第24話 私の知らない恭介さん

 九龍さんとのデートを終え、私はふらふらと帰路に着いた。


 男の人からほっぺにキスされてしまった、どうしよう、とぐるぐる考えながら歩いていれば、すぐにアパートへと辿り着く。錆びた鉄骨階段を上がり終えた頃、私は鍵を取り出して顔を上げた。


 すると、通路の奥に誰かが座り込んでいて──しかも、それは見覚えのある女の人で。



「──えっ……!?」


「!」



 その顔を認識した瞬間、思わず声を発してしまい慌てて口を閉じる。しかし彼女は顔を上げ、ばっちりと視線が交わってしまった。


 たじろぎ、私は咄嗟に目を逸らす。


 なぜならそこに座り込んでいたのは、恭介さんの元カノ──舞奈さんだったからだ。



(……な、何で、舞奈さんがここに……! 恭介さん、もう来るなって、この前言ってたのに……)



 もや、と心の中に黒い感情が生まれる。けれどそれに気付かないふりをして、私はぎこちなく会釈をしながら自室の前に立った。


 会釈は無視されてしまったけれど、刺すような視線はひしひしと感じる。どうしよう、見られてる──そう思うと、鍵もうまく差し込めなくて。


 焦りばかりを募らせ、ガチャガチャといつまでも鍵穴の前でモタついていると──不意に、「ねえ」と背後から声がかかった。



「……!」


「鍵、出来ないの? さしてあげよっか」



 振り向けば、愛らしい笑顔を向ける舞奈さんと目が合う。あまりに唐突な声掛けに反応出来ずにいると、彼女は立ち上がって私の震える手を取った。


 キラキラの爪、グラデーションのかかる長い髪。近寄るとすごくいい匂いがして、同性なのに少し緊張してしまう。


 彼女は私の手を握ったまま、鍵穴に鍵を差し込んでくれた。



「ほら、できた」


「……あ……っ、あ、あの……ありが……」


「ねえねえ、キミさあ、」



 にこ、と細められる目。カラーコンタクト越しに見つめられた私の顔が、彼女の瞳の中に映る。



「──この前、恭ちゃんの家の中に居たでしょ」



 直後、やや低く、発せられた言葉。


 私は心臓をぎゅっとつまみ上げられたかのように息を呑み、手のひらに汗を滲ませた。



(な、何で、知って──)



 顔を青ざめ、焦燥しょうそうに駆られながら黙り込んでいれば、舞奈さんはにこりと微笑んで更に続ける。



「ふふ、分かりやす」


「……い、いえ、あの、違……」


「とぼけなくていいよ? だって私、この前来た時に見たもん。恭ちゃんの部屋の玄関に、コレと同じが置いてあったの」


「──!」



 彼女は微笑みを崩さないまま、私の穿いているサンダルを見下ろす。


 サイズも小さく、ピンク色の宝石を模したチャームが揺れる、私のサンダル。どこからどう見ても女物だ。


 舞奈さんは猫のような丸い瞳で、まじまじと私を見つめる。



「うーん? 女の子の趣味、変わっちゃったのかなあ? 恭ちゃんは」


「……っ」


「髪が長くてふわふわで、女の子らしい格好が似合う子が好み~って前は言ってたけど。今は違うのかもね~」



 小首を傾げ、舞奈さんは笑った。何気なく紡がれる彼の好みの女性像は、確かに私とは正反対で。


 胸の奥が、ちくちくと痛む。



「あ……わ、私……違います……」


「ん? 何が?」


「きょ、恭介さんとは、何も……」


「あはっ! そんな、謙遜しなくて良いんだよ? 私、ただの元カノだしっ! 恭ちゃんとは、もう何もないから! 今はイイ友達って感じ! 心配しないで~っ」



 えへへ、と明るく告げて、舞奈さんは私の手を握る。「恭ちゃんの事、よろしくね?」と上目遣いに見上げた彼女は、女の私でもどきりとするぐらい綺麗で──胸の奥が、再びざわめく。



「ほら、恭ちゃんって意外と身体弱いから~。お風呂上がりに上半身裸のまま寝ちゃったりするでしょ? あのまま風邪ひいたりとか、しょっちゅうだよね! バイトも掛け持ちしてるし、心配~」


「……あ、の……」


「でも、朝起きたら寝癖とかついてる、ちょっと無防備なとこも可愛いよねっ! あ、でも今は寝癖とかそんなにわかんないのかな? 恭ちゃんって元々直毛だったんだけど、寝癖直すの面倒だからってパーマかけたんだよ~。私も一緒に美容室いったなあ、懐かし~」


