第6話

 車の脇では小ぶりなドラム缶に薪がくべられ、ぱちぱちと爆ぜながら燃えていた。日が差さない洞窟の中を照らし、空気を温める役割を担っていた。僕らはそのドラム缶を囲むように座り、トレバーが淹れてくれたコーヒーを持ってその炎を見つめていた。


「あの日、僕はライアンに指示されてクロエを起こしに行った。それはノアも知ってるよね」


 語り始めたトレバーに相槌を打つ。


「でも、間に合わなかったんだ。僕が行ったときには、クロエはもう……。それで、クロエの部屋にいた兵士に見つからないように、僕はライアンのところに戻った。そしたら、先にここに隠れてろって。あとから行くからって。でも……」


 トレバーがコーヒーに口をつける。一息ついて、


「朝になるまで待ったけど、ライアンは来なかった。ノアも来なかった。だから、僕は家に戻ってみた。そしたらもぬけの殻。誰もいなかった。死体もなかった。驚いたよ。まさかなにもかも消えてなくなるとは思ってもみなかった。

 それからずっと、僕はここで隠れていた。発電機を調達して車に積み込んだ設備は使えるようにしたけど、それだけだ。僕らの街がどうなったのか、調べようにも手がかりがない。おまけに、ライアンもノアもいない。クロエもいない。そんな状況で、僕はどうしたらいいのかわからなくなった。それで、今に至るわけさ」


 そっちは、と語り終えたトレバーが促す。


「テメルに助けられた」


 言って、テメルを指し示す。


「それで、PMMっていうPMCの監視をする国連直属の部隊にいたんだ。PMMは街のみんなを埋葬してくれた。誰もいなくなったのはそのせいだよ」

「そっか……」


 とにかく、無事でよかったよ、とトレバーが呟いた。そうだね、と答える。

 トレバーは淡々と語ったけれど、この一年、トレバーはどれだけの絶望を抱え込んでいたのだろう。自分だけが生き残ってしまった罪悪感。家族を助けられなかった後悔と、失ってしまった喪失感。僕にはクロエがいてくれた。テメルがいてくれた。だから、耐えられた。けれど、この薄暗い洞窟で、トレバーは本当に一人きりだった。トレバーが深い闇を抱えて過ごしてきたことは、想像に難くない。


「それにしてもさ……」


 俯いたまま、トレバーが呟いた。

 それを聞いて、背中にぴりっと緊張が走った。トレバーの声から暗くて深い、まるで噴火寸前のマグマのような感情の波を感じ取った。必死で押さえ込んでいるものの、いつ弾けてもおかしくない気配。なにか少しの刺激があれば、すぐにでも爆発してしまうような、そんな危うい激情。


「……どうして、その子がいるの」


 きた、と思った。僕は事情を理解している。オリビアとたくさん話をした。クロエとも、語り合った。だから、オリビアのことを受け入れることができたし、そこにクロエがいることも認められた。けれど、トレバーは違う。ずっと一人で、一人きりで、この薄暗い闇の中、後悔を続け、罪悪感を募り、絶望を育ててきた。あの日以来、オリビアとともに過ごしてきた僕とは、受け止める余裕は段違いだ。もはや、猶予はないように感じた。


「テメル」

「ソネル」


 二人で同時に、相棒の名を呼びあった。


「……っ」


 背後で風が通り過ぎ、オリビアが息を飲むのがわかった。テメルが地を蹴り、オリビアを抱えて遠ざけようとする。しかし、相手はそれより素早くテメルの懐に飛び込んでいた。ナイフの柄でテメルの鳩尾を狙う。どすっというくぐもった音が響いて、テメルの体がくの字に折れ曲がった。それでも、次の瞬間には男の体が反転して宙に浮いていた。テメルが手首を決めて、捻り上げていたからだ。下手に抗えば捻り折られる。男はそれを見越して、捻られる動きを利用してあえて自ら飛び上がっていた。そのままテメルの背後へ回り、捻られた腕を捻り返して、背中へ捻り上げる。テメルの首元にナイフが突きつけられた。


「トレバー、お願いだ。やめさせて」


 テメルが身動きできない以上、僕は動けない。オリビアがいるからだ。ソネルと呼ばれた男が銃を所持していないとは限らないし、トレバーだってその気になれば銃を撃てる。なにより、トレバーを抑えるには距離が離れすぎていた。間にあるドラム缶が邪魔だ。それに、動いた瞬間にテメルが殺されかねない。つまりは、僕にはなにもできない。


「なんでそいつを庇うのさ。ノアだってわかってるでしょ。そいつが来た夜に襲撃があった。元凶はそいつなんだよ」

「わかってる」

「じゃあなんでっ」


 トレバーの感情が噴出する。どす黒いそれはどろどろとトレバーを侵食した。トレバーが育ててきた闇だ。後悔と罪悪感と喪失感。そして今生まれた憎悪。それが合わさって、どろついた復讐心へと昇華させてしまった。トレバーの背後で、黒い炎が揺らめいているようだった。それは静かに燃え盛り、どんどんと酸素を消費して、じわじわと広がっていく。


