第11話 バーニャなんとか

 ふわふわ、いい匂いがする。


 にんにくの焼ける香ばしい匂いとか、お魚の缶詰を開けた時みたいなお腹の空く匂いとか、パン屋さんの前を通った時の、あの匂いとか。

 じゅわじゅわ、何かが沸騰しているような音も、聴こえる……ような……。



 ──えりこ。



 低い声が、耳元で私の名前を囁いた気がした。だけど瞼が重くて、なんだかその名前が懐かしくて。夢うつつを彷徨さまよう意識が、ただぼんやりと暗闇の中で揺蕩たゆたう。



 ──起きろよ。



 聞こえる誰かの声が、ぼやぼやと頭の中に響いている。起きてるよ──そう言いたいけれど、私の唇からこぼれるのは穏やかな呼吸の音ばかりで。



 ──起きないと、食っちまうぞ。



 耳元で聞こえた、そんな言葉。


 食っちまうぞ、って、何を? 何を食べちゃうんだろう? 美味しそうな匂いがするし、私も食べたいな、お腹すいたなあ……。

 そう考えていると、頬にさらりとくすぐったい感覚を感じた。


 程なくして、ふに、と暖かい感触が、頬に押し当てられて。


 けれどすぐに、さらさらとくすぐったかった何かが頬から離れる。通り過ぎた風が、知っている匂いを連れて行く。


 甘い柔軟剤の匂いと、煙草の匂い。


 あれ? これって、もしかして──。



「……きょ、すけ、さん……?」


「──あ、起きた」



 名前を紡げば、返事はすぐに返された。私は暫しぼんやりと虚空を見つめて、目をこすりながらきょろりと視線を動かす。


 明るい部屋。可愛いニュースキャスターを映しているテレビ。おいしそうな匂い。呆れ顔の恭介さん。


 それらに一通り目を通して──ようやく、私は我に返った。



「──はっ!? 私寝てた!!」


「うん。おはよ」



 呆れ顔のまま返事を返した彼は、32インチほどのテレビの前に座り込んで何やらリモコンを操作している。ぱちぱちと目をしばたたく私だったが、目の前のローテーブルに彩り豊かな料理の品々が既に並んでいる事に気付いて慌ただしく体を起こした。



「わ、わわわ……! す、すみません、私いつのまにか寝ちゃってて……!」


「いーよ別に、疲れてたんだろ。よだれ垂らして寝てたぞ」


「嘘っ!?」


「嘘」



 へら、と意地悪に彼が笑う。慌てて口元を確認した私がむっと膨れると、「そこの寝坊助さん、そこのコップに麦茶を入れてくださいませんか」と彼はわざとらしい敬語を口にした。また揶揄からかって……、と眉を顰める私だったが、寝てしまったという弱みがあるので大人しく麦茶をコップに注ぎ入れる。


 そうこうしているうちにリモコンの操作は終わったのか、彼は私の隣に腰を下ろした。



「よし、準備できた」


「……? 何がです?」


「何って……映画?」


「映画!?」


「そ。今日借りてきたDVD、どうせなら一緒に見ようと思って」



 彼はそう言ってリモコンの再生ボタンを押す。すると早速──何の映画なのかよくわからないまま──予告編が始まってしまった。


 私は戸惑いつつも座椅子の上に腰を下ろし、じっと画面を見つめる。そうしている間に、彼はローテーブルのド真ん中に置かれた謎の機械に設置されたキャンドルに火をつけていた。



「……なんですか? これ」


「これ? ……正式名称は知らねーけど、多分チーズフォンデュ機? っていうのかな。小鍋をセットして、下のロウソクで温めて、チーズフォンデュ作るやつ。らしい」


「ああー! なるほど!」



 ぽん、と納得して手を叩いた私だったが、どう見てもセットされた小鍋の中身はチーズではなかった。オイルっぽいけれど、香りは焦がしニンニクとお魚のフレークを混ぜたみたいな美味しそうな匂いで、見た目はトロッとして薄茶色。だけど匂いはマヨネーズとも違うし、マスタードでもないし、一体なんだろう、これ。



「それ、バーニャカウダソース」


「ばーにゃ……?」


「やっぱ知らねーか。アンチョビとニンニクを、生クリームとかオリーブオイルで煮込んだソース。野菜付けて食うんだよ」


「ふーん……?」



 彼の説明を聞いてみても、いまいちピンと来なかった。そもそも「アンチョビ」って何なんだろう。愉快な名前だな、アンチョビ。

 こてん、と首を傾げる私のことは差し置いて、恭介さんは他の料理の説明に移ってしまう。



「こっちは砂肝のコンフィ。で、あれがナスとズッキーニのマリネ。それからこっちはガーリックトースト。足りなかったら、余った材料でペペロンチーノ作れるから言って。とりあえずテーブルに乗る分だけ作ったから」


