第17話 カノジョと病熱

 時刻がお昼を回った頃、目が覚める。着古したヨレヨレのTシャツ姿で起き上がった私は、やがてふらりと洗面所へ向かうと冷たい水で顔を洗った。


 重たい瞼、気怠い体。

 心做こころなしか妙に寒気までする、ような……。



「……なんか、だるい……」



 ぺたりと自身のひたいに手を当て、溜息を吐きこぼす。鏡の中に映るボサボサ髪の私は随分と酷い顔色をしていた。まるでゾンビ映画に出てくる死体みたいなそれに、げんなりと肩を落とす。


 ……なんか、熱っぽいなあ。



(風邪かな……? でも私、体温計なんて持ってないし……ホントに熱があるか分かんないなあ。疲れてるだけかも……)



 ふう、と息を吐いて洗面所を出る。気が付けば5月も中旬。少しずつ気温が上がってきたし、早くも夏バテ気味なだけかもしれない。


 もしくは、恭介さんとの事で、ちょっと精神的に参っている、とか。



(……あの日以来、ちょっと気まずいんだよね……)



 むう、と眉根を寄せ、私はまた溜息を吐きこぼした。


 先日、エビフライを食べている最中に恭介さんの機嫌を損ねてしまったことを思い出す。

 あの後、「なんかごめん」とすぐに謝ってくれた彼だったが、普段一緒に居る時はあまり吸わない煙草を吸ったり、見るからに口数が減ったりと、その機嫌はあまり良いとは言えないようだった。


 それから数日、努めていつも通りに接しているつもりの私ではあるが、どうにも無意識に彼の顔色を窺ってしまっていて。


 なんだか、気まずい。



(……あの後、結局“舞奈さん”とどうなったのかも、分からないしなあ……)



 無意識のうちに、視線が落ちる。


 脳裏をよぎるのは、ヨリを戻そう、と恭介さんにメッセージを送ってきていた前のカノジョ──だと思う──舞奈さん。会った事もないその人の事が、なぜか気になってしまう。


 恭介さんと同じ大学の人だろうか。それとも、高校時代の恋人なのだろうか。どのぐらい付き合ってたんだろう。その人にも、おいしいご飯を作ってたのかな?


 ──私、二人の邪魔してるんじゃ、ないかな。



(……あ、ダメだ……なんか、ほんとに体調悪い気がする……)



 くらくらと目の前が揺らいで、私は壁に背をもたれる。舞奈さんの事を考えると、胸の奥がもやもやした。


 けれど、二人が今どうなっているのかを確かめる術はない。偶然とはいえ、勝手にメッセージを盗み見るような真似をしてしまったわけだから、直接恭介さんに尋ねるわけにもいかないし。



(……はあ。なんかもう、頭痛いなあ。考えるのやめよ……)



 かぶりを振り、私は足元にある冷蔵庫を開けた。『冷蔵庫』といっても、我が家のそれはドリンクを冷やすためだけの小さなサイズの物だ。


 普段なら、ここに買い溜めたゼリーや水が詰め込まれているはずなのだが──かぱりと開いた小さな扉の先には、溶けた保冷剤と残りわずかなお茶のペットボトルがぽつんと転がっているだけで。



「……あ……、ゼリー、もうないんだったっけ……」



 私はまた小さく息を吐き、冷蔵庫の扉を閉める。どうしてこういう時に限って……と頭を抱えた。



「買いに行こうかな……」



 玄関の近くに置かれたゴミ袋の中には、飲み切ったゼリー飲料のゴミがいくつも捨てられている。私はもう何度目になるのかも分からない溜息をこぼし、外出の準備を始めたのだった。




 * * *




「いらっしゃいませー」



 自動ドアをくぐると、気だるそうな店員の声と共にひやりと冷えた空気が包み込む。このコンビニはよく利用しているため、陳列されている商品の位置はもう大体把握してしまった。


 赤いカゴを持ち、いつも通りに店の奥へと向かう。弁当やカップラーメンなどには一切目を向けず、私はゼリーの並んだ陳列棚の前でピタリと足を止めた。


 カロリーゼロ、と表記されたそれを手に取り、じっと見つめる。



(……ゼリーばっかり食べたら、また心配掛けちゃうかな)



 一瞬そう躊躇ためらった私だったが、お金もなければ食欲もない。恭介さんにバレたら怒られるだろうけど、と思いつつも、カゴの中にゼリー飲料を五つほど入れた。


 するとその時、背後から突然声をかけられる。



「──あっ! 恭介のカノジョちゃん!?」


「……!?」


「あー! やっぱそうじゃん! 偶然ー! えっ、もしかしてこの近くに住んでんの!?」



 ビクッ、と私は肩を揺らして振り返った。目が合ったのは、どこか見覚えのある男の人。



(……? だ、誰だっけ……?)



