第39話 グリーンカレー

 まるで、感情をどこかに置いてきたみたい。


 ぽっかり空いた胸の奥の虚無感を引きずったまま、私は九龍さんの車を出た。彼は意外にもあっさりと解放してくれて、「俺の事怖くなったなら、連絡先消してもいいよ」といつも通りの笑顔で手を振ったが、私は何も答えられなかった。


 ぐるぐる、頭の中で良くない考えが駆け巡る。

 恭介さんとの“約束”の日から少しずつ薄れていたはずの、強い衝動が戻ってくる。


 彼だけは、私の事を見てくれてると思ってた。


 私、多分ちょっと自惚れてた。


 ……でも。



「……違ったんだ……」



 力なく呟き、誰もいない真っ暗な廊下に座り込む。


 結局私は、誰からも求められていない。

 きっとこれからも、誰にも求められる事は無い──そう考えると、急に惨めになった。


 その時ふと、私の脳裏には家に置いてきた一眼レフのカメラが蘇る。


 たった1枚分、写真のデータが保存された、あのカメラが。



(……やっぱり、あの写真以外に、私を求めてくれていたものなんてないんだ……)



 目尻に涙を滲ませ、廊下の隅で膝を抱える。すると不意に、「ハナコ!」と私を呼ぶ声がその場に響いた。



「……!」


「やっと見つけた……! 何してんだよ、こんな所で」


「……」


「外にもいねーし、鳥羽も花梨も見てないって言うから……なんかあったのかと思って、心配した……」



 駆け寄ってきたのは恭介さんだった。彼は壁際で縮こまる私の前に座り込み、申し訳なさそうに眉尻を下げる。



「……ごめん。外に居づらかったんだろ。料理に時間取られて、長時間一人にしちゃったし……俺が合宿誘ったのに、ごめんな」



 バツの悪そうな恭介さんは、首元に手を当てながら謝罪の言葉を告げる。


 そんな彼の姿を見つめただけで、憔悴していたはずの私の胸はきゅうっと狭まった。結局どう足掻いても、私は彼を愛おしいと思ってしまう。


 顔を覗き込み、「もしかして泣いてる?」「ほんとごめん……」と焦る彼の目に映っているのは、きっと、“私”ではないのに。


 ──それでも、やっぱり。



(……私、あなたが好きです)



 そんな悔しい結論に達してしまった瞬間──私は、至近距離にある恭介さんの胸に身を寄せた。



「……えっ? は、ハナコ?」



 ぎゅう、と彼にしがみつき、頬を擦り寄せる。


 ずるい女だ、私は。

 彼の気持ちを利用している。

 きっと、彼は拒まない。そう分かっている。

 私は、あなたの大事な人の“代用品”だから。


 その憶測通り、恭介さんはすぐに私の抱擁に答えてくれた。背中に腕を回し、「どうした?」と優しく問い掛けながら、後頭部を撫でる大きな手。それが心底愛おしいと思ってしまう。



「ハナコ……」


「……」


「……俺の部屋、行く?」



 だから、そっと耳元で囁かれた言葉に、私はこくんと頷く事しか出来なかった。




 * * *




「はい、ハナコの分」



 コトン。


 彼の部屋に招き入れられて早々、目の前に置かれたのは真っ白なタッパーと、米一合分はある巨大なおにぎりだった。かぱりとタッパーの蓋を開ければ、誰もが知るあの香りが部屋に満ちる。



「わ……、カレー? 緑色の」


「そう、グリーンカレー。初めて食べる?」


「初めてです」



 ぐう、と空腹を告げるお腹。ローテーブルの上に置かれたのは、バーベキューで余った食材を使って作ったというグリーンカレーだった。


「ハナコのために、辛くないの作ったから」


 と微笑む恭介さんの台詞がやけに甘く耳に残って、つい頬を赤らめてしまう。なんだか、私だけ特別みたい。辛いのは苦手、って前に言ったせいだろうけど。



「ふ、普通は、辛いんですね」


「まあ、青唐辛子が大量に入ってるからな。外の奴らの分は市販のペースト使って作ったけど、それだと激辛だろうから、ハナコのは辛くないように全部1から作った」



 だから時間かかっちまって、ごめんな。と恭介さんは再び私の顔を覗き込む。途端に、きゅうっと切なくなる胸。


 恋を自覚してしまった私には、どうしても恥ずかしくて、彼の顔が直視出来ない。



「だ、大丈夫です……」


「でも、心細かったんだろうなと思って。知らない奴ばっかだろうし、なんか様子おかしかったし……」


「……、うん……ちょっとだけ、寂しかったかも」



 か細く本音をこぼして、スプーンを握る。すると彼は目を細め、私の頭をそっと撫でた。


 その時、ふと──彼の指に絆創膏が貼られているのが目に留まる。



「……! 恭介さん、怪我したんですか?」



 顔を上げて問い掛ける。すると彼はハッと目を見開き、頭を撫でていた手を隠すように引っ込めてしまった。



「あー、これは、その……包丁で切って……」


「えっ! 珍しい……大丈夫ですか? どこか調子悪かったとか?」


「……いや、違う……ちょっと考え事してたの。色々イラついててさ……気付いたら、切ってた」



 溜息混じりにこぼし、恭介さんは表情を曇らせる。

 つい心配になってその顔を覗き込むが、彼はすぐにへらりと笑って「大丈夫だって。いいから、ハナコは飯食って」と再び私の頭を撫でた。


 触れる手のひらの温度に頬を赤らめつつ、「い、いただきます……」と小さく告げれば、彼は「どーぞ」と優しく微笑む。頭を撫ぜていた指も徐々に場所を移し、今度は私の髪を弄り始めた。


