
──けれど、不意に背後から耳に届いた震える声が、私の背筋を凍り付かせた。
『……ひどい。話が違うよ』
振り向けば、哀しそうな目で私を睨む、髪の長い女子高生の姿。
きっちりと整えられた前髪に、胸の辺りで切り揃えられた内巻きの毛先。顔には薄く化粧を施していて、手には可愛らしい指輪が光っている。
見慣れた一眼レフのカメラを首に下げた彼女は、
『ねえ、忘れちゃったの……?』
震える声が問い掛ける。私は後ずさり、息を呑んだ。
今の野暮ったい私の短い髪の毛先は、長さもバランスも、めちゃくちゃでバラバラ。あの頃とはまるで違う。
丁寧にケアをして伸ばしていた綺麗な髪は、このアパートに越して来る前に自分で切り落とした。排水溝に溜まっていく栗色の髪の
『そんなの、ひどいよ、絵里子……』
「……っ」
『……ひどい……こんなはずじゃ、なかったのに……』
俯いて涙を落とす、過去の私。
一眼レフのカメラを持って泣き出した彼女に、私は何も言えなかった。
やがて彼女は、どこからともなく取り出した裁縫用の裁ち切りバサミを自分自身に向ける。大きく開かれた
──ジャキンッ。
音を立て、
私は目を覚ました。
「──あ、起きた」
「……、……」
ぼうっとする頭。はっきりしない視界。
何度かきょろりと瞳を動かし、周囲の状況を確認してようやく、私は目の前にいる恭介さんと視線が交わる。
「……きょ、すけ、さん……?」
「ん、何」
「ここ、どこ……?」
「俺ん家」
冷静に答えつつ、恭介さんは私の
「体調、どう? きつい?」
「……うん……、ううん……」
「いやどっちだよ」
ぽやんとした覚束無い頭の中で曖昧に答えていれば、ふと、恭介さんの手がビニール手袋で覆われている事に気付く。
私の肌に直接触れないための対策だろうか。どこまでも律儀な人だなあ、と考えながら、冷たいタオルの感触がひんやり気持ちよくて、再び目を閉じた。
「お前、うなされてたけど……本当に大丈夫か? 気分とか悪くない?」
「……あ……大丈夫、です……ちょっと、怖い夢、みて……」
「え、何? 夢?」
「うん……」
「ふはっ! なんじゃそりゃ、子どもかよ。おばけでも出てきた?」
目尻を緩めて笑う彼に、私は「おばけじゃないけど……」と眉尻を下げる。
思い出したのは、裁ち切りバサミで
「……おばけより、見たくない人……」
「人? どんな?」
「……」
自分です、とは答えられず黙り込む。やがておずおずと「決まり事の、『その3』を適用します……」と口にすれば、恭介さんはどこかばつの悪そうな顔で「あ、ああ……了解です」と目を逸らした。
決まり事その3──言いたくない質問には、答えないこと。
それが、私たちのルール。
「……顔、いつもより赤いな」
不意にまたぎしりとベッドが軋んで、更に身を乗り出した恭介さんが私の顔を覗き込んだ。普段より近くにある彼の顔をつい意識してしまい、一層頬には熱が集中する。
「晩メシ、食えそう? 一応作ったけど」
「……た、たべたい……です」
「ん、じゃあ用意する。ちょっと待ってて」
恭介さんは優しく微笑み、私の
そういえば、あの夢の中でも、恭介さんの料理の匂いがふわふわ漂ってたっけ。怖い夢の中なのに、どこからともなく漂ういい香りが、私を現実に導いてくれてた。
「……恭介さんって、たぶん……フライパンを持った、すーぱーヒーローなんだなあ……」
熱に浮かされた私の唇が、よく分からない言葉をぽつりと紡ぐ。
ぼうっと彼を見つめる私の視界の中には、猫背がちなその背中が、いつまでも映っていた。
* * *
「無理して全部食べなくていいからな」
