第38話 “アキ”

 じゃり、じゃり、じゃり。

 庭の喧騒に背を向けて、私は一人、暗い駐車場へ向かって歩いて行く。


 指定された白のセダンは、一番奥の端っこに停めてあった。コンコン、とスモークガラスの窓を叩けば、すぐにロックが外れて扉が開く。


 にこり、柔く細められる、サングラス越しの瞳。



「いらっしゃーい、鼻たれハナコ。俺の愛車へようこそ~♡」


「……こんばんは」



 控えめに会釈した私は、笑顔で出迎える九龍さんにいざなわれるまま助手席に乗り込んだ。


 扉を閉めれば、カチン、とすぐにロックがかかる。



「嬉しいなァ、ハナコの方から誘ってくれるなんて。どうせ恭介から俺と会うなって言われてんだろーなーって思ってたんだけど」


「……」


「んー? どした? なんか元気ないじゃん。恭介と喧嘩した?」


「……あの……」



 きゅ、と自身の両手を握り締め、口火を切る。



「……アキさんって、知ってますか……?」



 意を決してそう告げた瞬間、九龍さんの顔からは笑顔が消えた。しかしすぐに、彼はくつくつと喉を鳴らす。



「……あー、なるほど。理解したわ。突然何かと思ったら、そういう事」


「九龍さんなら、教えてくれるって……」


「ふーん。それで? 何が知りたいの」



 すっと伸びてきた長い指が、私の髪を掬い上げる。いつも纏っている香水の匂い。手首に直接付けているのか、彼の指が髪を撫でる度にそれが強く香った。



「……私に、似てるって」


「うん、似てるね」


「ど、どういう所が?」


「雰囲気っつーか……空気感? あと控えめな性格とか、人の変化をよく見てるとこ。見た目も……小柄でどことなく頼りない感じが似てるかな」



 九龍さんはサングラスを外し、目を細めながら更に身を寄せてくる。私は縮こまりつつも再び問いかけた。



「た、頼りない、ですか……?」


「うん、頼りない。無防備。なーんか、守ってやんなきゃーってなる感じ。庇護欲そそられちゃうよね、危なっかしくて」


「……あ、あの……ちょっと、九龍さん、近……」


「こうやって、男と二人っきりの密室にまんまと誘い込まれて、しかもそのまま無事に帰れると思ってるとことかもさあ……」



 ──ガクンッ!


 刹那、突如私の座っている席の背もたれが真後ろに倒れる。短い悲鳴を上げて私も一緒に倒れた直後、九龍さんは強引に私の体をバックシートへ引きずり込んで押さえ付けた。



「……っ!?」


「──俺じゃなくて恭介を選ぶところとかも。ぜーんぶ、そっくり」



 低音を発し、私を見下ろす冷たい瞳。ひゅ、と息を呑み、全身が強張る。



「いい事教えてやるよ、ハナコ」


「……っ」


「俺は恭介が死ぬほど嫌い。アイツを苦しめるためなら何だってやる。本当は殺してやりたいぐらいだけどさ、残念ながらアイツには生きて貰わないと困るんだよね。生きて一生苦しむ事が、アイツのすべきつぐないだから」


「く、りゅ、さ……」


「ハナコの事は、元々横からさらう予定だったんだけど……まさかそっちから来てくれるとはねえ。……ねえ、ハナコ。今、恭介が一番苦しむ事って何だと思う? ほら、答えてよ。アイツが一番傷付く事、なぁーんだ」



 豹変した九龍さんは私の顎を掴んで上向うわむかせ、恍惚とした表情で見下ろしながら顔を近付けた。恐怖で竦み上がり、息すら上手くできない。どく、どく、と鼓動を刻む胸がぴたりと合わさって、彼の体重がのしかかる。



「……は……っ、九龍、さ、」


「正解は~、お前だよ。ハナコ。お前を傷付ける事が、今の恭介には一番効く」


「……っ」


「馬鹿だな、お前。もしかして俺の事信用してた? 残念でした~。どーせ舞奈あたりにアキの事でそそのかされて来たんだろうけど、頭弱すぎ。馬鹿正直に来てんじゃねーよ、恭介に怒られるよ?」



 冷たい瞳が私を貫き、震える唇をなぞっていた指先がつうと喉元に降りてくる。



「あは……何がいいかな、恭介へのプレゼント。喉潰れるまで泣いてるところ動画に撮る? 全身真っ赤になるまで噛んでマーキングしてあげるのもいいかも。どっちにしろ、あと1万円分はハンカチ代返済してもらわないといけないし? ご奉仕してよ、俺に。全部録画して恭介に送り付けてあげる」


「……あ、や、やめ……」


「ああ、それとも──いっそ死んでみる? ひと思いに」



 にた、と上がる口角。

 細い首を囲う手のひら。

 喉に食い込まんと指圧する親指。



 ──いっそ死んでみる?