「は、はい……、はい……?」



 矢継ぎ早に説明されてしまってよく分からないが、とりあえず今日の料理はオシャレフレンチのお店で出てくるそれに違いないということだけは分かった。だって見たことないもの、こんなの。こんがりと焼き色のついた目の前のガーリックトーストが、私の知識量で理解できるギリギリの範疇である。


 瞳をぱちぱちと不思議そうに瞬いている私に苦笑をこぼして、彼は先に手を合わせる。それに続くように私も手を合わせて、いつもの合図が交わされた。



「いただきます」



 隣同士でその言葉を唱えるのが、なんだかむず痒く感じてしまう。

 だって普段なら向かい合わせで食べているはずなのに、今日はすぐ隣にいるし、なんだか距離感も近いし、部屋が違うのもなんだかそわそわするし。異性への免疫がいちじるしく乏しい私はつい緊張してしまって、いつもの「いただきます」の挨拶ですらもこじんまりと済ませてしまったのであった。


 そうこうしているうちに、どうやら映画の予告編が終わってしまったらしい。彼は黙ったまま映画に目を向け、バーニャなんたらソースを付けたパプリカを口に運んでいる。



(私、あんまり映画って興味ないんだよなあ……)



 うーん、と眉を顰める。嫌いなわけではないが、理解力が乏しいのか最後まで見てもあまり内容が理解できなかったりするのだ。アニメ映画とか、ポピュラーで分かりやすい作品なら全然いいんだけど。

 たった今始まってしまった洋画はどことなくB級っぽい雰囲気が漂っていて、あまり私の好みでは無さそうだった。また途中で寝ちゃったりしないようにしないと、と密かに気合を入れつつ、私は謎のソースに浸した野菜を口に運ぶ。


 その瞬間、衝撃が走った。



(……!? え、おいしっ……!?)



 一瞬、思わず動きが止まる。たった今、半分ほどかじったばかりの人参を私は食い入るように凝視した。


 え、これ人参だよね? ただの、生の人参だよね?



(な、何これ……ソースだけでこんなに美味しくなるの!? 人参って……!)



 大袈裟な反応かもしれないが、本気でそう思った。ぐつぐつと煮込まれているバーニャなんとかソースは、程よいニンニクの香りとなめらかな舌触り、そしてオリーブオイルの風味が超絶バランス良くて、つぶつぶと混ざっているブラックペッパーの辛味が野菜の旨味を引き立てている。



(す、すごい……! 初めて食べた……!)



 野菜なんて、結局はマヨネーズ付けて食べるのが一番スタンダードに美味しいものだと思っていた。それを悠々と超えていく恭介さんのバーニャなんとか。恐ろしい。恐ろしく美味しい。


 ぱくぱくと、ただの野菜なのに手が止まらなくなってしまって、ぐつぐつと煮込まれていたディップが少しずつ減っていく。もちろん野菜も減っていく。アスパラ、ブロッコリー、スナップエンドウ、カブ……。あ、やばい、このままじゃ全部食べちゃう。そう危ぶんで、私は少し野菜から離れようと砂肝のコンフィにフォークを伸ばした。──しかし、これも罠だったのだ。



(いや、こっちも超美味しいぃ……!)



 時間が経ってしまったのか──多分私が寝ていたせいだけど──少し冷めてしまってはいるが、ほんのり温かい砂肝はふっくらと柔らかく、香草の風味とニンニクの香りが絶妙に食欲をそそる。でもちゃんと砂肝らしい歯ごたえもあって、このオイルにパンを付けて食べたら最高なのでは──と考えた矢先に、視界に飛び込んで来たのはガーリックトースト。



「……」



 ごくり。生唾を飲み込んだ頃には、既に手が伸びていた。まだ温かいカリカリのトーストを即座に指でちぎる。

 ふんわりと香ばしいガーリックの香りが鼻の奥を満たして、そっとパンの切れ端をコンフィのオイルに浸し、そのまま口に運べば──はい。そこはもう天国でした。



(……お、美味しすぎる……! え、天才……!? この人もう天才だよね……!?)



