第20話 鼻たれハナコ

 熱を出して寝込んだあの日は結局、恭介さんの家には泊まらずに自分の家へと帰宅した。


 それから数日、彼の献身的な看病の甲斐あって、なんとか体調は回復。最近ではバイトにも復帰する事が出来ている。

 オーナーの手塚さんは「無理しなくていいからね」と優しく労わってくれて、バイト仲間のみんなも心配してくれて、本当にみんな良い人達だなあ、としみじみ実感したこの数日間だった。


 ──そんな中、私を悩ませていたのは、『居酒屋テトラの恋愛脳』と言っても過言ではない、あの人で。



「ねー、絵里子ちゃん! そろそろ連絡先教えてよ! ラインしよ? 恋バナしよ? ね! ね! ね!」


「……え、えーと……」



 きゃぴきゃぴとリア充オーラを輝かせて押し迫ってくるのは、バイト仲間である浅葱あさぎ百花ももかさん。バイトを終えて帰ろうとしていたら捕まってしまい、「連絡先教えて!」と数分間食い下がられている。


 瞳を輝かせる彼女に、私はぎこちなく苦笑した。



「わ、私、ラインやってなくて……」


「えー! じゃあすぐインストールして始めよ! 簡単だよ、アカウント作ればオッケーだから!」


「え、えと……」


「テトラのグループラインあるから、それに招待するね! アカウント取ったら教えて!」


「う、うん……」



 ぐいぐい迫る浅葱さんの押しに負け、つい頷いてしまう。「ねえ、翔ちゃん! 翔ちゃんも絵里子ちゃんとラインしたいよね!?」と近くにいた藤くんにまで迫る始末で、彼も反応に困りつつ、「え? う、うん……ライン出来るなら、俺は嬉しいけど……」と愛想笑いを浮かべていて。


 ああ、巻き込んでごめんなさい……! と胸の内だけで謝罪を告げた私は、隙を見て逃げるように「お疲れ様でしたっ!」と叫んで帰路についた。


 それが、つい数分前の話である。


 当然、アパートまでの道のりを歩む疲労困憊の私の口からこぼれたのは、深い溜息で。



(つ、疲れた……浅葱さん、悪い人じゃないんだけど、押しが強すぎるよ……)



 藤くんも困ってたなあ……と遠くを見つめ、やがてポケットから電源の切れたスマートフォンを取り出す。

 その真っ暗な画面には、反射した自分の暗い顔がぼんやりと映っていた。



「……電源……」



 そろそろ、入れないといけないかな──と、そう考えた瞬間。


 不意に、私の足が何かにつまずく。



「えっ」



 ぐらり。前方に傾く体。

 まばたく隙も与えてくれずに向かい合ったコンクリートは、一瞬で目の前に迫って──。


 ゴンッ!!



「ふぐっ!!」



 気がつけば、私は地面に顔面を打ち付けて豪快に転んでしまっていた。


 強打した鼻がじくじくと痛み、膝や肘もめちゃくちゃ痛い。ついでにとんでもなく恥ずかしい。どうやら気付かぬうちに溝へと片脚を突っ込んでしまったようだった。



「いっ……たぁ……!」


「うーわ、だいじょぶ? 随分と派手にコケちゃったね〜、かわい子ちゃん」


「……?」



 地面に転がったまま動けない私の元へ、突然知らない男の人の声がかけられる。


 ふわり、甘く漂う香水の匂い。

 体を起こしつつ顔を上げれば、丸いサングラスを掛けてツバの広い帽子を被った、金髪の男性が私を見下ろしていた。


 オーバーサイズの柄シャツに、耳や唇で光るピアス。ど、どう見てもヤンキーだ……! と身構えると同時に、私の鼻からはたらりと何かがこぼれ落ちる。



「あ、鼻血」


「……ぶえ!?」


「あはっ、『ぶえ!?』って何? 初めて聞いた」



 サングラスの奥で目を細める彼をよそに、私は慌てて鼻を押さえた。手のひらには真っ赤な血が付着しており、やばい、本当に鼻血出てる……! と混乱する。


 すると突然、戸惑う私の鼻には紺色のハンカチが押し付けられた。



「んぶ!?」


「はい、これ使っていーよ。他には怪我してない?」


「……は……え……」


「あー、肘も擦りむいてんね。あと膝も。よしよし、おにーさんに任せなさい」



 軽い口調でそう言って、見知らぬお兄さんは黒いクラッチバッグの中から絆創膏を取り出す。そんなものを持ち歩いている事があまりにも意外で硬直していると、「びっくりした? これ、実は四次元ポケットなの」と彼は笑った。


