第16話 エビフライ

 じゅわじゅわと波立つ黄金色のあぶらの中、狐色のドレスを身に纏ったエビ達が泡沫と共に踊っている。こんがり揚がって浮かび上がるその様を黙って眺めていると、私のお腹はぐう、と素直に音を立てた。



「おいハナコ、油飛ぶからちょっと離れてろって! 危ねーから」


「だって、いい匂いするから……っ、あちっ!」


「あーあー、言わんこっちゃない」



 はあ、と呆れがちな溜息が頭上で漏れる。私は跳ねた油に恨めしげな視線を向けつつ、キッチンペーパーを敷いたトレイの上に次々と引き上げられて行く狐色のエビ達の姿に喉を鳴らした。

 揚げたてホヤホヤ、ほくほくテカテカ。ころもを纏ったその身は艶やかにきらめいていて、これはもう間違いなくサクサク食感。想像するだけで絶品である。



「……おいしいです」


「いやまだ食ってねーだろ」


「だって絶対おいしいもん!!」


「あーもう、分かったからあっち行ってろって! 顔に跳ねて火傷したらどうすんだよ!」



 シッシッ! と煙たがられ、私は頬を膨らませた。そんな犬でも払うみたいな扱いしなくていいじゃない、と不服げな私に構わず、彼は次々とエビを油の中へ投入していく。


 本日の晩ご飯は、言わずもがなエビフライ。それも奮発して、少し大きめサイズのエビを購入した。「エビとか魚とかって高いよな~」と溜息混じりにボヤいていた恭介さんだが、ちゃっかりタイのお刺身もさくで購入していたのを私は見逃さなかった。あれは間違いなく“漬け”にされている。そしてそのまま“丼”になる。だって、シソと刻み海苔も購入していた事を私は知っているのだ。名探偵・絵里子の目は誤魔化せませんよ。


 と、そうこう考えているうちに、もう一つのコンロで沸かしていた鍋のお湯が沸騰した。恭介さんは一旦エビから離れ、沸いたお湯の中に事前に切り分けてあった生めかぶのくきを投入する。


 これも本日購入したものだ。

 彼いわく、「めかぶは茎が硬いから、ヒダとは別に茹でるんだよ」との事。めかぶなんて調理済みのパックのヤツしか食べた事ないや、と考えた頃、鍋の中のめかぶは一瞬で鮮やかなグリーンに色を変えていた。



「わ! 色が全然違う!」


「めかぶは茹でると一瞬で色が変わんの、何でか知らねーけど。でも茹ですぎると逆に汚い色になるから要注意な。ヒダの部分の茹で時間なんか10秒も要らないし」


「ほへぇ……」


「ってか、座ってろって言ってんじゃん。はい退場~」


「あいたっ!」



 ぽこん、とタッパーの蓋で頭を小突かれる。眉根を寄せて不服げな視線を向けてみる私だったが、さすがにそろそろ怒られてしまいそうだ。仕方がない、ここは大人しく退散する事にしよう。


 しかしいざ離れようと身をひるがえした途端、「あ、ハナコ!」と恭介さんに呼び止められた。



「はい?」


「ちょっとお願いがあるんだけど……テーブルにさ、俺のスマホあるだろ? それさ、悪いんだけど充電器にぶっ挿しといてくんない? 俺のベッドのとこにあるから」


「あ、はい! 分かりました!」



 助かるわー、と恭介さんは笑い、再び調理に戻る。私は彼に言われた通り、テーブル上に置いてあった黒いスマートフォンを手に取った。


 そのまま真っ直ぐ進み、寝室へと繋がるふすまを開く。彼の寝室へ足を踏み入れるのは二度目だが、相変わらず小綺麗に整頓されていて、どこからともなく柔軟剤のいい匂いがした。



(えーと、充電器……充電器……)



 薄暗い中、キョロキョロと視線を巡らせる。すると程なくして、ベッドの近くに白いコードが伸びているのを見つけ出した。



(あ、あった!)



 おそらくあれが充電器だろう。私はそっとベッドに近付き、手に持っていた恭介さんのスマホに充電器を挿し込む。


 よし、これで一安心──と安堵した私だったが、不意にスマホの画面がパッと明るくなった事で無意識に視線を画面へと落とした。瞬いた瞳に、たった今受信したらしい何らかのメッセージが表示される。


 ──『舞奈』


 ディスプレイの中で受信したメッセージの差出人の名前は、そう記されていた。



(……マイ、ナ……?)



 女の人からのメッセージ。ついどきりと胸がざわついてしまった直後、今しがた受信した複数のメッセージの内容が次々と視界に飛び込んでくる。



『ねー、恭ちゃん』


『あたし達さ、ヨリ戻さない?』


『今度、恭ちゃん家行っていー?』


『さびしいよー』



 そんな短いメッセージの文面が視界に入り、ぴしりと背筋が凍りつく。続いて嫌な汗が手のひらに滲み、思わず息を呑んだ。


 脳裏を駆けたのは、未だに電源を落としたままの、鳴らない自分のスマートフォン。



 ──ねえ、絵里子、会わない?