 最近、彼は“決まり事”を無視して、よく触ってくる。


 好きな人に触られるのは、正直嬉しい。


 でも、どこか切ない。


 期待するなと自分自身をいましめながら、大きなおにぎりをカレーのタッパーに移す。


 スプーンでそれを掬い上げ、ぱくり、ひとくち。口にした具沢山のグリーンカレー。

 ココナッツミルクの風味とスパイスの香りが混ざり合って、優しく舌の上に広がっていく。


 ナス、エリンギ、玉ねぎ、ズッキーニ。


 バーベキューで使った野菜と大きな鶏肉がごろごろ入っているそれは、普通のカレーよりもエスニック感が強くて、だけどマイルド。辛味はほとんどなく、酸味も少ない。


 本当のグリーンカレーを食べた事はまだないけれど、きっとこのカレーは、世界でいちばん優しい味のするグリーンカレーなのではないかと思う。彼が、私のために作ってくれたカレーだから。


 ……いや、でも──“私のため”じゃないか。



「……おいしいです」


「ほんと? 食べれる?」


「うん。好きです、このカレー」



 にこり。微笑んで、またカレーを食べ進める。


 恭介さんはきっと、私の事を大事に思ってくれているのだろう。


 けれど、それはあくまで“私を通した先にいるアキさん”を大事にしているのであって──まっすぐ私に向けられた感情ではない。


 私は、誰かの代用品。


 辛い青唐辛子の代わりにこのカレーに入れられた、“何か”と同じ。


 決定的な味の決め手には、なれない。



「そのカレーさ、青唐辛子の代わりに何入れたと思う?」



 考え込みながら食べ進めていた私の髪を弄りつつ、恭介さんが問いかける。私は顔を上げ、暫し思案した後に口を開いた。



「緑だし……ほうれん草?」


「違う。でもほうれん草カレーもうまいよな」


「うーん、緑……。キャベツ……レタス……」


「ブッブー、違います。正解は、これ」



 ころん。


 恭介さんの手の中からテーブルに転がったのは、深い緑の、よく知る野菜。


 ──私が、世界でいちばん嫌いなそいつ。



「……ええっ!? ピーマン!?」


「そー。青唐辛子の代わりにピーマン使った。分かんなかった?」


「全然……! どこに入ってるんですか!?」


「フードプロセッサーで細かく粉砕して、ペースト状にしてあんの。しし唐でもいいんだけど、バーベキューでピーマン使ったしそれでいいかって」


「ええ~っ!」


「まあ、マズいって言われたらどーしようもないし、結構な賭けだったんだけど……良かった。食えたじゃん、ピーマン」



 そう言って嬉しそうに微笑む彼は、どこか得意げに私を見た。一方で私は呆気に取られたまま、グリーンカレーを見つめる。


 ピーマン、食べれた。

 パプリカだって勇気使うのに、こんなにもあっさりと……。



「……恭介さん、やっぱり魔法使いです」


「ははっ、すげーだろ? ハナコがピーマン食えたから、今日はピーマン記念日な」


「ピーマン記念日……」


「えらいハナコには、なんかご褒美あげる。何がいい? お菓子?」



 ご褒美──その言葉で浮かんだのは、先程頭を撫でてくれた恭介さんの手の感触だった。


 ──また、頭撫でて欲しいな。


 そう考え、私はそっと目を伏せながら口を開く。



「……恭介さん」


「……え?」


「恭介さん、に、」



 ──触って欲しいです。



 そう小さな声で告げれば、彼が言葉を詰まらせて息を呑んだのが分かった。しん、と長い沈黙がその場を包み、私はぱちりと瞳をしばたたく。


 ……あれ? 何か変な事言ったかな。



(あ、主語が抜けてたかも……“頭に触って欲しい”って、ちゃんと言わなきゃ)



 そう思い直し、「あの、だから──」と訂正しようとした、刹那。


 座り込んでいた私の体が、突如床から離れる。



「……っ、へ!?」



 突として足が宙に浮き、かと思えばすぐに柔いベッドの上に投げられた。どうやら恭介さんに抱えられてこの場に投げ落とされたらしいと認識した瞬間、私の顔の真横に手をついた彼が覆いかぶさる。