そう念を押されながら用意されたのは、美味しそうなリゾットと、具沢山な野菜スープだった。
なるほど、夢の中で感じたバターの香りの正体はリゾットの玉ねぎを炒める匂いだったのか、と胸の内だけで答え合わせをしながら、まずは柔らかいお米を口に運ぶ。
「ふへ……おいしい……」
「ちゃんと味わかる?」
「はい、おいしいです……」
ほこほこ、温かなリゾットをスプーンで掬い、食べ進めていく。時折野菜スープを掬って口に運べば、生姜の香りとほんのりにんにくの風味が、鶏肉の旨味と共に喉の奥へと流れていった。
「それ食ったら、また寝ときな。俺ん家そのまま泊まってもいいし」
「えっ……いや、でも、さすがにそんな……」
「いーよ、俺ソファで寝るから。つーかお前、ただでさえ生活力なさそうだし、この状態のまま一人で家に帰すと死にそう」
どこか遠くを見つめながら呟いた彼の発言に、私は何も言い返せず黙り込む。
確かに、うちには何もない。そのまま干からびて死んでてもおかしくなさそうだ。
だからといってさすがに泊まるのは……と目を逸らしながら野菜スープに口をつければ、恭介さんは更にぽつりと言葉を続ける。
「……それに、どうせまだ、冷蔵庫の中身もゼリーばっかなんだろうし」
「……!」
ぎくっ、とあからさまに肩を揺らし、私は恐る恐ると彼の横顔を見上げた。こちらを見下ろすその視線にたじろいだ私は、気まずさから再びゆっくりと目を逸らす。
「……な、なんの事だか……」
「おいコラ、嘘つきハナコ。言っとくけどもうバレてんぞ。鳥羽からしっかり渡されたわ、コンビニ袋ん中に入った大量の買い溜めゼリー」
「う……」
「はあ……。俺、アレばっか食うなって言ったよな? ──初めて会った日に」
続いた言葉に、私は俯く。
知ってる。覚えてる。
ゼリー飲料ばっかり食べるなって、あの日怒られたこと。
俯いて何も言わない私を見つめた恭介さんは溜息を吐き、「責めるつもりじゃないけど、ちょっとショックだった……」と拗ねたようにこぼした。
刹那、カシュッ、と缶のプルタブを空ける音が耳に届く。
「……あ……」
振り向いた私の視界に入ったのは、遠くを見ながら缶チューハイに口をつけている恭介さんの姿。思わず目を見開き、私はすぐさま彼の腕を捕まえる。
「だ、だめ! 恭介さん!」
「……えっ?」
「お、お酒弱いんでしょ!? だめです、潰れちゃいます!」
「ちょ……、は!? お、お前、それ誰から聞い──」
と焦ったようにそこまで続けた彼は、突如ハッと誰かの顔を思い描いたらしく眉根を寄せて額を押さえた。
「……鳥羽か……」
「私、潰れちゃってお持ち帰りされちゃう恭介さんなんて、見たくないです……」
「お持ち帰っ……、は!? 待て待て、お前どこまで聞いた!?」
「え? ……えっと、ご、合コンで、潰されちゃって、女の子にお持ち帰りされて、彼氏になっちゃったみたいな……」
「うっわ、待って、無理……ほんと無理。マジ
頭を抱えてうずくまってしまった恭介さんは、耳まで赤く染めて「鳥羽、マジ呪ってやる……」とぶつぶつぼやいている。
もしかして、黒歴史みたいなものを掘り起こしちゃったかも……? と焦燥した頃──私はつい素手で彼の腕を握ってしまっていた事に気付き、慌ててその手を離した。
「あっ、ご、ごめんなさい……! 私いま、ルール違反して、直接触っちゃった……」
「え? ……ああ……ホントだ」
「で、でも、今のはやむを得ないです! お酒だめ! 潰れちゃったらどうするんですか!」
「……バカ、缶チューハイ1本ぐらいじゃさすがに潰れねーよ。そこまで弱くないからな」
