第35話 いちご味のかき氷

「うっわ、おさ!! 黒ビキニっすか!? つーか胸デカ! オッサンの癖に!」


「誰がオッサンじゃ、村人B。埋めるぞ」



 水着に着替えた私達を出迎えてくれたのは、同じく水着姿でビーチにパラソルを設置してくれていた鳥羽さんと恭介さんだった。際どい水着姿で堂々と歩く花梨さんにも困惑したが、もちろん彼らも水着なわけで。こちらの目のやり場にも困ってしまう。



(……きょ、恭介さんって、結構体引き締まってるんだな……)



 昔は運動部だったのか、細身の割に腕や腹部にはしっかりと筋肉がついていた。ついドキドキしてしまい、私の変態! と自分を責めながらパーカーの裾を握り締める。


 すると俯く私の顔を、不意に鳥羽さんが覗き込んだ。



「で、エリコちゃんは? どんな水着にしたの?」


「……え!?」


「あ、でもいいね! 大きいサイズのパーカーから細い脚が出てる感じ、俺好き! なんかエロ──」


「こら、鳥羽っちセクハラやめろし」


「いてっ!」



 べしっ、と鳥羽さんの額を花梨さんが叩く。痛がる鳥羽さんの横で仁王立ちした彼女は、おもむろに胸を張ると自身の髪を高く結い上げてお団子を作った。


 そして花梨さんは海を睨み、「よっしゃ、泳ぐぞ野郎共!!」と拳を掲げる。そのままパラソルの下を飛び出していってしまい、「あっ、お待ち下されおさ~!!」と鳥羽さんも慌ただしくそれを追いかけて行った。


 二人を呆れ顔で見送った恭介さんは嘆息たんそくし、不意に私の顔を見る。



「……泳がねーの? ハナコは」


「あ……わ、私、泳げな……」


「え、でも楽しみにしてたじゃん、海。腰ぐらいまで水に浸かれば? もし何かあっても俺が助けるし、怖いなら手握るし」


「う……、そ、その……でも……」



 彼の体を直視出来ずに目を逸らし、私はパーカーを握り締めた。


 別に、水に浸かりたくないわけじゃない。

 けれど、水着姿を“お遊戯会”と揶揄やゆされた先程の言葉がどうしても脳裏にチラつく。


 浜辺を歩く女の人は、みんなスタイルが良くて、オシャレで、キラキラ。花梨さんも綺麗だし、悔しいけれど舞奈さんも綺麗だった。


 そんな中で、顔もスタイルもパッとしない私の、お遊戯会みたいな水着姿をさらすなんて。それを恭介さんに見られるなんて。



(……恥ずかしい……)



 下唇を噛み、パーカーを脱ぐ事を躊躇ためらう。


 するとまた、あの声が響いた。



「──恭ちゃーんっ!」


「え、うわっ……! 舞奈!?」


「!」



 どこからともなく駆け寄ってきたのは、やはり綺麗でスタイル抜群な舞奈さん。


 その姿に思わず顔を顰めた頃、彼女は「探してたんだよ~」と微笑み、恭介さんの腕に絡み付く。



「お、おい……! お前くっ付くなよ!」


「相変わらず腹筋綺麗だね~っ、恭ちゃん」


「話聞け、ばか!」



 恭介さんが激昂するがお構い無し。上目遣いに彼を見上げた舞奈さんは、引き締まった彼の腹部を指先でつついた。


 たったそれだけの事に、私の胸の奥は嫌な感覚を覚える。



「おい舞奈、やめろ……!」


「いいじゃん別に。ねえねえ、恭ちゃんもあっちで一緒にビーチバレーしない? 九龍くんが強すぎてさあ、みんな助っ人欲してるの」


「しねーよ! 俺と九龍が仲悪いの知ってるだろ!」


「えー、そろそろ仲良くしなよー。ほんとは仲良くしたいくせに」



 くす、と舞奈さんが妖艶に微笑む。その表情には色気が漂っていて、よく見れば周りの男の人の視線も彼女に注がれていた。


 舞奈さんは恭介さんの腕に抱きつき、恥ずかしげもなく豊満な胸を押し当てている。


 その行動が、なんだかすごくモヤモヤして。



「ねえ、恭ちゃん──」



 彼女がまた彼の名を紡いだ、その瞬間。


 私はつい、素手で恭介さんの腕を掴んでしまっていた。



「……え」



 驚いたように振り向き、見開かれる恭介さんの目。私は更に強く彼の腕を握り締め、震える声を発した。



「……だめ、です……」


「……?」


「きょ、恭介さんは、今……私の、彼氏だもん……。他の人のとこ、行くなんて……」



 いやです、と。


 消え去りそうな声を紡いだ途端、目尻からは突然透明な雫がこぼれ落ちる。勝手に垣根を超えて溢れ出した涙に、自分でもかなり驚いた。



(えっ……!)



