9月 - ふたりの約束

最終話 陽だまりとハンバーグ

 ──とん、とん、とん。


 慣れない手つきでタマネギを刻み、つん、と染みた瞳に涙を浮かべながらボウルに移す。切ったタマネギや挽き肉と共にパン粉を混ぜ、卵も加えて更に程よく捏ね合わせた。


 調味料で味付けした後、手のひらサイズに形成し、フライパンの上に並べる。あとは焼いて完成──なのだけれど、現時点では味見が出来ないから、少し味付けが心配だ。


 ……うーん。家庭科の授業の経験を頼りに作ってみたけれど、これで本当に合ってるのかな。



「──何作ってんの」


「きゃあっ!?」



 カチリとコンロに火を灯した瞬間、私の背後から顔を出した恭介さんが覗き込む。更には私の背中にぴとりと引っ付き、お腹に手を回して抱き寄せられてしまった。


 途端に私の胸は早鐘を打ち、頬が赤らんで熱を持つ。



「きょ、恭介さん……! お料理中だから……!」


「今焼いてるんだから暇だろ」


「そ、そうだけど……」


「はあー、癒し。ずっとこうしてたい」



 そう言ってぐりぐりと肩口に顔を押し付ける恭介さんは、まるで甘える子供みたいできゅんと胸が高鳴った。彼は癒しだと言うけれど、私は恭介さんの柔軟剤の香りがあまりに近くて、ずっとドキドキしっぱなし。



「楽しみだなー、絵里子の手料理。好きな子の作ったハンバーグ食えるとか、最高の誕生日プレゼントじゃん」



 やがて続いた彼の言葉に、私は更に頬を赤らめる。


 そう。今日は、彼の誕生日。

 そして私達の約束が終わる日──9月10日。


 あの夏祭りの日から1ヶ月ほど経った今でも、私達の日々は相変わらず続いていた。


 ありがたい事にバイトには再び復帰させて貰える事になり、毎日このアパートに帰って来て、夜は彼の作る晩ご飯を食べている。

 ずっとゼリーで誤魔化していた朝食や昼食も、自分で作ってしっかりと食べるようになった。


 そして、そんな穏やかな日々の記録を、あのカメラに少しずつ切り取って保存している。



(……陽葵にも、届いてればいいな)



 一瞬切なく目を細めた時、ふと思い出したのは航平との最後の会話だった。


 暫く曖昧な関係のままだった航平には、一度だけこちらから勇気を出して電話をかけた。ラインは消してしまったけれど、ずっと着信拒否に設定していた電話番号だけは辛うじて残っていたのだ。