 そんな彼の言葉が、何度も脳内で繰り返されて。


 けれど、その言葉によって──私の体の震えは、ぴたりと止まった。



「……!」



 強張らせていた体から力を抜き、彼の体を押し返そうとしていた手を引っ込める。


 じっと見つめた九龍さんの目が僅かに見開かれた頃、彼はそれまで浮かべていた笑顔をたちまち消して表情を歪めた。



「……は? 何で、抵抗やめんの」


「……」


「何、その顔。お前ふざけてんの? 何で、この状況で──」



 ──そんな安堵した顔してんだよ。



 どこか苦しげに、九龍さんが声を絞り出す。一方で、私は自分が今どんな顔をしているのかも分からずに、ただ彼の顔を見上げていた。


 九龍さんは私の細い首に手を回したまま、ぴくりとも動かない。しかし程なくして、彼は大きな舌打ちと共に私から離れてしまった。



「……はっ……、マジで寒気する……何だ、やっぱ何もんじゃん、恭介……。ゼリー食ってた時のまんまなんだろ、お前」


「……あ……」


「ふざけんなよ……ハナコさあ、何でそんな、何もかもアキと一緒なわけ? そりゃ恭介も肩持つよなあ、お前とアキを重ねてさ!」


「く、九龍さ……」


「ふざけんな……っ何でだよ! 何でアキもハナコも、俺じゃなくて恭介を選ぶんだ……何で恭介が、いつも最初にんだ!! 最初に気付くのが俺だったら……アキも、救えたかも、しれないのに……」



 悲痛に怒鳴った彼は、まるで責めるように俯いて自身の髪を握り込む。



「……いつも、そうだよ。先におかしいって気付くのは恭介で……俺は何も知らない。気付いた時にはもう、どうしようもなくなって、何も救えない……」


「……」


「ムカつくんだよ。恭介ばっかり、いつも先に気付いて……。けど、俺より先に気付いたくせにアイツは……、アキを、救ってくれなかった……」



 虚空を睨む目が、また悲痛に細められる。私は何も言わず、黙って耳を傾けた。



「すげームカつくんだよ。アキを救えなかったくせに、似たような境遇のお前の事捕まえて、助けた気になって罪滅ぼししてんのが。また、先に見つけたのがアイツで、ムカつくんだよ……!」


「……」


「俺だって、アキの苦しみに気付きたかったし救いたかった……! 気付いてたら絶対に救ってやったよ!! 俺だって……っ、俺だってなあ!!」


「──私は九龍さんに救われました」



 怒鳴る九龍さんの声を遮り、ぽつりと告げる。すると彼は言葉を詰まらせ、私を見た。



「……は?」


「……アキさんと何があったのか、私は知りませんし、分かりません。でも、私、九龍さんに救ってもらったんです。それは間違いないです」


「……」


「私が道で転けて、鼻血出しちゃった時……九龍さんが、私の手当てして、スマホの電源入れてくれたでしょ? それに、見たくない連絡先も九龍さんが消してくれた。……あの日、私、あなたにたくさん救われたの」



 か細い声で続ければ、やがて九龍さんは鼻で笑う。



「……はっ、何それ。そんなの俺がやらなくても、どうせ恭介がしてくれてただろ」



 しかし、私は首を振った。



「……恭介さんには、絶対出来ません。あの人は私の恐れるものや過去を詮索しない。許容範囲を明確に線引きして、絶対それ以上深入りしてこない人だから」


「……」


「人との隔たりや距離感を恐れない九龍さんだったから、私の事を助けられたんです。私はあなたに救ってもらったんです。……それだけは、ちゃんと知っていて欲しい」



 そこまで続けて、私はおずおずと目を逸らす。「って、なんか、偉そうな事言ってごめんなさい……」と控えめに付け加えれば、隣の九龍さんは「ハア~……」と大袈裟な溜息を吐き出した。



