第25話 残り香〈side 恭介〉

 ──最近、ハナコに元気がない気がする。


 早々にバイトを切り上げた俺はそう考え、溜息と共に肩を落とした。


 いや、体調が悪そうとか、食欲不振とか、そういう意味ではなくて。ただ、最近あまり俺と目を合わせてくれないような気がする……と言うか。



(……って、何を女々しい事ぐるぐる考えてんだよ、俺は)



 はあ、と再び溜息。


 元気がない、とは言っても、ハナコの食欲はいつも通りに旺盛で、昨晩も俺の作った鮭のムニエルをぱくぱくと残さず食べていた。声をかければ答えるし、晩メシを作れば喜んで笑う。


 ──いくらなんでも心配しすぎだろ。


 そう自分に言い聞かせる俺だったが──心配事は、まだ尽きなかった。


 思い出したのは、先日彼女がまとって持ち帰ってきた、香水の残り香。



(……あの匂い……九龍の持ってる香水と、同じ香りだったよな……)



 人間、過去の誰かの声や形を忘れてしまっても、香りだけは鮮明に記憶に残る。先日ハナコが持ち帰ってきた香水の匂いは、まさに九龍のそれと同じだった。


 無意識に眉根が寄る。だが、それこそ気のせいだろうと俺はかぶりを振った。ハナコに九龍との面識などあるはずもない。


 だが、以前アイツが俺の部屋の前で待ち構えていた時、九龍の瞳がハナコの姿をじっと捉えていたのも事実で──やはり、眉間には深いシワが刻まれてしまう。



 ──随分にそっくりなの見つけたじゃん? しかも何、このゼリー。わざと?


 ──そういうとこまでアイツにんの?



「……」



 彼の発言を思い出し、嫌な予感が胸に満ちた。もし、九龍がハナコに近付いてしまったら──と懸念した俺だったが、すぐに気にするなと首を振る。



(考えすぎだ、きっと。ドルガバの香水つけてる奴なんて、街の中にいくらでもいるだろ)



 俺は着ていたエプロンの紐を解き、透明な小瓶の中で揺れる液体を思い出しながら、そっと視線を落とした。


 脳裏でへらりと下手くそに笑うのは、膝丈まで伸ばしたセーラー服のスカートを風に揺らす、



(……思い出すなよ、こんな時に……)



 きゅ、と唇を噛む。


 九龍がよくつける、あの香水──あれは高校の頃から、彼が愛用しているものだ。


 わりと高級志向で流行り物を好む九龍だが、香水だけは、特別な事情がない限り今でもアレを好んで使う。その理由も、俺には分かりきっている。


 中学の頃、が──九龍にあの香水を贈ったからだ。



『──あ、あのね。実は、くーちゃんに、誕生日プレゼント選んだんだけど……私、全然詳しくないから……。お店の人におすすめされた香水にしてみたんだけど……ど、どうかな……』



 おどおどと、長い前髪で隠した目を、どこか不安げに泳がせて。


 アキはあの日、九龍にドルガバの香水を手渡した。


 それを受け取った九龍は、『ええー!』と大袈裟にリアクションを取った後、満面の笑みで彼女に抱きつく。



『超うれしー! ありがとー、アキ! 俺、香水は一生コレ使うね!』


『きゃあ!? ちょ、ちょっと、抱きつかないで、くーちゃん!』


『おい、やめろよ九龍……アキが困ってんじゃん』


『恭介も一緒に抱きついて、アキを困らせよ!』


『……あー、それもいいかもな』


『ふ、二人ともやめてよー! からかわないで!!』



 ──まだ若く、幼かった、あの頃。


 空き教室の隅に三人で集まって、他愛もない話をするのが俺達の日課だった。


 そしてあの日以来、九龍は本当に、アキから貰った香水しかつけなくなったのだ。


 彼女に貰った香水の小瓶は1年ほどで中身が無くなってしまったが、高校に上がっても九龍はドルガバの香水を好んで愛用していた。



『アキと恭介ってさあ、お似合いじゃーん? 早く付き合えば? 大親友同士の結婚式、俺、泣きながらスピーチしちゃう!』



 彼は常々つねづね、俺達の事をそう揶揄からかって笑っていたが──本当にアキの事を想っていたのは、アイツの方なんじゃないかと思う。


 じゃないと、成人してまで、あの香水にこだわる理由なんてないだろ?



(……まあ、その本心を確かめる事も出来ないまま、アイツとの仲はこじれちまったけど……)



 小さく息を吐き、また視線を落とす。エプロンを丁寧に畳み、所定の位置に戻した後、俺はスニーカーを履き替えてバイト先のバックヤードを出た。



「お疲れっした」



 そのまま出口に手を掛けたところで──不意に、背後からは「あ、恭ちゃん、ちょい待ち!」と呼び止められる。


 振り向けば、同じサークル仲間でありバイト仲間でもある花梨かりんが俺に駆け寄ってきていた。



「何?」


「来月なんだけどさー、サークルのみんなで合宿行こうよ、合宿! 鳥羽っちと話してたのね、車でブーンて旅行とか行こうぜ的な! 去年も行ったじゃん? ほら、山奥のロッジ3棟ぐらい借りてさー!」


