5月 - 残り4ヶ月

第12話 初めての二人乗り


 5月3日、午後12時15分。


 ピンポン、とインターホンが鳴り、私は慌ただしくフローリングの床を蹴る。鳴らないスマートフォンをポケットに。お財布と最低限の化粧品はリュックに。それぞれ詰めて、そのまま外へ飛び出した。



「はい!」


「うおっ!」



 勢いよく玄関の戸を開けた私に、恭介さんは目を丸めて声を漏らす。どうやら驚かせてしまったらしい。慌てて「ごめんなさいっ……!」と謝れば、彼は呆れたように私を見下ろした。



「……朝から元気だな、お前」


「はっ……! すみません……! 控えます……!」


「いや別にいいんだけどさぁ……。それより、もう出れる?」


「あ、はい! いつでも!」



 しゃきっ、と背筋を伸ばして答えれば、恭介さんは微笑んで「じゃあ行こうぜ」と先に背を向ける。カン、カン、とアパートの階段を降りて行く彼の背中を眺めつつ、私は部屋の扉に鍵を掛け、彼を追って階段を駆け降りた。


 ゴールデンウィークも後半に差し掛かった今日、5月3日。私と恭介さんは、今から二人で水族館へと向かうのだ。

 親族以外の異性と二人きりで遠くへ出掛けるなんて、生まれて初めてかもしれない。


 そんなことを考え、些か緊張しながら階段を降りると、恭介さんが駐輪場のトタン屋根の下で一台の黒いバイクにまたがって私を待っていた。



「はい、これ」


「え?」



 ぽかん、と呆気にとられた私に手渡されたのは、クリーム色のヘルメット。それを受け取って、私はじっと彼を見つめる。



「……何ぼーっとしてんの。早くそれ被って乗って、後ろ」


「え!? バイクで行くんですか!?」


「え、だってレンタカーだと返したりすんのダルいし……」



 バイク持ってんだからそっちの方がいいだろ、とさも当然のように彼は言い放った。私はおろおろと視線を泳がせ、空いているバイクのシートを見つめて顔を青ざめる。



(え、ば、バイクなんて乗ったことない……!)



 どうやって乗ればいいのだろうか。ひとまず私はヘルメットを被るが、顎に伸びた紐の締め方すらよく分からない。ヘルメットを被る、という基本的な作業にすらもたつく私に、呆れ顔の恭介さんは溜息を吐いて手を伸ばした。



「何してんだよ、これをこの穴の中に通せばいいだけだろ」


「……あ、す、すみませ……!」


「ったく……」



 かちゃかちゃと、私の代わりにヘルメットの紐を締めてくれる恭介さんの手。ほんのりと煙草の香りがして、少しドキドキする。すると不意に、紐を締める彼の手の甲がぴとりと私の顎に触れた。



「っあ、やべ……!」


「え?」


「……い、いや、今……直にちょっと触っちまったから……」



 ぼそぼそと、気まずそうに彼が声を紡ぐ。私は思わずぽかんと呆気に取られてしまった。……どうやら、『互いに触れてはいけない』という決まり事ルールを気にしているらしい。



「……これぐらい、別に大丈夫ですよ。決まりごとも、“やむを得ない場合は触っていい”って決まりだったし……」


「いや、まあそうだけどさ……」



 また始まった、と安定の恭介さんの様子に小さく嘆息する。こんなちょっぴり触れたぐらいで、文句なんか言ったりしないのに。彼は律儀すぎるというか、細かすぎるというか……たまに心配になってしまう。



「もう、大丈夫ですって! 気にしないでください! 私、別に文句言わないし!」


「……文句、言わねーの?」


「言わないですよ!」


「……ふーん……」



 恭介さんは私の言葉に思う所があったのか、何やら顎に手を当てて暫く考え込み──やがて、「まあいいや、行くぞ」と再びバイクに座り直した。エンジンに鍵を差し込んでいる彼の姿を見て、私は慌ただしく後部のシートに跨る。


 ──そして、私は困惑した。



「……あ、あの……」


「ん?」


「……私、一体どこに捕まっていれば……?」



 じわりと手のひらに汗を滲ませ、嫌な予感を感じつつ問い掛ける。すると彼は自分のヘルメットを被りながら、にやりと意地の悪い笑みを浮かべて振り返った。



「そんなん、“俺”に決まってんだろ」


「は、……えっ!?」


「そりゃそうだろ、他に捕まるとこねえし」



 さも当然のように言い切る彼だが、私の脳内はパニック状態である。つまり、水族館までの道中、ずっと彼と密着状態……という事だろうか。え、そんなのダメよ!! と脳内で絶叫して困惑する私に対し、恭介さんは容赦無くトドメの一言を投げつける。



から仕方ないだろ? 、よな?」


「……」



 してやったり、とでも言いたげな顔。私は頬に集まる熱を隠すように俯きながら、彼の衣服をちょこんと握った。すると不服げな顔が再び私を見下ろす。



「馬鹿、そんなんじゃ落ちんぞ。ちゃんと腕、俺の腹まで回して」


「えっ、え……! そんな……!!」


「文句言うなよ、ほら」



 パーカーの上から腕を掴まれ、無理やり恭介さんのお腹へと手を回されてしまう。必然的に距離が近付き、私は背後から彼に抱きついている形となってしまった。直後、猛烈な羞恥心が襲い掛かる。



「ひ、ひい!! 無理! 無理です恭介さん!! こんなの恥ずかしいです!!」


「しょうがねえだろ。じっとしてろ、落ちんぞ」


「う、うう……」



 涙目で彼を睨むが、素知らぬ顔で彼は黒縁のメガネを掛けた。そのまま出発──するのかと思われたが、不意に恭介さんは何かを思い出したかのように「あ、」と声を発する。



「忘れてた。これもしとかねーと」


「……?」



 こてん、と首を傾げる私などお構いなしに、彼はポケットの中から何かを取り出す。見れば、それは梱包の際などによく用いる、至って普通の白い紐だった。



(紐……?)



 そんなもの、一体何に使うんだろう。不思議に思っていると、彼はおもむろにその紐を伸ばし、私の腰を一周するようにぐるりと囲う。そのまま自分の腰も囲み、互いの体が離れないようにぎゅっと紐の端を結ばれてしまった。



「はい。簡易シートベルト完成〜」


「……へ!?」


「ハナコが勝手に落ちないように、念のためな。ちなみにお前が落ちたら俺も落ちる事になるから、気をつけろよ」


「……!」



 に、と恭介さんの口元が楽しげに弧を描く。私は先ほどよりも密着してしまった互いの距離に戸惑いながらも、きゅっと唇を結んで小さく頷いた。つい、顔が熱くなってしまう。どうか早まる鼓動の音が伝わっていませんように。



「よし。じゃあ行くか」


「あ、あの、私……っ、こ、こういうの初めてなので! お手柔らかに……」


「は? ……あー、はいはい、運転な。任せとけって、俺マジで日本一安全運転だから」


「う、うぅ……ほんとかなあ……」



 調子のいい軽口に不安を募らせる私だったが、ブォンッ、とバイクにエンジンがかかる音によって思わずぎくりと身を強張らせた。そのまま縋るように彼の背中に張り付く。



「出発すっから。ちゃんと捕まってて」


「は、はい……!」



 緊張とほんの少しの恐怖感で、ドキドキと心臓がうるさい。男の人の体がこんなに近くにあるの、なんだか久しぶりだなあ、と、頭の隅でぼんやりと考えた頃。


 バイクは、水族館に向かって走り始めた。




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