第47話 “ハナコ”

 あの日の出来事を全て話し終え、私はカメラを抱きしめて俯く。


 恭介さんは絶句して、何も言葉を発さない。



「……陽葵を失ったあと、私は高校を辞めました。高卒が絶対条件だった専門学校の内定は取り消されて、親同士も別居状態になってしまって……もしかしたら、もう離婚したかもしれません」


「……っ」


「私は少ない貯金を使って、スマホの電源も切って……逃げるように家を出ました。……それで、あのアパートに来たんです。死ぬために」



 私は俯いたまま、再び迫り上がった嗚咽を噛み殺して続けた。



「……でも、死ねなかった……怖かった……。死ぬのが怖くて、でも死にたくて、お腹がすいて、ゼリーを食べて……命を、繋いでしまってた……」


「……」


「そんな時に、恭介さんに会って……美味しいご飯を、私に食べさせてくれた。でも、からっぽのお腹が満たされていく度に、あの子が少しずつ欠けていくような……そんな気がして、すごく、胸が痛かった……っ」



 ぽろ、ぽろ。

 我慢出来なかった涙が、境界を超えて溢れ出す。



 ──3月。彼と、初めて会った日。



 ベランダから身を投げようとした所を引き止められ、何日もゼリーしか食べていなかった私のお腹は、彼の部屋に入った途端にぐうぅと盛大に音を鳴らした。


 それを聞いた恭介さんは大きく目を丸めたが、すぐに柔らかく破顔して、『ちょっと待ってな』とキッチンに立ったのだ。やがておいしい匂いが漂って、また大きくお腹が鳴った。


 暫くして出てきたのは、ハンバーグ。

 目玉焼きの乗った、美味しそうなハンバーグ。


 それを丁寧に私の前に運んだ恭介さんは、自分も正面の席に座り、頬杖をついて優しく私を見つめた。



『俺特製、“陽だまりハンバーグ”。腹減ってんだろ? 冷めないうちに食えよ』


『……いりません。お腹すいてません』



 ──ぐううぅ。



『いや、めっちゃ腹鳴ってんじゃん。いいから食えよ、



 カトラリーケースを押し付けて、私を変な名前で呼んだ彼が笑う。私は眉を顰めて問い掛けた。



『……ハナコって、何ですか?』


『腹が鳴ってる、。だからハナコ』


『何それ……私、エリコです。吉岡 絵里子』


『まあ、いいから早く食ってよ。ハナコ』



 正しい名前を告げてみても、その名を呼ぶ気はないらしい。結局根負けした私は、ハンバーグと目玉焼きを共にナイフで切り分け、ぱくりと口に放り込んだ。


 じゅわり、途端に溢れる肉汁と、とろり、絡まる半熟の目玉焼き。

 それがあまりに美味しくて、優しくて。色んな感情が胸の奥から溢れ出し、無意識に表情が歪んでしまう。


 私、いつ以来だったんだろう。

 あんな風に、ちゃんと誰かの手料理食べたの。



『……、おいしい……』


『……』


『おいしい……っ』



 私は美味しいハンバーグを咀嚼しながら、とうとう耐えきれずに泣いてしまった。



 ──死にたい。


 ──怖い。


 ──もう私には何もない。



 色んな感情が飛び交って、嗚咽が止まらない私の傍に、そっとティッシュを置いてくれた恭介さん。彼は泣きじゃくる私が落ち着くのを待った後、『……あのさ。お願いがあるんだけど』と話を切り出した。