「何それ……。ほんと、鼻たれハナコのくせに生意気……」


「あ、う……す、すみません……」


「……俺さあ。ずっと、好きだったの。……アキの事」



 ぽつり。九龍さんは遠くを見つめ、不意に語り始めた。私は目を見開き、彼の顔を見つめる。



「……俺と恭介は幼稚園からの幼なじみで、兄弟みたいにずっと一緒だった。そんでアキとは、同じ習字教室通ってんのがきっかけで、小学2年ぐらいの時に仲良くなった」


「……」


「あ、そうそう、実は“アキ”って名前、本名じゃないんだよね。恭介が、勝手に付けた名前なの」


「え……」


「アキの本当の名前は、“ハジメ”。明るいって書いて“はじめ”ってのが、アキの本名。それを周りから『男みたい』ってからかわれて、習字教室なのにずっと自分の名前書くの嫌がって、俯いててさ。そしたら恭介が、『だったらアキって名前にしようぜ』って言い出して──そんで、俺と恭介で、アキって呼び始めた」



 九龍さんは懐かしむように目を細め、電子タバコを取り出して咥えた。火をつければ、紙の焦げるような独特な匂いが車内に満ちる。



「それからは、毎日のように三人で居た。中学卒業するまで、ずっと仲良かった。俺と恭介は高校も一緒で、アキは隣町の女子高に通い始めて。でも駅は同じだったから、結局毎日三人で居た」


「……」


「……アキの様子がおかしくなったのは、多分その頃からだったよ。どんどん痩せて、俺達の誘いも断るようになった。それで、気が付いたら……アイツ、しか食べなくなってた」



 ──ぴくっ。


 ゼリー、という単語につい反応する。動揺した私に気付いたのか、「ハナコも思い当たる節あるっしょ」と九龍さんは煙を吐いた。



「……元々、食べるの好きだったんだよ、アキ。特に恭介の作ったハンバーグが好きだった。目玉焼きの乗った、“陽だまりハンバーグ”」


「……え……」


「中学の頃、家庭科の授業でさ。調理実習でハンバーグ作った時に、恭介がわざと余分に卵持ってきて、俺達の分だけ勝手に目玉焼きハンバーグにしたの。それからアキが恭介のハンバーグ好きになって、事ある毎に恭介に作って貰っては、『天才!』って大袈裟に褒めちぎって……」



 どく、どく、どく。


 胸の奥が、嫌な音を立て始める。



(……私と、同じ……)



 本名とは違う、もう一つの名前ハナコも。

 目玉焼き陽だまりの乗った、美味しいハンバーグも。


 出会ったあの日に、私は、恭介さんから与えられている。



『ゼリーばっか食うなって言ってんだろ』


『お前、なんか危なっかしいんだよ……』


『出た、大袈裟……』



 今までに貰った、あの言葉も、名前も、晩ご飯も。



『……俺が触りたい。だから、やむを得ない』


『てっきり、ヤキモチでも妬いてくれたのかと……』


『……水着姿、お前が、一番可愛い』



 肌に触りたいのも、ヤキモチ妬いて欲しいのも、水着姿を見たかったのも。



『1回だけでいいから……“恭ちゃん”って、呼んでくんない?』



 “恭ちゃん”って、呼んで欲しかったのも、本当は全部──えりこじゃなくて。



「──アキは、恭介の事が好きだった」


「……」


「……恭介も、多分アキが好きだったんだと思う。でも恭介は、俺がアキの事好きなの知ってたから……俺に遠慮して、アキの気持ちに答えてやらなかった」


「……」


「……それで、アキは、結局……」



 九龍さんは一瞬口を閉じ、言い淀む。けれどややあって、吐き出した煙と共に続きを語った。



「──死んじまった。恭介の誕生日……9月10日に……自分で橋から飛び降りて」



 ──9月10日。


 それは、彼がポストのロック解除に振り当てていた数字と全く同じだった。


 0910──何の数字だろうとぼんやり考えていたけれど、そうか、と妙に納得する。


 彼の几帳面で気にしいな性格上、安直に誕生日をパスワードにするなんて変だなあ、と思う。でも、その日、大事な人を失ってしまっていたのだとしたら──また意味合いが変わってくる。


 ああ、結局、彼の中では、まだ。



(アキさんが、消えてないんだ……)



 一眼レフを首に下げ、遠くへ逃げ出そうとした、あの日。


 手を伸ばしてくれた彼との“約束”によって繋ぎ止められた私の日々は、今もまだ、続いている。


 けれど恭介さんの瞳の中に映っていたのは、最初から私ではなかった。


 彼があの“晩ご飯やくそく”の先に見ていたものは、“私”との平穏な日々ではなく。



 ──私の向こう側にいる、アキさんの面影。



 ……ただそれだけでしか、なかったんだ──。




 .


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