 騒がしい私の心の叫びなど知る由もないであろう恭介さんは、じっと真剣な表情で画面の中の俳優を見つめている。

 そんな彼の横で感動的な舌鼓を打っている私は、とうとうナスとズッキーニのマリネにも手を伸ばしてしまった。それらを取り皿に移し、流れている映画になど目もくれず、私はナスにフォークを突き刺して口へと運ぶ。


 一度素揚げしてあるのか、口に運ぶ前からとろとろなのが分かってしまった。ひんやり冷たいナスが、やはりとろとろと口の中で蕩けていく。上品な酸味。幸せな気持ちが胸に満ちて、思わずニヤけた。私が犬だとしたら、今頃尻尾をぶんぶんと振り回していることだろう。


 全部美味しい。超絶に美味しい。


 しかし。

 たった一つだけ、なかなか私の手が伸びないものがあって。



(……パプリカ……)



 並べられた野菜の中に居座る、黄色いそいつを睨みつける。私はピーマンがこの世で一番嫌いだから、形の似ているパプリカもあまり好きではない。

 味はピーマンより甘いと、頭では分かっているのだ。でもなかなか、一度染み付いた価値観は覆せないもので。


 ……でも。



(……でも、今なら……!)



 恭介さんの作った料理なら、もしかしたら。


 いけるかもしれないと、一人静かに覚悟を決め、私は恐る恐るとパプリカにフォークを伸ばした。さく、と貫かれた黄色い天敵を持ち上げ、ぐつぐつと煮込まれたバーニャなんとかの海にいざなう。


 そのまま口の前まで運んで──ぱくり、一口。意を決して放り込んだ。



(……う……)



 しゃくしゃくと、瑞々しいそれを噛み砕く。やはり、味はどう足掻いても若干のピーマン感が否めない。しかしその中にアンチョビとニンニクの風味が混ざって、舌に残る苦味を掻き消して。


 ……あれ?



(食べれない、ことも、ない?)



 ごくん。


 世界で二番目に嫌いなそれを飲み込んで、私はぱちりと瞳を瞬いた。すると不意に、真横から視線を感じて。



「……えらい。食えたじゃん」


「……え」


「お利口さん」



 ふ、と優しく目を細め、恭介さんが私に囁く。そのままふい、と逸らされてしまった視線は再び映画へと移ってしまったが、私は頬に熱が上がってくるのを感じていた。



(……ほ、褒められた……)



 ──えらい、なんて。そんなこと言われたの、いつ以来だっけ。

 子どもの頃はよく言われていた気がするけれど、ここ数年はめっきり言われたことがなかったような。


 だって、いつも、「えらい」はのもので。「頑張れ」が、私のものだったから。



『えらいね、リツカちゃんは』


『そうだな、リツカはえらいな』


『絵里子ちゃんはお姉ちゃんなんだから、もっと頑張らないと。リツカのお手本にならなきゃ』


『絵里子、お前は頑張れば出来る子なんだから』



 一瞬、脳裏で困ったように微笑むリツカの顔が過った。悪意のない両親の言葉と一緒に。


 リツカはいつだって、私に気を遣ってた。リツカは何も悪くないのに、いつも申し訳なさそうな顔で私を見てた。どうしてリツカがそんな顔するのって、ずっと不思議に思ってた。


 私は、リツカに怒ったことも、責めたりしたこともないのに。



 ──えらい。食えたじゃん、お利口さん。



「……」



 ああ、でも、こんな簡単に。

 言ってもらえる言葉だったんだなあ、「えらい」って。



「……ふ、……」



 思わず目頭が熱くなって、私は咄嗟に俯いた。映画に集中している恭介さんには幸い気付かれていないみたいで、ホッと胸を撫で下ろす。


 ああ、なんか、なんだろ。

 なんだろな。



(情けない、な)



 満たされていく、からっぽのお腹をぎゅっと抱きしめる。


 俯いた拍子にうっかりこぼれ落ちた群青の塊を手のひらで掬い取って、私は色んな感情を誤魔化すように、再びバーニャなんとかにフォークを伸ばした。

 美味しい味が口の中に広がって、また一つ、お腹の奥が満たされていく。


 ──頑張れ、私。


 そう心の中で呟いて顔を上げた。


 だって、その言葉の方が、私はきっと得意だから。




 * * *




 ──結局、恭介さんが一体何の映画を観ていたのか、私には最後まで分からずじまいだった。帰り際、「なんか体調悪い?」と彼に聞かれたけれど、ちゃんと笑って「また明日」って告げられた。


 満たされたお腹と一緒に、何もない部屋へと帰って行く。生ぬるく流れた風が、バラバラで滅茶苦茶な私の短い髪の毛先を揺らしたけれど、もう涙は出なかった。


 こうやって一つずつ満たされて、だけどその度に、また一つずつ時間が欠けて行く。


 きっと、多分、それで良い。

 それで良いのは分かっているのに、やっぱりずっと心のどこかで──まだ欠けないでって、言っている気がして。



「……もう少しだけ、待っててね」



 何もない、からっぽの部屋の中。


 畳に置かれた一眼レフのカメラを手にとって、私はぽつり、囁きかけるように呟いた。




 .


〈本日の晩ご飯/バーニャカウダ〉

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