『死ぬつもりなら、ちょっと待って欲しい。少しでいいから、俺に時間を与えて欲しい』


『……え?』


『1年──いや、半年でいい。半年間、夜だけでいいから、』



 ──俺と、“約束”して欲しいんだ。



 あの日、彼はそう言って私との約束を取り付けた。


 半年間の、甘くて優しい、残酷な約束。


 私を“死”から遠ざけるための、その約束を──。




「……っ、本当に、ひどい人です、恭介さんは……!」



 私は震える声を絞り出し、恭介さんの胸元に力なく寄り掛かる。泣きじゃくったまま、私は続けた。



「ひどい、よ……やっと覚悟したのに……っ、やっと、陽葵の傍に行けると思ったのに……!」


「……」


「あのまま、死にたかったのに……っ」



 嗚咽混じりに伝えて、恭介さんの胸に顔を押し付ける。すると彼は私の背中に手を回し、そっと私を包み込んだ。



「……違うよ。お前は、死にたいなんて思ってない」


「……っ?」


「頭ん中では、そう考えてたのかもしれねーけど……お前のは、死にたいなんて最初から思っちゃいなかった」



 彼はようやく閉ざしていた口を開き、私の後頭部を優しく撫でる。短い髪に頬を寄せ、恭介さんは続けた。



「……俺、なんでお前に『ハナコ』って名前付けたか、分かる?」



 不意に投げ掛けられた、唐突な問い。私は「え……」と目を泳がせたが、やがておずおずと顔をもたげて「……お腹が、鳴ってたから……?」と答える。


 すると、彼は微笑んで頷いた。



「うん、そう。ずっと腹が鳴ってたから、“腹鳴りハナコ”」


「……」


「じゃあ、何で腹って鳴ると思う?」



 更なる問いかけに、私は言葉を詰まらせる。暫し間を置き、「お腹が空くから……」と控えめに答えれば、恭介さんはまた頷いて口を開いた。



「うん。腹が減るから、腹が鳴る。食べる物を欲して、体が叫ぶ」


「……」


「俺はさ、『食べる』ってのは、人間が出来る一番簡単なだと思ってんだよ。“生きる”ために、俺達は“食べる”。そうだろ?」



 私の背中を撫でながら続ける彼に、こくんと控えめに頷く。熱で汗ばんだ体は、密着したまま左右の両方で互いの心音を刻んでいた。



「お前の腹は、お前を咎めるために鳴いてるんじゃない。怒って責めてるわけでもない」


「……え……」


「その腹は、お前に鳴いてたんだ。ずっと……」



 熱い胸に強く抱き込まれ、大きな手のひらが私の後頭部を押さえて、頭上で彼の呼吸が震える。


 とく、とく、と間近に伝わる心音が、耳元で拍を刻む。



「……俺が、最初にお前を部屋に入れた時……でっけー音で、腹が、鳴ったよな……」


「……、うん」


「……あの時、俺、お前の事……救えると思った。あの間抜けな音が、お前の体からの、叫びに聞こえた……っ」



 強く抱き締める恭介さんの声が掠れて、徐々に尻すぼみになる。けれど、その後に続いた言葉は、はっきりと耳に届いた。



「食べる事は……っ、俺達が出来る、一番簡単で確実な、“生きる”ための手段だ……! 腹が減るのも、腹が鳴るのも、“生きる”事を求めてる体のサインなんだ……!」


「……!」


「お前の体は、最初から──『生きたい』って、叫んでたんだよ……っ!!」



 ──ハナコ。



 出会ってから今まで、彼が何度もそう呼んだ、私の名前。


『腹が鳴るから、腹鳴りハナコ』


 そう言って、いつも本名は呼んでくれなかった。

 ずっと、適当な名前でからかわれているんだと思ってた。


 でも、違う。きっとそうじゃない。


 彼が、私を“ハナコ”と呼び続けたのは──。



「お前に、生きて欲しい……っ」


「……っ」


「お前の体が、ちゃんと“生きたい”って言ってる事に、気付いて欲しい……! いつかそれに気付いてくれるように、俺、あの時……腹鳴りハナコって、名前つけた……」



 声を震わせ、嗚咽をこぼしながら、恭介さんは私を強く抱き締める。抱き込まれているせいで顔は見えないけれど、泣いているのだとすぐに分かった。



「子供を失ったお前の悲しみも、苦しみも……っ、きっと、男の俺じゃ計り知れないぐらい、辛いものだったと思う……。そんな俺が何言って説得したって、本当に辛い思いしたお前には、安っぽく聞こえちまうのかもしれない……」