 見覚えはあるのだが、思い出せない。ニューエラの黒いキャップをかぶったその人を困惑気味に見つめていると、彼はへらりと人懐っこい笑みを浮かべる。



「あ、ごめんごめん、分かんないか! ほら、俺、水族館で会った恭介の友達!」


「……あ!」


「おっ、分かった? どうも〜、鳥羽とばでーす! 今後よろしくドウゾ、恭介のカノジョちゃん!」


「よ、よろしくお願いしま……、って、か、カノジョ!? 私、カノジョじゃないです!」



 一瞬流れのままにぺこりと会釈えしゃくしてしまった私だが、すぐさま顔を上げて鳥羽さんの“カノジョ”発言を否定した。「あれ、違うの?」と首を傾げる彼に「違います!!」と再度強めに否定したところで、元々不調だった体がぐらりと傾く。


 突如足元をふらつかせた私を、鳥羽さんは慌てて受け止めて支えた。



「えっ、うわ!? か、カノジョちゃん大丈夫!? なんかふらふらじゃない!?」


「……あ、いえ……す、すみません、ちょっと、立ちくらみが……」


「いや、めっちゃデコ熱いよ!? ヤバくない!? 絶対熱あるってこれ!」


「だ、大丈夫です……ご心配なく……! それでは……」



 私はへらりと笑顔を浮かべ、騒がしい鳥羽さんから離れてレジへと向かう。やがて会計を済ませた私はそのままコンビニを出ようとしたが、外に出たところで再び鳥羽さんに捕まってしまった。



「ちょい待ち、カノジョちゃん! 本当に大丈夫? 恭介呼ぼうか? それか俺、車で来てるし、家まで送るけど」


「えっ? い、いえ、本当に大丈夫です……! 恭介さんも忙しいでしょうし、私、家近いので……」


「いやいや、恭介は絶対いま暇だって! 今朝とか『元カノに家バレして粘着されてるから今日はカラオケで時間潰す、連絡きても居場所吐くな』って連絡きたし──」


「──元カノ?」



 鳥羽さんの口からぽろりとこぼれたその単語に、私はつい反応してしまった。彼も無意識に口走ったのか、ハッと口元を押さえて「あ、やべ……」と目を泳がせる。


 そのまま口ごもった鳥羽さんに、私は恐る恐ると問いかけた。



「……元カノ、って……舞奈さん……?」


「……え? なんだ、知ってたの? 舞奈ちゃんの事」


「あ、えと……な、名前だけ。どんな人かは、知らないです……」


「あー……」



 苦笑する鳥羽さんは「まあ、知らなくていいかも……ちょっと怖いし」と頬を引きつらせる。怖い、とは一体どういう事だろうか。首を傾げつつ、私は更に問いかけた。



「怖いって、どういう風にですか……?」


「あー……なんつーか、THE・女! って感じの子なんだよね、舞奈ちゃん。誰にでもにこにこしてんだけど、裏で何考えてるか分かんないっていうか。見た目はめっちゃ可愛いけど、裏表激しそうで俺はちょっとニガテかな〜」


「ああ、そういう……」


「恭介と付き合ったのだって、舞奈ちゃんが合コンでアイツにぐいぐい迫って強引に〜って感じだったし。恭介、ああ見えて実はそんなに酒強くなくてさー。潰されてそのまま舞奈ちゃんにお持ち帰りされちゃったんだよ」


「え……お、お持ち帰り……!?」



 思わず声が大きくなる。鳥羽さんはどこか遠い目をしながら、「そー、アイツ女にお持ち帰りされちゃうぐらい酒弱いわけ。羨ましいんだか情けないんだか」とぼやいた。


 言われてみれば、確かに恭介さんがお酒を飲んでいるところは一度も見た事がない。まさかそんな一面が……と意外に感じていると、鳥羽さんは更に続ける。



「ほら、恭介って律儀りちぎじゃん? 酔って記憶なくした末に合コンで知り会った女と一晩過ごして、『責任取って!』なーんて迫られたら弱いわけよ。無かった事にすりゃいいのに、そのまま責任感じちゃって、あれよあれよと舞奈ちゃんの彼氏に……」