「……」



 舞奈さんは懐かしむようにあごに手を当て、私の知らない恭介さんの事を語る。


 それがどうにも面白くなくて、聞きたくなくて。もやもやと、胸の奥が痛い。



(……何、これ……。私、何でこんなに、嫌だなあって思っちゃうの……)



 私と恭介さんは、まだ、ほんの2、3ヶ月前に出会ったばかり。

 彼女がそれより以前の恭介さんの事を知っている事なんて、当たり前なのに。


 俯いてしまった私をよそに、舞奈さんは「あっ、ごめんね! 私ばっかり喋っちゃって」と握っていた手を離した。


 キラキラのネイルは私から離れて、グロスの塗られた艶やかな唇をなぞる。私はどこか恥ずかしくなって、何も塗られていない自分の指を隠した。



「そろそろ行かなくちゃ。恭ちゃんに用事あったけど、帰ってこないし、また今度でいいや~」


「……」


「あ、新カノちゃん、伝えといてくれない? 貸してた海外ドラマのDVDと漫画、全巻かえせ~! って。よろしくね!」



 ふふ、と愛らしく笑って、舞奈さんは去っていく。カン、カン、カン、と錆びた階段を降りて遠ざかっていく足音を耳に入れながら、私は自分の足元を見つめていた。


 脳裏でしつこく繰り返すのは、先程の彼女の言葉。



 ──女の子の趣味、変わっちゃったのかなあ? 恭ちゃんは。



「……変わって、ないと思うよ……」



 ぽつりと呟けば、なぜだか目頭が熱くなった。

 どうして泣きそうになっているのか、自分でもよく分からない。


 俯いたままの私の脳裏には、九龍さんから告げられた言葉も蘇る。



 ──恭介が見てんのは、あんたじゃない。アイツはあんたに別の奴の影を重ねて、をしてるだけ。



 そんな彼の発言を思い出した頃、ふと、階段が再び音を立てた。



「……あれ? ハナコ?」


「……!」


「何してんの、そんなとこ突っ立って」



 カン、カン、カン、と足音を発して階段を昇ってきたのは、なんと買い物袋を片手に下げた恭介さんだった。


 ちょうど、舞奈さんとは入れ違う形で帰ってきたらしい。

 舞奈さんもほんのついさっきここを去ったばかりだから、もしかしたら、どこかで彼女と鉢合わせたりしたのかもしれない。何かまた、私の知らない彼の話をしたのかもしれない。


 そう思うとまた胸が締め付けられて、私は耐えきれず顔を逸らした。



「……、おかえりなさい……」


「……どうした? なんか、目赤いけど」


「な、なんでもないです。ちょっと、目にごみが入ったのかも……」


「は!? 大丈夫かよ、ちょっと見せてみ」



 恭介さんは私に近寄り、前屈みになって顔を覗き込もうとする。私は慌てて彼を拒み、「大丈夫です!」と首を振った。


 すると恭介さんは訝しげに眉を顰め、「いや、大丈夫ってお前……」と口火を切ったが──不意に、彼の言葉が詰まる。


 次いで、すん、と空気を吸い込む音が耳に届いた。



「……香水」


「……え」


「ドルガバの香水の匂いがする」



 私の頬の近くに顔を近付け、彼は視線をもたげる。



「……なんか、つけてる? それか、誰かと密着した?」



 低く続いた恭介さんの問い掛けに、私の心臓は跳ね上がった。


 香水──その単語で脳裏をよぎったのは、『写真を撮る』と言って私の肩を抱き、頬にキスをした九龍さんの顔。……まさか、あの時に匂いが移ったのだろうか。


 九龍さんから頬に口付けられた事を思い出し、つい頬を赤らめてしまいながら、私は恭介さんから距離を取る。



「な、なんでもないです。今日、久しぶりに電車に乗ったから、誰かの匂いが移ったのかも!」


「……電車? どこ行ったんだよ」


「ちょ、ちょっと買い物に……! そ、そろそろ私、部屋に戻ります! それじゃ!」


「あっ、おい!」



 早口で捲し立て、私は背後のドアを開いて逃げるように部屋の中へと引き上げた。バタン、と強引に扉を閉め、その場に力無く座り込む。



「……、何してるの、私……」



 何もない部屋の中。呟いた声に返事はない。


 しんと静まり返る玄関先に座り込んだ私の肩口には、九龍さんの香水の匂いが、確かに残っていた。




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