「……」


「でも、俺はお前と生きたい……っ! 俺は、絵里子に生きて欲しいんだよ!!」


「……恭介、さん……」


「なあ……っ、だから──」



 ──俺と、生きてよ……。



 嗚咽の混じる声で弱々しく告げた彼に、胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。「俺が一緒に、陽葵の事も背負うよ……」と続いた言葉に、更に胸が痛くなった。



 ……ああ、ひどい人だ。


 本当にひどい人だよ、恭介さんは。


 せっかく死のうとした私の決意も、彼はこうやって、優しい言葉でぽきりと容易く手折ってしまう。



『──ハナコ』



 あなたはずっと、その名を紡ぐ事で、私が『生きている』事を伝え続けていた。


 最初から彼は、私を“生かす”事しか考えていなかった。


 私の事しか、見ていなかった──。



「なあ、絵里子……まだ、死にたい……?」


「……」


「死にたいなら、言って……。死にたい理由100個あるんだったら、俺……お前が生きるための方法、101個考えるから……っ」



 そう続けた恭介さんの涙声に、私の視界がじわりと滲む。


 ぼやけて歪んだ世界の中、まるで走馬灯のように脳裏を過ぎったのは、彼と過ごした“約束”の時間の記憶だった。



 オムライス、


 生姜焼き、


 おしゃカレー、


 デッエビフライ、


 リゾット、


 ギョウザ、


 ──ハンバーグ。



 全部、おいしくて、愛おしくて。


 まだ、あなたと、『いただきます』って言っていたくて。



「……たく、ない……」



 とうとう口走ってしまった言葉が、涙と共にこぼれていく。



「死にたく……っ、ないよぉ……っ」


「……!」


「死にたくない……っ、死にたくないです……! えぐっ、ごめんなさっ、私、まだあなたと、ひっく……、うっ、一緒に、居たい……っ、ごめんなさい……、うぅっ、ごめんなさい……っ!」