 トレバーの後悔を、罪悪感を、喪失感を、そして怒りを、僕は理解することができた。それは、テメルに助けられて僕が抱いた感情とまったく同じだったからだ。一撃で意識を刈り取られたことを、誰一人守りきれなかったことを悔いた。あの襲撃の夜、僕だけが助かってしまったことに罪の意識を感じた。そうして出来上がってしまった空虚はどうしても埋められなかった。僕がそこから這い出すことができたのは、テメルやクロエがいてくれたからだ。だから、オリビアのことを受け入れることもできた。一人きりでは、僕は今頃どうなっていたかわからない。


「トレバー」


 不意に、オリビアがトレバーを呼んだ。


「お前に呼ばれる筋合いはないっ」


 トレバーが目を剥いて怒鳴りつける。だめだ、今オリビアが声をかけても、たとえそこにいるのがクロエだとしても、トレバーには届かない。

 しかし、オリビアは止まらなかった。


「また晩御飯抜きにされたいの。あのときの任務だって、トレバーの勇み足が原因でしょ」


 その言葉を聞いたトレバーの顔色がさっと変わる。


「なんでお前がそれをっ……」


 トレバーはうろたえていた。僕はその様子を見て、思い出す。トレバーがクロエにこっぴどく説教された出来事を。高額な報酬に目がくらんで、僕とライアンが危うく死にかけた、あの任務を。あの任務のあと、トレバーは本当に晩御飯を食べさせてもらえなかった。それどころか、その翌日も、また翌日も、トレバーだけが貧相な食事を与えられていた。僕とライアンの二人がかりでクロエをなだめて、トレバーの食事を戻すようにお願いしたのだ。とても簡単に言えば、あの無茶な任務を持ってきて、なおかつ受けたことに対して、ものすごく怒っていた。クロエとそれなりに長い時間を過ごしたけれど、あれほどの剣幕は一度きりだった。トレバーもそれを思い出しているのだろう。


「私が、クロエの記憶を持ってるからだよ」

「クロエの……記憶……」


 トレバーの表情が途端に怪訝なものへと変わる。それはそうだろう。仇が突然、家族の記憶を持っていると言ったって、信じられるわけがない。けれど、どれだけ信じられなくても、それが事実だ。それを、トレバーに伝えなければならない。


「トレバー、本当なんだ。オリビアは、クロエの記憶を持ってる。だから、僕は、僕とテメルは、オリビアを連れて逃げてきた」

「どうしてそんな話を信じられるっていうんだっ」


 トレバーの言うことはもっともだ。でも、それは普通の状況なら、だ。今は平時じゃない。


「ナノマシンだよ、トレバー。オリビアに仕掛けれたナノマシン経由で、クロエの記憶を書き込まれたんだ。それを実行したのは、僕らを襲撃したPMCの親玉で――」

「ちょっと待って、今、なんて……」


 トレバーに言葉を遮られる。その表情は、先程までの怪訝さや憎悪とはまた別の戸惑いを浮かべている。


「クロエの記憶を……」

「違う、その前」

「……ナノ、マシン……」


 戸惑うのは、今度は僕の番になった。トレバーがなにを言いたいのかわからない。どうしてナノマシンに反応するんだろう。一般に出回っている情報では、医療用に普及しているということくらいしかないはずだ。


「ソネル、手を離して。もうその必要はないみたいだよ」


 そうして、僕が戸惑っているうちに、トレバーの中では答えが出たようだ。相棒に対して、テメルの拘束を解くように指示する。

 それを受けて、テメルが解放される。テメルは肩をさすりながら、オリビアのもとへ向かった。僕の背後を通り過ぎる瞬間、


「すまない」


 小さく呟いた。


「大丈夫」


 僕はそれに呟き返す。テメルはオリビアを守ろうとしてくれた。それだけで十分だ。少なくとも、なんの抵抗もできないままオリビアを失うような事態だけは避けられたのだから。


「ノア、もう少し詳しく、ナノマシンのことを聞かせて。……とりあえず、そいつのことは保留しておく」


 オリビアを睨みつけながら、トレバーが言った。まだ、憎しみは抜け切れていない。けれど、それを脇に置いてでも、知りたいことを優先するその姿勢に少し安堵した。それでこそトレバーだからだ。好奇心と探究心の塊。それがトレバーだ。とはいえ、どうしてそんなにナノマシンに興味を持つのか、それはわからない。とにかく、今は僕らの知っている情報を伝えるしかない。そして、できればまた、トレバーと共に戦えたらと、そう思った。

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