「……」


「ま、案の定すぐ別れたけど。でもまだ舞奈ちゃんの方は恭介に執着してるっぽいんだよね〜、そんなにアイツって夜スゴいの? そこんとこ気になる、どうなんカノジョちゃん」


「……し、知りません……あと私、カノジョじゃないし……」



 反応に困りながら答えれば、鳥羽さんはハッとしたように口元を押さえて「あ、やっべ……また俺デリカシーない事言ってんな」と気まずそうに目を逸らした。


 直後、彼はポケットの中から車のキーとスマホを取り出す。そのまま画面を操作し、スマホを耳に当てながらへらりと笑った。



「ま、まあ、とにかく! 体調マジで悪そうだし、家まで送るよ。今から恭介にも連絡してみるからさ、安心して車乗ってて」


「えっ? あ、あの、でも……っ」


「……あ、もしもし、恭介? 俺、今お前ん家の近くのコンビニいるんだけど、お前のカノジョちゃんがさ──」


「……っ」



 有無を言わさず、鳥羽さんの電話は恭介さんへと繋がってしまったらしい。


 悪い人じゃなさそうだけれど、かなり強引な人だなあ……と考えてすぐに、そんな思考までぼうっとぼやけてかすんでしまう。まずい、いよいよ体調が悪いかもしれない。



(どうしよう……お言葉に甘えて、送ってもらおうかな……家すぐそこだけど……)



 足元はふらつくし、頭も痛い。風邪薬とか持ってないし、ドラッグストアも遠いな、とぼんやり考えていれば、電話を終えたらしい鳥羽さんが私の肩を支えた。



「大丈夫? 恭介、今からすぐこっち向かうって。でもちょっと時間かかるだろうから、先に家まで送っといて、ってさ」


「……あ……」


「あと、すっげー怒った声で『変な事したら殺すぞ』だって。こっわ、あれはマジでる雰囲気だったわ! いや〜、愛されてんねカノジョちゃん」



 にやにやと笑い、鳥羽さんは私の肩を支えながら助手席のドアを開けてくれる。だからカノジョじゃないってば、と思いつつも、否定する力すら出なくて私は大人しく彼の車に乗り込むしかなかった。


 車の中は結構ごちゃついていて、ミラーには葉っぱの形をしたピンク色の芳香剤がぶら下がっている。白いファーで覆われているハンドルやダッシュボードを見ながら、今から夏になるのに暑くないのかなあ、とぼんやりする意識の中で考えた頃、運転席側のドアも開いて鳥羽さんが乗り込んできた。



「いやあ、ごめんね〜、散らかってて! あ、ガム食べる?」


「あ……いえ、お気遣いなく……」



 差し出されたガムを控えめに断りつつ、私はシートベルトを締める。やがてエンジンをかけた鳥羽さんは、不意に私のひたいに手を伸ばしてぴとりと触れた。


 恭介さんが“決まり事”に従順であるせいで、男の人にこうして直接手を触れられる事はほとんどない。つい緊張して頬を赤らめてしまうが、鳥羽さんは本当に善意だけで触れているようで、熱を帯びた私の頬や首を触りながら「あー、やっぱ熱いなあ」と眉尻を下げる。



「こりゃ結構熱あるわ。帰ったら、とにかくあったかくして水分補給な! そんでちゃんと寝ること! ご飯は食べれそうなら食べて、食べたくなかったら食べない! OK?」


「……お、おーけー……です」


「ん、お利口さん!」



 破顔した彼は私の頭をぽんと撫ぜ、「出発しまーす」と車を動かし始めた。


 なんか、鳥羽さんって不思議な人だな。よく知らない人のはずなのに、すごくいい人なのが伝わるというか……自然と安心する。


 ピー、ピー、と音を発してバックしていく車の中、私はほっと脱力して目を閉じた。自分で思うよりも疲れていたのか、すぐに強い眠気が襲ってくる。



「──家つくまで、寝てていいよ。恭介来たら起こすから」



 そんな優しい声が、微睡まどろむ頭の中に心地よく響いて。


 ありがとうございます、と返事をしたつもりだったけれど、それがちゃんと言葉になっていたのかも分からないまま──私の意識は、夢の中へと沈んでいった。




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