 彼の胸に縋り付き、一眼レフのカメラを抱いて、泣きながら謝った。何に対して謝罪しているのか、自分でもはっきりとは分からなかった。


 恭介さんは泣き縋る私を受け止めて、自身も肩を震わせながら、何度も背中を優しく叩く。



「……俺と、一緒に生きよう? ……絵里子」



 やがて耳元で囁いた声に、私は何度も頷いた。



「……っ……うん……! 生きる……っ、生きてく……っ! 恭介さんと、一緒に……っ、」



 ──生きて、いきたい。



 そう告げた瞬間──遠くの空では、ドンッ! と大きな花火が打ち上がった。私と恭介さんは反射的に顔を上げ、空に次々と打ち上がる花火を見つめる。


 赤、緑、青……色とりどりの花弁が、はらはらと。


 夜の空で光って、消えて、また花開いて。



「……綺麗……」


「──おお〜、ナイスタイミ〜ング。俺ってば、やっぱ持ってるねえ〜。神に愛され過ぎてる自分が怖い♡」


「!」



 ふと、その場に響いた別の声。


 二人で同時に振り向けば、両手にビニール袋を下げた九龍さんが「どーも、お二人さん。解決したみたいで何より〜」と笑いながら階段を上がって来ていた。



「──は!? 九龍!? お前何して……」


「いやー、ただ待っとくの暇じゃん? せっかく今日花火上がるんだし、どうせなら見晴らし良いとこで見よ〜と思いまして? 祭りの屋台で色々買ってきちゃった、三人分♡」



 へらりと笑い、彼はのらりくらりと古びた休憩スペースの屋根の下に入る。


 そのままテーブルにビニール袋の中身を広げれば、たこ焼き、焼きそば、イカ焼き、唐揚げ、フライドポテト……などなど、ありとあらゆるお祭りメニューが飛び出してきた。


 その瞬間、私と恭介さんのお腹が同時に「ぐぎゅうう……」と音を鳴らす。途端に九龍さんは吹き出した。



「ぶっは! ウケる! お前らどっちも腹ぺこ太郎かよ!」


「……太郎じゃなくて虫だよ」


「はー? 虫? まあ、ぺこ虫でもぺこ太郎でもどっちでもいいけどさ〜、さっさと座れば? たこ焼き冷めちゃうし」



 九龍さんは肩を竦めて私達に座るよう促し、先にどっかりとベンチに腰掛ける。

 あまりにも緊張感のないその様子に私は大いに戸惑ったが、恭介さんは慣れているのかズビ、と鼻を啜り上げると「ほら、行こうぜ」と私の手を引いた。


 すると、九龍さんがにやりと笑う。



「アレ? 恭介、目ぇ赤くね〜? 泣いたの? あらあら〜」


「うっせーよ、バカ九龍」


「バカって言った方がバカなんだよ、バカ恭介」



 そんな軽口を叩き合う二人に、私は首を傾げた。……あれ? この二人、仲悪いんじゃなかったっけ。


 そうこう考えていれば、ベンチに腰掛けて本日の食卓を囲んだ彼らが両手を合わせてこちらを見る。



「何してんの、早く座って、鼻たれハナコ。これ、返済デートの一貫だからちゃんと付き合えよ? 1万円分」


「え? あ、はい……」


「はい、それじゃ、両手を合わせてー、」



 ──いただきます。


 一眼レフのカメラをテーブルに起き、両手を合わせて“約束の合図”を口にする。ぱきんと割り箸を割る音が三つ分、その場に響いて、夜の空にはまた花が咲いた。


 ドン、ドンッ、ドン。


 夏の夜空に打ち上がる花火を見つめ、私はほんの少し冷めてしまったたこ焼きを口に運ぶ。


 とろり、生地が溶けて、マヨネーズとソースに絡み合い、青のり、鰹節、紅生姜……お馴染みのあの味が口内に広がって。



(おいしい……)



 こくり、飲み込み、お腹に溜まる。


 ああ、私、生きてるんだ。

 生きたいんだ。


 ──幸せの味がする。


 また泣きそうになるのを何とか堪えて、二口目もよく噛み、飲み込んだ。


 正面には恭介さん。

 右側には九龍さん。

 3人で囲う、本日の晩ご飯。


 ……ううん。実は、3人じゃないのかも。



(……君も入れたら、4人だもんね)



 そっとテーブルの左側に目を向ける。そこに置かれた一眼レフのカメラは、ただ静かに、食卓を囲う私達をそのレンズの中に映していた。


 ……ああ、君と一緒に晩ご飯食べるの、これが初めてかもしれない。


 そう気付いて、私はカメラに手を伸ばし、涙目で微笑む。



 ──ねえ、陽葵。私ね。



 君に見せたい景色がたくさんあったの。


 君と一緒に見たい幸せがたくさんあったの。


 今、君も見てるかな?


 ……そうだといいな。



「──見ててね、ずっと」



 ──カシャッ。


 カメラをテーブルに置いたまま、あの日以来初めて切った、一眼レフのシャッター。


 そこに写し出されたのはきっと、イカ焼きを頬張る九龍さんと、焼きそばを丁寧に紙皿に取り分ける恭介さんと、たこ焼きの青のりを口元に付けたまま微笑む私。そして、綺麗な8月の夢花火。


 ごめんね、陽葵。どうか、もう少しだけ待ってて。


 何十年先になるかは分からないけれど、いつか、必ず君に会いにいくから。


 だから、それまでは、君が寂しくないように。


 私がこのカメラで、私の大事なものを君に届けるよ。


 その中で、ちゃんと見てるかな。


 見てて欲しいな。



「……あー、ビール買ってくりゃよかったなー。あっちィ。飲みたい」


「お前車だろ」


「帰りは恭介に運転してもらえば解決じゃん。どうせ飲まねーだろ、ド下戸だから。だっさー、ププッ」


「殴る」


「きゃー、暴力反対! ハナコ助けてー! ヘルプミー!!」


「あはははっ」



 遠くに打ち上がる花火を背にして笑う、私の大切な人達。テーブルに並ぶ、幸せの味。


 その姿が、この光景が──どうか、遠くの君に、ちゃんと届いていますように。




 .


〈本日の晩ご飯/幸せの味〉

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