 慌てて下を向いた私だったが、恭介さんには見られてしまったらしい。すぐさま「おい……!」と焦ったように顔を覗き込まれる。



「ば、ばか、泣くなよ! どこにも行かねーから……」


「な、泣いてないです……っ」


「いや、何その謎の嘘……」



 はあ、と耳に届く溜息。


 ……ああ、呆れられちゃったかな。


 そう考えてまた胸が苦しくなりながら、私は恐る恐ると彼の顔を見上げる。


 すると恭介さんは、やはり呆れたように眉尻を下げていながらも──どこか優しい表情で、私の目を見つめていて。


 とくりと、また心臓が大きく跳ねる。



「……舞奈」


「!」


「悪いけど、俺やっぱそっちには行けない。……今忙しいから、そろそろどっか行って」



 目も合わせず、淡々と告げる彼。

 舞奈さんは一瞬黙り込んだが、やがて素直に頷いた。



「……そっかあ~、分かった!」



 にこりと愛らしい笑顔を浮かべ、ようやく彼の腕から離れた彼女。


 しかしカラーコンタクトの越しのその瞳に、今度は私の姿が映る。



「──女の涙を武器にするとか、賢いんだね~。ソンケー」



 口角だけ上がる口元が、小声でそんな言葉を紡いで。凍りついた私と恭介さんをその場に残し、舞奈さんは颯爽と背を向けて去って行ったのだった。


 程なくして、訪れる沈黙。


 ざあ、と波の音が耳に届く中、恭介さんの肩からは力が抜ける。



「……はー。アイツ、ほんと苦手……関わりたくない」


「……変な空気にしてごめんなさい」


「いいよ、気にしなくて。ってか、大丈夫? 何で泣いたの? アイツになんか嫌な事された?」


「……う、ううん。舞奈さんは、何もしてないです。私が、勝手に落ち込んでて……」



 ぼそぼそと告げ、私は掴んでいた恭介さんの腕を更に強く握った。彼はそれを何も咎めず、「何で?」と優しく問い掛ける。


 腕を握るなんて、こんなのルール違反だ。

 頭では分かっている。


 けれど、どうしてもあの時──この腕を掴んで、彼を引き止めなければと思った。


 舞奈さんと、喋って欲しくないって、思ってしまった。



(……私、いつからこんな汚い感情を覚えたんだろう……)



 分かってる。これは嫉妬だ。


 でも、それを素直に彼に伝えたら、「付き合ってもないのに重い」って思われて、引かれてしまいそうで。


 つい、別の言葉を吐く。



「……わ、私……舞奈さんと、水着のデザインが、かぶっちゃって……」


「え」


「恭介さんに、その、舞奈さんと比べられたらやだなって思って……お、落ち込んじゃってました……」



 ごめんなさい……と小さく告げ、また俯く。本当の理由はそうではないが、事実をストレートに告げるのは些か躊躇ためらわれた。


 恭介さんは暫く黙り込み──やがて、「なんだ……」と少し残念そうに呟く。


 顔を上げれば、気まずそうに目を逸らす彼が片手で口元を押さえていた。



「あー……そうか、水着……、そっか……」


「……え?」


「いや、俺、てっきり……ハナコが、ヤキモチでも妬いてくれたのかと……」



 顔を逸らしたまま告げられた言葉に、私は声を詰まらせて目を見開く。しかしすぐに恭介さんはへらりと笑い、「ごめん、何でもない」と首を振った。


 次いで、彼は私の顔を覗き込む。



「……涙、止まった?」


「……っ、は、はい! ご迷惑、お掛けしました……」


「そっか。じゃあちょっとハナコさ、泳がないんだったらここで待ってて。すぐ戻るから」


「え? ……あ、はい……」


「変なヤツについて行くなよ、マジすぐ戻るから!」



 恭介さんはそう言い、私に背を向けてどこかへ走っていった。


 彼の姿が人混みの中に消えてしまった頃、私は視線を落とし、ゆっくりとパラソルの下に腰を下ろす。何も塗っていない自身の爪先を見つめ、きゅっと膝を抱えた。


 思い出すのは、たった今、恭介さんから放たれた一言。



『──いや、俺、てっきり……ハナコが、ヤキモチでも妬いてくれたのかと……』



(……ヤキモチ、妬いてたって……正直に言った方がよかったのかな……)



 でも、そんなの恥ずかしい。


 そう考え、波打ち際で手を繋ぐ見知らぬカップルの後ろ姿を見つめる。あの二人が、もしも私と恭介さんだったら──と、そんなとんでもない考えまで脳裏をよぎった。



(何考えてるの、私……)



 けれど、おこがましいと思いながらも、ただの妄想でしかない頭の中の二人が羨ましい。


 彼と手を繋ぎたい。

 本当は私だけ見ていて欲しい。

 元カノと喋るところなんて見たくない。


 様々な思いが駆け巡り──ふと、私の脳裏にはあるひとつの疑惑が芽生えた。


 ……あれ? 待って?