 電話を掛けて、ちゃんと、「あなたとはもう会わない」とはっきり告げた。向こうはさして気にする様子もなく、わかったとだけ答えて電話を切った。


 陽葵の事は、最後まで彼には伝えなかった。

 でも、それでいいのだと思う。

 告げたところで、きっと彼には響かないだろうから。



 ──そして、航平の他に連絡した人が、実はもう一人。



「……妹、ちゃんと連絡ついた?」



 問いかけた恭介さんに、私は小さく頷いた。



「……うん。すっごく泣かれて、怒られました」


「あー……だろうな」



 苦笑しつつ答えれば、彼もまた苦く微笑む。


 実家を出て以来初めて、私は律香にも電話をかけたのだ。

 皮肉な話ではあるが、連絡先は航平から聞くしかなかった。彼以外に妹の連絡先を知る人が居ないのだから仕方ない。


 律香はすぐに電話に出て、子供のように声を上げて泣きながら私を叱咤した。だが、すぐに何度も『ごめんなさい』と謝った。


 電話越しに聞いたその声は、ずっと震えていて。



『私のせいで、お姉ちゃんをたくさん傷付けた……』


『もっと、言い方を考えれば良かったって……ずっと後悔してた……』


『私が、お姉ちゃんから全部を奪ってしまった……ごめんなさい……本当にごめんなさい』


『──生きててくれて、良かった……』



 声を詰まらせながら話す彼女と、ここ数年間で初めて、まともに向き合えたような気がした。


 律香も律香で、私が階段から落ちてしまった事故の事をずっと悔やんでいたのだろう。それを知って、私の心につっかえていた何かがすっと軽くなったのが分かった。


 そして、彼女と、ちゃんと話がしたいと思った。



「──私、実家に帰ろうと思います」



 焼いたハンバーグを裏返しつつ言葉を紡げば、未だに私に引っ付いたままだった恭介さんがぴくりと反応して顔を上げる。

 一瞬強張ったその表情を察した私は、「あっ、違います!」と慌てて言葉を付け加えた。



「このアパートを出るって意味じゃないです! ちょっと、一瞬帰省するだけで……すぐ戻ってきますから!」


「……っ、あ……何だ……、びっくりした……」


「……私、ちゃんと、家族と話がしたいと思ったんです」



 ──今までの事も、これからの事も。


 そう続ければ、恭介さんは黙って目を細める。ややあって、彼は口を開いた。



「……それさ、俺も行っていい?」


「……え?」


「いや、晩メシ食うだけとはいえ、ずっと一人暮らしの男の家に大事な娘さんを連れ込んでたわけじゃん? 俺。……なんか、さすがに謝っておきたくて」


「そ、そんな! 何かしたわけでもないのに謝るなんて……!」


「──あと、俺、ちゃんと挨拶したい。お前の家族に」



 はっきりと口にして、彼はぎゅうっと強く私を抱き締める。思わず息を呑んで固まれば、彼は耳元で更に続けた。



「……そんで、帰ってきたらさ……俺と一緒に暮らさない? 絵里子」


「……!」


「お前の部屋、生活用品何もないじゃん。だったらもう、心配だし部屋代も勿体ねーし、一緒に住めばいいんじゃないかなって」


「……」


「そんで金溜まったら、もうちょい広いとこに引っ越そうぜ。一緒に。……そういうのも含めて、お前の家族に挨拶したいんだけど……どうかな」



 緊張したように問う声に、私はとくとくと胸を高鳴らせる。寄り添う彼をそっと見上げれば、澄んだ黒い瞳と視線が交わった。


 ──ああ、もう。


 どこまでも、すごく、愛おしい。



「それ、なんか、プロポーズみたいです……」


「そう思って貰っても、俺は全然構わないけど?」


「あと1年は学生なのに?」


「……卒業したら本気出すから見てろよ」


「ふふっ」



 自然と笑みがこぼれて、つい柔く破顔した。すると恭介さんも優しく笑って、また私を抱き締める。


 ああ、幸せだな。


 愛しいな。



「……恭介さんと暮らしたら、餃子、たくさん作って貰えますか?」


「もちろん。いくらでも」


「オムライスも? カレーも?」


「ん? オシャカレー?」


「あ、またバカにする気でしょ……」


「ははっ」



 何気ない会話が続いた後、互いの表情が自然と綻ぶ。


 やがて恭介さんは、愛おしげに目を細めて私に問いかけた。



「……俺と一緒に暮らしてくれる? 絵里子」


「……うん。喜んで」



 こくり。笑って頷けば、恭介さんの端正な顔がそっと迫ってくる。


 あ、キスされる──そう察して、私は固く目を閉じた。


 しかし、互いの鼻先が触れ合い、あとほんの数センチで唇が重なる──という、寸前。



「きょーすけーッ!! 開けてー!!」


「──!?」



 突如、ピンポンピンポン! とけたたましく連打されたインターホン。同時に響き渡った声は、明らかに鳥羽さんのもので。


 恭介さんは途端に目尻を吊り上げ、不機嫌オーラ全開で私から離れる。



「あんっの、バカ鳥羽……!」


「げ、元気ですね……」


「あー、もー! いい所で邪魔しやがって!」



 チッ、と舌打ちをした恭介さんは不服げに玄関へと向かい、「おい、近所迷惑だろこのバカ!」と怒鳴りつつ扉を開けた。


 その瞬間、待ってましたと言わんばかりに鳥羽さんと花梨さんが部屋の中に押し入ってくる。



「うわっ!?」


「ハッピーバースデー!! 恭ちゃーん!!」


「21歳おめでとー!!」


「は!? 何!?」


「ピザ買ってきた! あと寿司とローストビーフとケーキとお菓子!!」


和洋折衷わようせっちゅう! お誕生日会なのじゃー!!」



 賑やかに乗り込んできた二人は、それぞれ大きな紙袋を手にさげて得意げに笑う。

 恭介さんは最初こそ不機嫌そうな表情だったが、彼らが自分を祝いに来たのだと察した途端に頬を赤らめて目を泳がせた。



「……は、はあ? ばかなんじゃねーの……」


「あ! 恭介照れてる! コイツ照れると目線逸らして首元掻くからすぐ分かんだよ、参考にして絵里子ちゃん!」


「あ、おい! 余計な事言うな鳥羽!」


「ぐえー!!」



 首を締め上げられた鳥羽さんと、それを見てゲラゲラ笑う花梨さん。みんな仲良しだなあ、と微笑ましく見守っていれば、不意に「あーあ、相変わらずうっさいねー」と別の声が耳に届く。