 ぎしり、ベッドが軋み、暗い影が落ちる。まだ状況が理解できていない私に端正な顔を近付け、恭介さんは低く声を発した。



「簡単に、そういう事言うなよ」


「……っ、きょ、恭介さ……」


「俺が普段、どんだけ我慢してると思ってんの。わざわざあんな面倒な“決まり事”まで作ってさ」



 低音を紡ぐ彼は一切の揺らぎもない瞳で私を射抜いたまま、私の着ているTシャツの裾を掴む。



「えっ……!?」



 びく、と強張る体。ま、待って、もしかしてそういう意味に取られてる!? とようやく彼の勘違いを察した私は、密着する胸を慌ただしく押し返した。「ち、違います、待って!!」と声を張り上げれば、さらけ出された私の首筋に恭介さんの顔が埋まる。



「ひゃっ……! あ、あのっ、恭介さん……! 待って、違うの、そういう意味じゃなくてっ……!」


「じゃあどういう意味で言ったんだよ」


「あ、頭……っ頭を撫でて欲しいって意味で……!」


「それで、他意もなく“触って欲しい”とか、ああやって簡単に言うの? 誰にでも?」


「きゃっ!?」



 衣服の中に滑り込んだ手が腹部を伝い、大きく体が跳ね上がった。どこか怒りを帯びている気さえする彼の言葉に、私は震える声を返すしかない。



「や、やだ、やめて……! 怖いよ、恭介さん……っ」


「……」


「お、怒ってるんですか……? ごめんなさい、もう、変な事言わないから……っ」



 思わず涙声になり、彼が何に対して怒っているのかも分からないまま謝る。すると、それまで素肌の上を移動していた彼の手がピタリと動きを止めた。


 同時に、首筋に埋められていた顔もゆっくりと離れる。



「……違う。怒ってない」


「……っ」


「……ごめん。俺が、勝手に八つ当たりしてるだけ」



 力なく告げ、恭介さんは怯える私を解放した。そのまま上体を起こし、深い息を吐き出しつつ隣に倒れた彼は、片腕で目元を押さえつけながら天井を仰ぐ。



「最悪……何してんだろ、俺……ほんとごめん」


「……あ、あの……」


「……今日、たこ焼き屋の前で会ったじゃん、お前の元カレ。あれからずっとイライラしてて……何かさっき、それがプツッて切れた」



 ぽつり、ぽつり。

 こちらを一切見ないまま、彼はか細い声で語り始める。



「深く考えずに『触って欲しい』とか言うから、アイツにもそうやって無意識に無防備な顔見せてたんだろうなって思ったら、止まんなくなって……」


「え……」


「……つまり、ただの嫉妬。かっこ悪、俺……」



 はあ、と再び溜息をこぼし、恭介さんは背を向けた。反省してる子供さながらの彼の背に、私はそっと手を伸ばす。



「……大丈夫ですよ、恭介さん。私も、今日、やきもちたくさん妬きましたから」


「……は?」


「私ね、ほんとはずっと嫌だった。海で、恭介さんが舞奈さんに触られるのも、喋ってるの見るのも……。でも、付き合ってもないのにそんな風に思うの、引かれそうで言えなくて……でも私、ほんとはすごく……」



 きゅ、と恭介さんの服を掴み、身を寄せた。すると彼は勢いよく振り返り、またもや私の体を押し倒す。



「……!?」


「何それ。そんな事言われたら、俺、期待するけど良いの?」


「……き、期待……?」


「俺と同じ気持ちなのかなって」



 手のひらが重なり、指が絡め取られた。そっと降りてきた額が合わさり、鼻先が触れるほどの近さにまで端正な顔が迫る。


 ──同じ気持ち?


 今の言葉を自身に再度投げかけ、目を泳がせた。


 同じ気持ちって、何?

 私が嫉妬した気持ちと同じって事?

 嫉妬したって事は、つまり、何?

 独り占めしたいって事?


 そうだよね、多分。


 私は恭介さんが好き。


 恭介さんを独り占めしたい。


 じゃあ、恭介さんも、私を──?



(……違う)



 ぴたりと動きを止めた視界の端に、食べかけのグリーンカレーが映る。それを見つめて、違うよ、とまた繰り返した。


 だって私は、アレと同じ。

 青唐辛子じゃなくて、ピーマンで作った、その場限りの代用品。


 私は、あなたが本当に求めている人じゃない──。



「……違います」


「……え」


「同じじゃないです。別物です」



 驚くほど冷静に言葉が飛び出し、唇が触れそうな距離にまで迫っていた恭介さんの目が見開かれる。私は彼から顔を逸らし、暗に口付けを拒んでその胸を押し返した。



「ごめんなさい、恭介さん……私、なんか体調悪いみたいなので、部屋に戻ります」


「……は? おい……!」


「恭介さん、私ね……」



 肩を掴む彼の手を振り払い、ベッドを降りる。迫り上がる群青色の雫を睫毛の手前で堰き止めながら、私は続けた。



「──私、誰かの代わりには、なれないみたい……」



 最後、無理に笑って振り向いた私の顔は、うまく笑顔を作れていたかな。


 呼び止める恭介さんの声も無視して、代用品ピーマンで作られた食べかけのグリーンカレーをテーブルの上に残したまま、私は、彼の部屋を出て行った──。




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