7月 - 残り2ヶ月

第32話 じゅわっ

 ──ミーン、ミンミンミン。


 蝉時雨せみしぐれが降り注ぐ、7月某日。日毎に蒸し暑さが増す午前10時。


 私は一人、鏡の前で絶望していた。



「……に、似合わない、気がする……」



 手にしているのは、可愛らしいフリルのついた新品の水着。ネットで注文してつい昨日届いたばかりのそれを、鏡の前で自身の体にてがった私は途方に暮れていたのだった。


 ……まずい。全然似合わない気がする。



(や、やっぱり、もっと地味なのにしとけば良かった……! 浅葱あさぎさんがオススメしてくれたからつい可愛くて買っちゃったけど、この水着の可愛さに私の素朴な顔が追いついてない……!)



 しかもおへそが出るやつだし……と些か後悔しつつ、わざわざ浅葱さんに相談して決めてもらったフレアタイプのオフショルビキニを睨む。


 しかしいくら後悔したところで、今さら買い直すような時間はない。


 なぜなら、今日は──。



 ──ピンポーン。



「……っあ……!」



 と、その時。不意に鳴り響いた呼出音。

 私は慌てて水着を手提げカバンに詰め、リュックを背負ってフローリングを駆ける。


 扉を開ければ、私と同じように荷物を持ったラフな私服姿の恭介さんが、その場に立っていた。


 ──そう、今日は例の合宿の日なのだ。



「お、珍しくちゃんと準備出来てる」


「で、出来ましたっ」


「忘れもんない?」


「た、多分……」


「微妙だな」



 呆れたように笑い、彼は私の部屋を覗き込む。モタモタとサンダルに足を通していた私はぎくりと焦燥し、「み、見ないでくださいよ……」と控えめに訴えた。


 しかし彼は私の部屋から目を逸らす事なく、どこか切なげに言葉を紡ぐ。



「……お前の部屋、相変わらず何もないのな」


「あ……」



 何気なく続いた言葉。私は視線を落とし、眉尻を下げながら口を開いた。



「そ、その……お金、ないですし……」


「その割に、はあるじゃん。高いだろアレ。安くても6万とかじゃない?」



 安い電化製品ならいくつか買えるじゃん、と至極真っ当な指摘をされ、私の胸は焦りを募らせて重く音を立てる。じわり、手のひらには嫌な汗が滲んだ。


 恭介さんの視線の先には、寝室の畳の上に置いてある、一眼レフのカメラ。


 ──私の、いちばん見られたくないもの。



「……っ」


「アレ、持っていかねーの? 海とか行くのに。せっかく良いカメラあるんだし、どうせなら持っていけば──」


「──大丈夫なので!! 気にしないで下さい!!」



 思わず語気を強め、私は彼の言葉を遮った。


 たちまち沈黙がその場を包み、喚いている蝉の鳴き声がキンと耳の奥に響く。やがてハッと我に返って恭介さんを見上げれば、彼は驚いた表情で硬直していた。


 だが、すぐにバツの悪そうな顔で目を逸らされる。



「……そっか。分かった」



 やや間を置いて、小さくこぼれた言葉。そのまま背を向けた彼を私は慌てて追いかける。



「……あ……っ違……ご、ごめんなさ……」


「いや……こっちがごめん。なんか触れちゃダメなとこ触れたわ」


「あ、あの……」


「──恭介ぇー! カノジョちゃーん! 迎えきたよー!」



 気まずい空気が流れる中、それを打ち破るようにプップー! とクラクションの音が響いた。下を見れば、キャップを被った鳥羽とばさんが大きく手を振っている。



「あ……」


「……はあ、あいつすげえタイミングで来るよな。まあ、鳥羽も来たし、行くぞ」



 恭介さんはそう言い、私の手から荷物を奪い取った。カン、カン、と階段を降り始めた彼だったが、踊り場まで進んだところで「あ、」と不意に足を止める。



「そういえば、言うの忘れてたけど……」


「え?」


「お前、俺のって事になってるから。そのテイでよろしく」



 目も合わせずに告げ、恭介さんは首の後ろを掻きながら階段を降りて行った。私は告げられた言葉の意味が一瞬理解出来ず、呆然と立ち尽くしたが──程なくして我に返る。


 ……か……、か、か……



「──カノジョ……!?」



 とんでもない役柄を押し付けられた私の顔は、たちまち熱を帯びて火照りあがったのであった。




 * * *




「きゃーっ、これが噂のカノジョちゃん!? やば、小さっ!! 10代!! 超かわいーっ!! お姉さんがぺろぺろして食べちゃいたーいっ」


「うるっせえよ花梨かりん。こいつが怖がんだろ、やめろ」