 ──ごめんって~、怒ってる?


 ──絵里子ん家いきたいな~。


 ──さびしい。



「……う……っ」



 思い出した途端に強烈な吐き気が込み上げ、即座に口元を押さえつける。恭介さんのスマホをベッドに投げ落とし、薄いカーペットの敷かれた畳の上にふらふらと座り込んでどうにか息を整えた。


 見開いた眼球を泳がせ、込み上げる吐き気になんとか耐える。片手で無意識に押さえた下腹部は、やがてぐぎゅるるる、と鳴いて空腹を訴えた。


 その音によって、私はようやく顔を上げる。



「……おなか、すいた……」



 ぽつりと呟いた言葉の後、ふと頭に浮かんだのは恭介さんの横顔だった。


 ああ、私って、本当に図々しいなあ。

 お腹が空いたら、すぐに恭介さんの顔が浮かぶようになっちゃってるみたい。



「おなか、すいたよ……」



 再び小さく言葉を紡いで、私はふらふらと立ち上がる。絵里子、と頭の中で呼び掛ける“あの人”の笑みをかき消して、そのまま薄暗い寝室を後にした。




 * * *




「……ハナコ、なんか体調悪い?」


「え……」



 食事を始めて、数分後。恭介さんはそう言って、正面に座る私の顔を覗き込んだ。慌てて首を横に振るが、その表情はどこか訝しげで。



「……本当か? 今日、薄着でバイク乗ったせいで体冷えたのかもしれないし……体調悪いなら無理して食わなくていいよ、ほんとに」


「だ、大丈夫です! おいしいです! お腹すいてるし……!」


「なら良いけど……」



 どこか心配そうに見つめる恭介さんにへらりと笑い、私はサクサクのエビフライにかじり付く。


 本日の晩ご飯のメニューは、見事に海鮮尽くしだった。


 醤油とみりんに漬け込まれたタイのお刺身は、刻んだシソとゴマで和えた酢飯の上に丁寧に並べられて立派な漬け丼に。茹でられていためかぶは、細かく刻まれて酢の物に。それぞれ見事な料理に変身している。


 そして、本日のメインディッシュ──それは言わずもがな、このエビフライ。


 タルタルソースまで手作りらしい恭介さんのエビフライは、綺麗な狐色に揚がっていてとてもおいしい。ついつい尻尾まで口に含んでいると、「尻尾まで食うぐらいだから、腹は減ってんだな……」と恭介さんは安心したように笑った。


 私はお箸についたタルタルソースまで舐め取り、無意識に頬を緩めてしまう。



「このタルタルソースも、“いとうまし”です!」


「いや、“いとうまし”って何」


「えーと、平安時代の褒め言葉……」


「あー、“いとおかし”的な? お前ほんと時々よくわかんねえ事言うな」



 すっかり呆れ顔の恭介さんは、海鮮丼の中央に乗せられた卵黄に箸を割り入れてタイのお刺身と絡めながら肩を竦める。


 ちなみにこの漬け丼も、もちろんとんでもなくおいしい。

 ゴマとシソを刻んで酢飯に混ぜ合わせた時点で絶対おいしいに違いないのに、更には甘い醤油ダレに漬け込まれたお刺身、ツヤツヤの卵黄、そして刻み海苔まで振りかけてあるなんて! もうおいしい以外に有り得ない。恭介さんは天才なのだ。「ネギ買い忘れたのが痛手だな……」と彼はボヤいていたが、もう十分美味しいからいいの! と胸の内だけで叱咤する。


 そうこう考えていると、不意に恭介さんが口を開いた。



「あ……そういや、俺のスマホってちゃんと充電できた?」


「……!」



 ぎく、と思わず身が強張る。咀嚼していためかぶの酢の物をこくんと飲み込み、私は一瞬目を泳がせた後に「は、はい……多分……」とつい曖昧な答えを返してしまった。


 脳裏を過ぎったのは、先ほど偶然視界に入ってしまった、『舞奈』からのメッセージ。



(……そういえば、『ヨリを戻そう』みたいな、内容だった気が……)