 もしかして、私──



「──恭介さんの事、好きなんじゃ……」



 思わずぽつりと呟いた声は、穏やかな波の音にさらわれて消える。


 しかし、耳心地よく響く波のつづみと周りの喧騒との間で置き去りにされたその言葉は、私自身の耳に痛いほど鮮明に残った。


 胸の奥で、眩しい陽だまりがじゅわっと弾ける。



「──ハナコ」



 ふと、背後から呼びかけられた名前。

 正しくないのに、どうしても嫌いになれない名前。


 振り向けば、眩しい太陽を背負った恭介さんがそこに立っていた。


 赤いシロップのかかる、いちご味のかき氷を持って。



「そこの出店で買ってきた。小銭持ってて正解だったなー。やるよ、これ」


「……」


「……あれ? どうした? いちご苦手?」



 何も言わない私の顔を覗き込む、いつも見てきた端正な顔。途端に胸がきゅっと締め付けられて、弾けた陽だまりの熱が広がる。


 ああ、私、気付いてしまった。

 この、眩しい感情の正体に。


 ねえ、恭介さん。

 私、多分、あなたの事が──



「……好き」



 言葉を告げて、かき氷を受け取る。すると恭介さんは安堵した表情で笑った。



「なんだ、良かった。いちご味って王道だけどうまいよな」


「……うん」


「お、ここ小さいテーブル用意してあんじゃん。やるな鳥羽のヤツ、珍しく良い仕事した」



 恭介さんもパラソルの陰に入り、私の隣に腰を下ろす。小さな簡易テーブルを組み立てる彼の隣で、私は冷たいかき氷をぱくりと口に含んだ。


 ひんやり、溶けるいちご味。

 甘い練乳と混ざって、喉の奥に流れる。



「うまい?」


「……うん。おいしい」


「そりゃ良かった……って、お前大丈夫? 顔、イチゴより赤いけど……暑い?」


「な、なんでもないです……でも、ちょっと顔が熱い……」


「ばか、そんなパーカー着てるからだろ」



 見るからに暑いわ、と呆れた声が返ってきた。私は冷たい氷を舌の上で溶かしながら、ちらりと彼の横顔を一瞥する。



 ──可愛い水着姿、期待してる。



 以前そう言っていた彼の言葉を思い出しながら、こくんといちご味を飲み込んだ。



「……恭介さん」


「ん?」


「私、可愛い水着、買ったんです。……で、でも、あの、あんまり自信なくて……」



 かき氷をテーブルの上に置き、パーカーのファスナーをゆっくりと下ろす。


 心臓の音が、ばくばくとうるさい。


 あらわになっていく素肌に羞恥心が蔓延はびこるが、火照る顔の熱に耐え、肩から徐々に滑り落とすように、パーカーを脱いだ。



「……!」


「へ、変、ですか……?」



 そしてついに、白いオフショルダーのビキニ姿を晒した途端──恭介さんは、かちんと硬直する。



「……」


「……? 恭介さん?」


「っ、あ……、い、いや、ごめん……あの……」



 見るからにたじろぎ、目を泳がせる。彼は口元を押さえ、私の水着姿をまたちらりと一瞥した後、俯き気味に「あー……」と声を発した。



「……待って……マジ、ちょっと……今の脱ぎ方は、ずるいと思う……」


「えっ……!? や、やっぱり変ですか……?」


「違う、変じゃない、むしろ逆……すげー似合ってる」



 でも、今の脱ぎ方は良くなかった……と、恭介さんは立てた片膝に額を押し当てながら呟く。


 脱ぎ方に良いとか悪いとかあるんだろうか、と首を傾げていれば、彼は若干頬を赤らめて顔をもたげた。



「……お前、他のヤツの前で今みたいに脱ぐの、絶対やめろよ。誓え」


「そ、そんなにダメでした?」


「ダメっつーか、危ない……マジでどうかと思うわ、その無防備なとこ」



 はあ、と溜息を吐かれる。私は肩を落とし、「ご、ごめんなさい……」と俯いた。


 すると恭介さんは不意に身を乗り出し、「ちょっと、耳貸して」と私に近寄る。


 互いの距離の近さにどきりとしつつ、大人しく耳を傾ければ──やがて、彼がそっと耳打ちした。



「……水着姿、お前が、一番可愛い」



 ただ、ひとこと。

 それだけを告げて、ぱっと離れる。


 直後、「かき氷、早く食わないと溶けるぞ」と矢継ぎ早に捲し立て、彼はそっぽを向いてしまった。


 とく、とく。早鐘を打つ胸の音。

 彼の吐息がかかった耳が、あつい。



(……もう、溶けた)



 ぬるい風が頬を撫で、視界の奥で揺れる波。


 真っ赤ないちごの蜜がかけられた私の恋は、夏の氷と共に、じんわり甘く溶けていく。




 .


〈本日の間食/いちごのかき氷〉




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