むす、と再び拗ねたようにこぼして、彼は缶チューハイに口を付けた。「……それに、今日は色々あったから、ちょっとぐらい飲まないとやってらんない」と投げやりに続いた言葉で、私はしゅんと肩を落とす。
「……ご、ごめんなさい。迷惑かけて……」
「え? あー、違う違う! ハナコの事じゃねーよ。……俺が、個人的に色々あったの」
「色々……?」
「そー、色々……」
呟き、彼はまたチューハイを喉に流し込んだ。3%と表示されたアルコール。未成年の私には、その数字が人体にどんな影響を与えるものなのか、まだよく分からない。
けれど私のお父さんも、嫌な事があると、お酒や煙草と一緒に喉に流し込む人だった。
「……嫌な事、あったんですか?」
問えば、彼はほんのりと赤くなった顔でこちらを向く。あ、もう赤くなってる……と考えた直後、恭介さんはローテーブルに缶を置き──突然、私の肩に寄りかかった。
「……っ、へ!?」
「……脈拍チェック」
「みゃ!? 脈拍!?」
「ぶはっ、『みゃっ!?』だって……」
くすくすと笑っている彼だが、私の頭の中は大混乱だった。緩いパーマのかかる黒髪が、首筋や頬に当たっている。
いや、待って、ちょっと待って!
どう考えても距離が近い! 近い近い近い!!
早鐘を打ちまくる私の心臓の事などお構いなしに、恭介さんは硬直している私に寄りかかったまま。
戸惑う頭であれこれと考えている隙に、今度は手まで握られる。えっ、えっ、と更に混乱した私は、顔を真っ赤に染めてぎこちなく口を開いた。
「あ、あの、恭介さん! き、決まり事は……!?」
「……これは体温チェックだからセーフ。やむを得ない」
「そ、そ、そう、かな……!?」
なんか無理矢理こじつけてない!? とは思ったが、文句も言えずに黙り込む。
どぎまぎと緊張する私の手は、彼の手のひらに包まれてじわりと勝手に汗が滲んだ。「手、ちっちゃいな、お前……」と続けた彼の手は、確かに私よりも一回りほど大きくて。お、男の人の手だ……! と妙に意識してしまう。
ほろ酔い気味の恭介さんは、私の手を握ったままいつまでも離してくれる気配がない。頭も、ずっと私の肩に預けて寄りかかっている。
酔ったら人にくっつきたくなるタイプなのだろうか。それとも、よっぽど落ち込んでるのかな? そう考えて少し心配しながら、彼の手を見つめる。
(……この手で、いつも、お料理作ってるんだなあ)
おいしい晩ご飯を作る、魔法の手。その手をやんわりと握り返せば、恭介さんはぴくりと反応した。
「……私、恭介さんの手、好きですよ」
目を泳がせ、蚊の鳴くような小さな声で伝える。すると彼はしばらく黙り込んで、やがて私の手に指を絡めた。
「……手、だけ?」
「……、え?」
「……ううん。なんでもない」
かぶりを振った彼は肩に預けていた顔をもたげ、手を離す。「健康診断おわり。それ、食べ終わったら教えて」と告げた彼は缶チューハイを持ち、リビングの方へ歩き去って行ってしまった。
しかし、今しがた耳元で囁かれた言葉は、まだ私の頭に残っていて。
──手、だけ?
(……な、な、なんで、そんな事、聞くの……?)
とくとくと、心臓の動きが速い。
顔もすごく熱くて、ああ、きっと熱が上がってしまったんだな、と火照る頬を押さえた。
ぱくり、ひとくち。冷めてしまったリゾットを口に運ぶ。
ああ、でも、ほらね。
やっぱり、熱が上がっちゃったみたい。
「……味、もう、わかんないや……」
小さく呟き、リゾットを飲み込む。
スプーンを握る私の右手には、さっきまで触れていた彼の手の温度ばかりが、いつまでも残っていた。
.
〈本日の晩ご飯/リゾット〉
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