「あー、行ったな……温泉あるとこね、夜バーベキューしてたら虫出まくって最悪だったとこ」


「ゲエッ! 余計なこと思い出すなし!」



 げんなりした表情で花梨が顔を顰める。日サロで焼いた、昨今珍しい褐色肌をポリポリと掻きながら、彼女は続けた。



「去年はそう、虫で最悪だった……だから此度こたびは、ロッジでの宿泊は取り止めなのじゃ!」


「マジすか。じゃあどこ行くんすか、おさ


「ふむ、よく聞いてくれたな村人A。今年、我らはAirbnbエアビーアンドビーを利用し、一軒家をまるごと借りて宿泊しようと思う! のじゃ!」


「あー……」



 ──Airbnbエアビーアンドビー


『空き部屋を貸したい人』と『部屋を借りたい人』を引き合わせる、世界的に有名なサービスの呼称である。


 ホテルを借りるよりも格安、しかも綺麗な部屋が借りれると旅行好きの間で話題になる事もしばしばだが、俺は詳しい仕組みをよく知らない。


 こういう時に張り切って仕切るのは、大抵花梨か鳥羽だ。今回の旅行の計画も賑やかし要員二人に任せようと決め、と俺は背を向けた。



「了解。詳細決まったら教えて、予定空けとく」


「さっすが恭ちゃん氏! これで調理担当ゲットだぜ!」


「うっわ~、行く気失せる~……」



 そういや去年のバーベキューの時もこき使われたんだったな、と思い出しつつ──ふと、俺は頭の中にハナコの姿を思い描く。


 あ、と短く声を発し、店の扉に手を掛けながら俺は振り返った。



「なあ」


「ん? 何?」


「……もう一人、連れて行くかも」



 視線を合わせず、小さな声で告げる。花梨は一瞬目を丸めたが、程なくしてフッ、と鼻で笑った。



「ほほ~う? 噂のカノジョかね。ロリの」


「ばっ……! ロリじゃねーわ!! アイツ18! 今年19!」


「きゃ~、未成年に手ェ出しちゃって。鳥羽っちが言ってたよ~、『恭介のカノジョは見た目が15か16ぐらいにしか見えなくて、アイツの真の性癖を見た……』って」


「クソ鳥羽、ほんと殺す」



 根も葉もない噂を言いふらしているらしい鳥羽をタコ殴りにする事を固く心に誓い、俺は「とりあえず、俺ロリコンとかじゃねーから!!」と再度念を押す。しかし花梨はニヤニヤと口角を上げるばかりだった。……ほんと腹立つな、どいつもこいつも。



「おい、ニヤニヤすんな、気色悪い」


「講義中にカノジョのの写真見てニヤニヤしてた男に言われたくないわ」


「……ニヤニヤはしてねーよ」



 ……写真は、見てたけど……。


 俺は胸の内だけでそっと呟き、目を逸らす。花梨は「まあ、詳細は追って連絡しまぁす」と話を切り上げ、「おつカレーライス」と付け加えて手を振った。


 俺もとりあえず「おつカレーライス……」と返して、今度こそ店を出る。カランコロン、と鳴るドアベルの音を聞きながら、バイト先を後にした。



 気怠く歩む、いつも通りの帰り道。

 きらきら、赤い夕焼けに照らされる歩道橋が目に眩しい。



(花梨のせいで、なんかすげー疲れた……)



 信号を待つ俺は徐々に暮れて行く空の赤を一瞥いちべつし、溜息混じりに手元のスマホに視線を移した。


 季節は6月に入り、そろそろ中旬。

 ハナコと交わした『約束』の賞味期限が切れるまで、残された期間は約3ヶ月。


 俺はスマホの画像フォルダの中を開き、『お気に入り』のカテゴリ内に保存されたその写真をそっとタップする。画面の中に大きく表示されたのは、俺の部屋の座椅子にもたれかかって眠る、ハナコの寝顔。


 いつだったか、講義中に眺めているところを鳥羽に見つかってしまい冷やかされたその写真を見つめ──俺は目を細める。



(……かわいー顔……)



 あどけない表情で眠る彼女の寝顔を見下ろしながら、つい緩みそうになってしまう口元を片手で覆い隠した。講義中にニヤけてた、っていうのも、実は完全には否定出来ない。


 “決まり事ルール”なんて、本当は口先ばかりだ。

 だって俺はもう、何度か彼女に触れてしまっている。


 水族館の時にレンタカーじゃなくバイクを選んだのも、彼女に触れて欲しかったから。バーニャカウダを用意してる時にうたた寝していた彼女の頬に思わずのも、その肌に触れたかったから。


 ……ああ、俺って、ほんとダメな大人だよな。



(……早く帰ろ)



 信号は、まだ赤。家までもまだ遠い。


 早く家に帰りたい。彼女に会いたい。

 今夜の晩メシは何にしよう。

 何を作ったら、彼女は笑うだろう。


 そんな事ばかり考えてしまって、ほとほと自分に呆れる。



(あー……こじらせ過ぎだろ、俺……。ほんと、気持ち悪……)



 そう考え、己にいささか嫌悪感を抱いた頃──信号の色は、青へと色を変えたのだった。




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