 手際よく膝や肘に絆創膏を貼り付け、「応急処置かんりょー」と立ち上がった彼は私の手を握る。そのまま手を引かれて立ち上がらされた私の顔を覗き込み、鼻血の様子を確認する彼に私の頬は熱を帯びた。



「……あ、あの……ありがとうございます……でも、あの、近……」


「あは、顔真っ赤。慣れてないの? かーわいー」


「あ、ぅ……」


「一応絆創膏貼ったけどさ、帰ったら念の為にちゃんと消毒して貰いなよ。ま、言われなくても勝手に消毒するんだろーけどさ。



 何気なくこぼされた名前に、私はぱちりと目をしばたたく。


 “恭介”って──あの恭介さんの事だよね?



「恭介さんの、お友達ですか……?」



 問えば、お兄さんは「んー? どうだろね?」と含みのある答えを返した。「ええ……?」と思わず訝しんだ頃、ふと、私は自身の鼻を押さえていたハンカチに視線を移す。


 直後、目を見開いて驚愕した。



「っ、ど、ぅええ!? ちょ、ちょ、ちょっと! あの!」


「ん?」


「こここっ、これ、ぶ、ブランド物のハンカチじゃ……!?」


「え? うん、そーだよ? 貰いもんだけど。3万くらい?」


「ささささんまん……!?」



 がくがくと唇を震わせ、紺のハンカチを青い顔で見つめる。鼻血まみれになってしまったその布地には、びっしりと有名ブランドのロゴが印字されていた。



「べ、べ、弁償します! ごめんなさい!!」


「えー? いいよ別に。ブランド物っつってもただの布じゃん?」


「そ、そ、そういうわけには……!」



 顔面蒼白でどもりまくる私を見下ろしたお兄さんは、「あ、じゃあさ〜」と顎に手を当てて何かを考え込む。やがて、サングラスの奥の瞳はじろりと私の姿を映した。



「──カラダで払ってよ。恭介には内緒にしといてあげるから」


「……え……」


「3万円分。俺に、ご奉仕イイコトしてくれる?」



 頬を撫でる、長い指先。

 毛先のばらばらな短い髪を指に絡めて顔を近付けてくる彼に、私はたちまち血の気を失ってひくりと喉を鳴らした。


 徐々に近付く唇、鋭い瞳。それらを至近距離で視界に捉え、私の肩が恐怖で強張る。


 縋るように手の中のハンカチを握り締めた私は、肉食獣に目を付けられた小動物のように、叫ぶことすらも出来ない。ただ強く下唇を噛み、ぎゅっと目を瞑った。


 しかしその瞬間──私の耳元で、吐息混じりの声が囁く。



「──なーんちゃって。うっそぴょーん」


「……、へ……?」



 間の抜けた声が漏れ、恐る恐ると目を開けた。するとお兄さんは悪戯を成功させたかのような表情で吹き出す。



「ぶっ……あははっ! なーにマジになっちゃってんの、


「は、え……? はなたれ……?」


「鼻血たれてるから、鼻たれハナコ」



 可愛いっしょ? と問う彼に呆気に取られていれば、続けて彼は「ほい」と私のスマートフォンを手渡した。


 どうやら、転んだ拍子に落としてしまっていたらしい。



「え、あ……ありがとう、ございます……」


「ねー、鼻たれハナコちゃん。連絡先教えてよ。そしたら3万円分のハンカチ代、1万円分はチャラにしてあげる」


「へっ!?」



 微笑みながら語る彼の提案に、私は狼狽うろたえた。やがておずおずと「わ、私、携帯、電源入ってなくて……」と答えれば、彼はきょとんと首を傾げる。



「ふーん? 壊れてんの? 充電不足?」


「いえ、その……機能面は、問題ないんですけど……」


「あ、なーんだ。じゃあ電源入れりゃいいわけね」



 へらり。楽しげに笑ったお兄さんは再び私のスマホを奪い取り、電源ボタンを長押しし始めた。「えっ!!」と目を見開いている間に、スマホの画面は起動されてしまう。



「あ……っ」


「ほら、電源ついた」



 サングラスの奥の目をもたげる彼の視線に射抜かれ、私は顔を青ざめたまま息を呑む。すると数ヶ月ぶりに電源の入ったスマホが、けたたましくバイブ音を鳴らし始めた。



「……うっわ、えぐっ。メッセージめっちゃ来るんだけど。何日電源切ってりゃこうなんの?」


「……っ」


「はは、すげー。未読通知999だって。カンストしてんじゃん、初めて見た。やっば〜」



 お兄さんは楽しげに言うが、私の体は恐怖で凍り付いて動けない。見開いた眼球を忙しなく泳がせて震えていると、不意に彼が