 全員で同時に振り向けば、玄関先で高そうなシャンパンを持って笑う九龍さんが「どーもー」と片手を上げていた。



「はあっ!? 九龍っ!? お前何しに……!」


「何って、決まってんじゃーん。大嫌いな恭介の誕生日のお祝いに来たの♡ はいこれプレゼント♡ シャンパン♡」


「いや、シャンパンって……俺、酒飲めねぇんだけど」


「知ってる。ただの嫌がらせ♡」



 毒を吐き、にこやかにシャンパンを押し付けた九龍さん。受け取った恭介さんは「お前……」と引きつった笑みを返したが、花梨さんは「シャンパン! 最高! 宴じゃー!」と即座にボトルを奪い取って騒ぎ始める。


 そんな彼女を呆れ顔で一瞥しつつ、恭介さんは溜息混じりに頭を抱えた。



「あー……とりあえず、上がれば」


「え? いーの? 前は二度と来んなって言ったくせに」


「……いーよ、もう」


「わーお、チョロ〜。それじゃ、遠慮なくピザ食い散らかして帰るわ。あとお礼にこれもあげる」


「!」



 どんっ、と九龍さんは恭介さんの胸に何かを押し付け、「ハッピーバースデー、マイフレンド」と薄く笑って彼の横を通り抜ける。


 恭介さんはきょとんと一瞬呆気に取られていたが、たった今押し付けられた物が何なのかを理解するとたちまち目を見開き──しかし、すぐにやんわりと微笑んだ。



『10年後の恭介とアキへ。6年2組 芦屋九龍』



 手渡されたのは、幼い筆跡でそう記された、サッカーボール柄の封筒。


 それはおそらく、あのタイムカプセルの中には見当たらなかった──9年前に書かれた、九龍さんの手紙なのではないだろうかとすぐに察しがついた。



「……お前、これ捨てたんじゃなかったの」


「捨てたなんて誰も言ってねーわ、ばーか」



 べ、と悪戯に舌を突き出し、九龍さんはふいっと顔を背ける。恭介さんは柔く微笑んだまま、彼の手紙をそっと取り出して開いた。


 つい気になって、私もその文面を覗き見る。

 するとそこには幼い字で、たった一行、小学生の頃の九龍さんが書いたメッセージが記されていた。



『──ずっと、おれの大好きな友達でいろ!』



 彼が捨てきれなかった手紙の内容は、眩しいほどにストレートな、そんな言葉だった。



「……好きなんだか嫌いなんだか、はっきりしろよ、アホ九龍」


「嫌いに決まってんじゃん、アホ恭介」


「はいはい」



 肩を竦め、恭介さんは大事そうに手紙を封筒にしまう。


 きっとこの手紙は、あとでまたあの黄色いタイムカプセルの箱の中に戻されるのだろう。


 そう考え、私は密やかに笑みを浮かべた。



(……この二人、本当は、お互いにすごく信頼し合ってるんだろうなあ)



 なんて、そんな事言っても、二人とも照れて否定するんだろうけど。


 と、微笑ましい彼らに頬を緩めた、その時。


 不意に、焦げた匂いが私の鼻先を掠める。



「……なんか、焦げ臭くね?」



 やがて訝しげに眉を顰めた鳥羽さんの一言で、私はハッと我に返った。



「──あっ!! ハンバーグ!!」


「あ」



 すっかり忘れていたハンバーグの存在を思い出し、私は慌ててコンロに駆け付けるとすぐさま火を止める。


 しかし、時すでに遅し。

 ハンバーグの片面は真っ黒に焦げてしまっていた。



「あ、あぁぁ……」


「あー……派手にやったな」


「ご、ごめんなさい……せっかくの誕生日なのに……っ」


「大丈夫だよ。それ、焦げた方を上にして皿に乗せてみ。俺が魔法かける」



 優しく笑い、恭介さんはぽんと私の頭を撫でると慣れた手つきで小ぶりなフライパンを取り出した。


 いつも私を助けてくれる、魔法の手。


 そんな手で彼はコンロに火を灯し、常温で置いてあった卵を取ると薄く引いたサラダ油の上に片手で割入れる。そのまま弱火で熱された卵は徐々に固まり始め、調理開始から約5分ほどで、綺麗な目玉焼きを作り上げた。