「つーかマジロリじゃん! 鳥羽っちの言ってた意味超絶理解! え、恭ちゃんってやっぱそっち趣味?」


「ざけんな、ロリコンじゃねえわ。マジぶん殴んぞ、鳥羽を」


「えっ、何で俺ェ!?」


「……あ、あはは……」



 邦楽ロックが鳴り響く騒がしい車内に乗り込んだ私達は、鳥羽さんの運転によって目的地へと向かっていた。


 運転席に鳥羽さん、助手席に花梨さん。そして後部座席に私と恭介さんが座っている。


 花梨さんは恭介さんから聞いていた通りのガングロギャルだが、ノリは気さくで明るい。バサバサのつけまつ毛がばっちりキマッていて、はわぁ、と思わず感嘆の息が漏れた。



「ねーねー、カノジョっち! 名前なんてーの? あたし花梨! よろしくね! てかさ、恭ちゃんが彼氏ってどんな感じ? めっちゃ愛想悪くない?」


「へ、あ、う……え、えと、」


「おいおいおさ〜! あんま質問攻めすんなって、カノジョちゃん困るじゃん。……あ、名前、エリコちゃんだったよね? 恭介が酔っ払って『エリコ~エリコ~』って呼びまくってた」


「おい馬鹿、鳥羽! やめろ!」



 花梨さんの質問攻めを遮って助け舟を出してくれた鳥羽さんだったが、先日の一件を掘り返されて今度は恭介さんが会話に割り込んだ。


 しかしすかさず花梨さんが「えっ、何それウケる! 恭ちゃんカノジョのこと好き過ぎじゃね?」と食い付いてしまう。


 恭介さんは焦ったように反論した。



「ち、違……あれは酔ってたから……!」


「ほほーん? 酔ったらカノジョの名前呼んじゃうのォ〜? ほほ〜う。ではその時の様子を詳しく話してみよ、村人B」


「はっ、長老! 先日あの村人きょうすけは飲みの席で泥酔し、しきりにカノジョの名前を呼んでおりました! 『エリコんとこ帰る』『エリコに会いたい』と繰り返し、ただひたすら『可愛い可愛い』と惚気を聞かされ──」


「鳥~~羽~~!!」



 恭介さんはついに身を乗り出し、鳥羽さんの肩を掴む。声には怒気がこもっていたが、その頬は赤く染まっていた。



「おっ前、なんでもペラペラ喋りすぎなんだよ! 黙れ!」


「やだもー、照れんなよぅ恭介〜。いーじゃん、の話なんだし。彼氏に愛されてるエピソードが聞けたら嬉しいっしょ、絵里子ちゃんも」


「~……っ、そ、そうじゃなくて……!」



 恭介さんは辿々しく言葉を紡ぎ、恐る恐ると振り返った。


 思いがけない話を聞かされた事で、私の顔は今にも爆発しそうなほど熱を持つ。そんな私と彼の視線が交わり──やがて、互いに頬を赤らめたままおずおずと目を逸らした。


 俯いた私の手には汗が滲み、視線も忙しなく泳ぐ。


 ……だって、あの恭介さんが……

 私を、可愛いって言ってたって……?



(そ、そんな馬鹿な……! 違うよ絶対! 恋人のフリするために、そういう演出しただけだよね……!? そうに決まってる……!)



 ばくばくと落ち着かない胸を押さえ、私は再び恭介さんの横顔を一瞥する。


 赤く染まる頬と、バツの悪そうな顔で首の裏を掻く仕草。あ、照れてる……と、そう察してまた胸がきゅっと狭くなった。


 思えば、彼が酔いどれた夜。


 私に口付けを与え続けた彼の目は、まるで愛おしいものでも見るかのような、優しい目付きだったようにも思えてきて──


 って、いやいや! そんなわけない!!

 妄想にも程があるでしょ私!!



(……ああ、もう……考えないようにしてたのに……)



 ぐるぐると、頭の中にはあの日の口付けの記憶が戻ってくる。


 間接的に与えられたお酒の味とか、煙草の匂いとか。それらを思い出して、また胸がおかしくなってしまった。


 あの日から、恭介さんの事考えると、私は少しおかしい。


 まるで眩しいお日様を見た時みたいな、じゅわっと光が目に染みるあの感覚が──時々、胸の中で起こる。



(……私、変だ。変だよ……。こんなの、航平こうへいの時にはなかったのに……)



 高校時代に付き合っていた元恋人の事を思い出し、小さく唇を噛んだ。無意識に上げた視線が追うのは、やはり恭介さんの横顔。


 ──ああ、なんだろうな。



(……恭介さんって……こんなに、かっこいい人だったっけ……)



 また、胸の奥でじゅわっと広がった陽だまり。


 合宿へと向かう車の中、それはぱちんと音を立てて、花火みたいに弾けた気がした。




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