仁村ニムラ 航平コウヘイ


 と一番聞きたくない名前を紡ぐ。



「……コイツが一番メッセージ送ってきてる」


「……」


「これ、見たい? それとも見たくない?」



 問い掛ける声に、私はしばらく間を置いたあと力無く首を振った。すると彼は「オッケー」と軽く頷き、スマホのロック画面を私に向ける。



「はい、こっち見て」


「……?」


「はい、アリガトー」



 一瞬顔を上げさせたかと思えば、再び彼はスマホの画面を操作し始める。どうやら、顔認証で私のスマホのロックを解除したらしい。



「──ニムラコウヘイの連絡先を、削除しますか?」



 ややあって、再び問いかけられた言葉。私は震える手を握り締め、こくりとひとつ、深く頷いた。



「了解」



 ──とん。


 指先ひとつ、静かにタップして、「はい、消えたよ」と彼は笑う。その瞬間に私の心を縛り付けていた何かが、がらがらと音を立てて崩れたような気がした。


 強張っていた肩からも、力が抜ける。



「高校のグルチャは? これも結構メッセージ受信してるけど。残す?」


「……、い、いらない、です」


「じゃー消そ。あとなんか他に見たくないのある?」


「……」



 どうやら、彼はスマホの画面が見れない私の代わりに『見たくないもの』を削除してくれるつもりらしい。


 それを理解した途端、脳裏に浮かんだのは、リツカの顔。


 困ったように笑うその顔が浮かんだ瞬間、無意識に、唇が動いていた。



「……吉岡よしおか 律香りつか……」


「ヨシオカリツカ? ……あー、この子ね。結構メッセージきてる」


「……消して、くれませんか」



 小さな声で頼めば、お兄さんは「いいよ」と軽く頷いて画面を操作する。そのままあっという間に妹の連絡先は削除されたらしく、「はい、キレーさっぱり」という一言と共に、いちじるしく未読通知数が減少した画面を見せられた。


 やがてスマホを手元に戻され、また、私の肩からは力が抜ける。



「これで、少しは怖いモン消えた?」



 首を傾げるお兄さんの問いに、つい目の前がぼやけて滲んだ。「……うん……」と頷き、落ちかけた涙を手で拭ったが、勝手に次々と溢れ出してくる。



「……うん……っ、うん……」


「あーらら。よしよし、泣かないの」


「うっ……ひぐっ……」



 そうだ、私、ずっと怖かった。

 電源を切って、ずっと見ないようにしてた。


 妹からも。航平からも。

 全部から逃げて、ずっとこの機会の中に塞ぎ込んでた。


 そして、今、また──私は、逃げたんだ。



「逃げていーんだよ、どうしようもない時は」



 ぽん、と不意に頭を撫ぜられる。涙でぼやけた瞳を持ち上げれば、何を考えているのか読めないお兄さんの目がこちらを見下ろしていた。



「もしも迷いがあるんなら、簡単には逃げんな。でも、立ち向かったら壊れるって分かってんなら、さっさと逃げろ」


「……」


「──って、恭介なら言う。多分」



 一瞬真剣な顔をした彼だったが、すぐにへらりと笑顔に戻ってぐしゃぐしゃと私の髪を撫で回す。「わわっ……!」と慌てふためいた私を楽しげに見下ろし、彼は自分のスマホを取り出した。



「あ、さっき色々削除するついでに、俺の連絡先は勝手に登録しといたから。これで1万円分返済完了だね〜。残り2万は俺としてくれたらチャラにしてあげるから、いつでも連絡ちょーだい♡」


「えっ……、デッ!?」


「じゃ、またね〜ん。鼻たれハナコ♡」



 にこりと満足げに微笑んで、お兄さんは上機嫌に去っていく。


 その場に取り残された私は、ぽかんと呆気に取られたまま暫く立ち尽くしていた。


 私の手元の画面の『新しい友だち』一覧には、今しがた登録されたであろう彼の名前が記されている。



「……芦屋あしや九龍くりゅう……?」



 血の固まった鼻をすすり、私は彼の名前を口にしながら眉を顰めた。


 ……っていうか、何でみんな私のことを『ハナコ』って呼ぶんだろう。鼻たれハナコって、全然可愛くないし……。


 私の名前、絵里子なのに……、と溜息混じりに呟いた私の言葉は、去っていく彼の背中に届く事なく、坂道の途中にこぼれ落ちた。




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