「よし、出来た」



 彼は満足げに火を止め、たった今焼きあがったばかりの目玉焼きをハンバーグの上に乗せて真っ黒だった片面を覆い隠す。



「はい、これで焦げたのも気にならない」


「……でも、味は誤魔化せないんじゃ……」


「まあ、それはそれ。次回のリベンジに期待だな」


「う……」


「でも、俺はこれで嬉しい」



 優しく告げ、恭介さんは私の顔を見つめた。


 ──9月10日。約束の最終日。


 これが、半年間続いた約束の、最後を飾る晩ご飯。



「なあ、絵里子」


「はい……」


「俺との約束、最後まで守ってくれてありがとう。あの時、生きてくれてありがとう」


「……!」


「俺と出会ってくれて、本当にありがとうな。絵里子」



 ──愛してるよ。



 はっきりと告げ、何かを答える隙も与えてくれず、一瞬で唇を奪い取られる。


 途端に硬直した私を見下ろして悪戯に微笑んだ彼は、目玉焼きハンバーグの乗った皿を手に取ると私の頭を乱雑に撫ぜ、「きゃー! 恭ちゃん大胆ー!」「見せつけてんじゃねえよ恭介!」と騒ぐ友人達の元へ上機嫌に戻って行った。



 けらけら、きらきら。


 笑い声の響く、暖かな食卓。


 ぽかぽかと幸せで満ちる胸の奥が、まるで陽だまりの中にいるみたい。



(……出会ってくれてありがとうは、私の台詞だよ……)



 私、あなたに出会えてよかった。


 あなたの手に救われてよかった。


 もうすぐ、私達の約束は終わる。


 でも、あなたとの約束がなくても、きっと──もう大丈夫。



 私は両手の人差し指と親指を合わせ、おもむろに四角形を作って、カメラに見立てたその枠の中心に賑やかな本日の食卓をしっかりと収める。


 ピザ、お寿司、ローストビーフ、いちごのケーキ。そして、陽だまりハンバーグ。


 彩り豊かな晩ご飯を囲う大切な人達。それを収めた画角の中を見つめ、私はそっと微笑んだ。



 今日も、明日も、あさっても。


 私は、この世界で生きていく。



「おい絵里子、何してんの。早く座って。メシ食おうぜ」


「絵里子っち〜! ジュースどれがいいー? りんご? オレンジ?」


おさ〜、ケーキのロウソクどこー?」


「このシャンパンうまいよ、恭介。……あっ、飲めないんだっけ? ごめーん♡」


「おい黙れ九龍、殴んぞ。鳥羽を」


「いや何で俺ッ!?」


「あははっ!」



 私は声を上げて笑い、手招きする恭介さんの元へ駆けていく。夕食を囲う賑やかな食卓に仲間入りすれば、彼らは次々と両手を合わせた。



「さあ皆の衆、宴の始まりじゃ!」


「イエーイ! ハッピーバースデー! ディアマイフレンド!」


「恭介さん、お誕生日おめでとうございます!」


「……大袈裟なんだよ、お前ら……」


「うわー、照れてんじゃん恭介。顔真っ赤。お酒飲んだの〜? ぷぷっ」


「九龍~……!」


「はいはい、それでは! 手を合わせよ、皆の者! 我らが恭介氏の21回目の誕生日を祝って──」



「──いただきます!」



 食卓を囲んで、声を揃えて。


 食事の合図を全員で紡いだ後、私達の最後の晩ご飯やくそくの時間が始まる。


 恭介さんは焦げたハンバーグをひとくちぱくりと口にして、一瞬すごく微妙な顔をした。


 ああ、やっぱり苦かったよね。

 今度はもっとがんばるから、次のお料理には期待しててね。


 心の中で密かに彼に謝りながら、私もひとくち、焦げたハンバーグと目玉焼きを口に運んだ。



 今日も、明日も、あさっても。


 どうかこの先もずっと、末永く。


 あなたと一緒に、こうして晩ご飯を食べる日々が続きますように。



 食べる。ただ、それだけ。


 あなたと、一緒に、“食べる生きる”──ただそれだけを繰り返した、世界でいちばん優しい約束の、果ての果て。


 眩しくも愛しい私の日々は、世界でいちばん大好きなあなたと共に──


 今日も、空に輝くあの陽だまりの下で、続いています。




 .


〈陽だまりとハンバーグ/完〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

陽だまりとハンバーグ umekob.(梅野小吹) @po_n_zuuu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画