 じわりと手のひらに汗が滲み、私は恭介さんの顔を一瞥する。すると偶然にも視線が交わって、彼は眉を顰めた。



「……? 何?」


「い、いや……あ、あの……」


「ん?」


「き、恭介さんって、その……か、彼女とか、作らないんですか……?」



 迷った末に、口から飛び出したのはそんな言葉。いや何でこんな事聞いてるの、とすぐに後悔した頃、案の定恭介さんも訝しげに眉根を寄せる。



「……はあ? いきなり何? 」


「い、いえっ、別にその、深い意味はなくて! ほ、ほら、恭介さんって料理出来るし、優しいし、すごくモテそうだから……、その、か、彼女とか、作らないのかなって……」



 自分で言いながら羞恥心が込み上げてきて、頬がふつふつと熱を帯びる。いきなり何を言ってるんだろう、私。


 その一方で、恭介さんはやはり訝しげな表情のまま暫く黙り込んでいた。だが、やがて彼は小さく息を吐く。



「……今は、そういうのは作らねーよ。誰かさんに毎晩メシ作るって約束してんだし、そんな状態で新しい女と付き合うわけにもいかねーだろ」


「……あ……」


「女ってほら、結構嫉妬深いっつーか……面倒なヤツもいるじゃん? 俺がなんか言われるのは別にいいけど、もしハナコに何かあったら嫌だし」


「……」


「……それに、その……俺はお前にメシ作ってるだけで、割ともう、結構満足してるっつーか……」



 ぼそぼそと、恭介さんの言葉が徐々に尻すぼみになる。「え……」と顔を上げれば、彼は首の後ろに手を当てながら顔を逸らした。



「や、やっぱ、今のナシ! 何でもない」



 そう言って、恭介さんは首に当てていた手で口元を覆い隠す。私はきょとんと目を丸めたまま彼を見つめたが、全く目を合わせようとしてくれない。

 よく見れば、その耳はほんのりと赤く染まっているような気がして。



(照れてるのかな……)



 おそらくそうだろうと、なんとなく察しがついた。先ほど小さく発せられた彼の言葉を思い返すとなんだか私まで少し恥ずかしくなって、同じく目を逸らしてしまったが──その時再び、脳裏には『舞奈』の存在がチラついてしまう。



「……」



 静かに目を伏せ、エビフライを摘んだまま動かない箸の先を見つめた。


 思い出したのは、先ほどのメッセージの内容。『ヨリを戻そう』という言葉が使える存在なんて、ひとつしか思いつかない。



(多分、恭介さんの……昔の彼女……だよね……? 舞奈さん……)



 新しい女は作らない、と彼は言った。

 だが、それが過去に愛した人だったとしたら──どうなのだろう。



(……もし、恭介さんが舞奈さんの事、まだ好きだったりしたら……)



 ──私と交わしているこの“約束”が、二人の恋の足枷じゃまになってしまうのではないだろうか。


 そう考えると、やはり気が重い。



「……あの」



 私は視線を上げ、恭介さんを見つめる。すると彼もようやくこちらに顔を戻した。



「何?」


「……もし、恭介さんに好きな人が出来たとして……その人と、ちゃんとお付き合いしたいなって、気持ちになった時は……」


「!」


「……私との約束よりも、その人への気持ちを優先してくれませんか?」



 紡ぎ出したのはそんな言葉。恭介さんは一瞬声を詰まらせたが──やがて、箸置きの上にかちりと箸を置く。



「……は?」


「あ、えっと、だから……私との約束が、恭介さんの恋の邪魔になるんだとしたら、ものすごく申し訳ないなあって思って……」



 ぽつぽつと言葉を続けて、私はへらりと笑顔を作った。恭介さんの目は、真っ直ぐとこちらを見つめている。



「だから、もし恭介さんに好きな人が出来た時は、私との約束はナシに──」


「──絶対嫌だ」



 ぴしゃり。

 続けた言葉を突然遮られ、私は息を呑んで声を詰まらせた。


 ハッキリと否定した彼の鋭い目は、どこか怒りの色を帯びているような気さえして──思わず目を泳がせ、狼狽うろたえる。


 続け様に口火を切った彼の声は、やはりいつもよりも低い。



「女なんか作らないって言っただろ。余計な事考えてんじゃねえよ」


「……っ」


「俺には、ハナコとの“約束”が終わるまで、それ以上に優先する事なんか一つもない。お前にとってはどうでもいい約束かもしれないけど、俺にとっちゃこの約束が……今は何よりも大事なんだよ」



 彼の言葉のひとつひとつが、私の胸に重くのしかかってくる。私は俯き、冷め始めたエビフライの尻尾を見つめた。



 ──どうして、私なんかのために、そこまでするの?



 そう問い掛けようと開きかけた唇は、結局音を発する事無く閉じられてしまう。不機嫌そうな彼の目を見る事が出来ずに、私の視線はお皿の上に横たわっているエビの姿を見つめたまま。



「……ごめんなさい」



 やがて紡いだ言葉の味は、酷く苦くて。

 舌の上を転がり落ちたそれは、油の中で弾けた泡沫のように、ぱちんと消えて溶けていった。




 .


〈本日の晩ご飯/エビフライ〉

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