第11話
『やぁ、ノア。私の声が聞こえるかな』
唐突に、自室に設置されている無線機から声が聞こえた。
即座に腰を落として、窓から死角になる位置へ身を隠した。銃を抜いて、撃鉄を起こす。
オリビアとの夜の散歩を終えて、今自室へ帰ってきたところだ。通信を飛ばしてくるにはタイミングが良すぎる。監視されている……。手近にあった鏡を物陰から出して、窓の外を窺う。しかし、今は夜。窓の外は一切の暗闇で、なにも見えない。
『そんなに警戒しなくてもいい。私は君を見ているが、武装はしていない。取って食いやしないさ』
神経を逆なでするような軽薄な口調に、嫌な記憶が蘇る。
「誰だ」
根拠もなく断定すまい。そう思って、素直に答えるとは思えないものの、誰何する。
『おや、覚えていないわけはないだろう。私のことを打ったじゃないか。あれは痛かったな』
チャラけた発言に確信した。だが、しかし……。
「お前は、死んだはずじゃ……」
『そうだな、死んだ。でも、私の言ったことを忘れたわけじゃないだろう』
にやにやと笑っている絵面が浮かぶ、嫌な言葉だった。
「個人を規定するもの……」
『そう、その通り。私は、正確にはあのときの私の体は死んだ。しかし、私という人格は死んでなどいない。現に、こうして君と会話している』
「どういうことだ」
『そのままの意味だよ。君だって、今悩んでいるんじゃないのかい』
言われて、はっとした。オリビア……。
『思い当たったようだね。どうだい、彼女の調子は』
「あれはお前のしわざか」
無線から蔑むような笑い声が聞こえた。
『あれとは、嫌な言い方だね。君の望み通り、クロエを返してあげたつもりだったんだが』
まるでクロエを己の所有物であるかのような物言いに苛立ちが募る。いちいち癪に障る言い方だった。
「そんなこと望んじゃいない。第一、彼女はオリビアだ。クロエじゃ――」
『本当に、そう言い切れるのか』
僕の言葉を遮って、マーシャが発言する。
『彼女はクロエじゃない。君は本当に、今でも、心の底から、そう思っているのかい』
「…………」
咄嗟に答えられなかった。それは、今まで何度も自問して、結局答えを出せていない問題だからだ。確かに、彼女にクロエを重ねることが多くなってきた。しかし、彼女をクロエだと認めてしまうことは、いまだにできていない。僕の中では、彼女はクロエの記憶を持ったオリビアだった。
『所詮、記憶とは〇と一の電気信号の集まりでしかない。いつ、どこからどこへ、どのくらいの強さで、どれほどの長さで、シナプスの間を走り抜けるのか。それだけのことだ。すべての事象は〇と一に還元できる。人の脳は複雑だから、データそのものはとんでもない容量になるがね』
マーシャが諭すように語る。僕はその内容をまだかみ砕くことができない。感情が、理解を拒む。
『まだ迷っている、いや、認められないと言ったほうが正確か。彼女は、クロエではない、と。しかし、君は私を誰だと言ったかな』
言われてはっとした。そうだ。僕はこいつを「マーシャ」だと認識した。しかし、マーシャは僕の目の前で死んだ。しかも、この通信で、彼は自身の肉体が、あのときの体はすでに死んだことを認めている。にも関わらず、僕は。
『そうだ。君は私をマーシャだと認識したはずだ。なぜか。私が私の記憶を有しているからだ。肉体など関係ない。記憶こそが個人が個人であることを規定する唯一無二の根拠だ』
それならば、彼女は。彼女が記憶を持っているということは。
『人の思考は千差万別だ。誰がなにを思い、どう考え、いかように行動するのか。それは誰にもわからない。時として、本人にすら自覚ができないこともあるだろう。人はそれを個性と呼ぶ。もちろん、身体的特徴を個性と呼ぶこともあるだろう。しかし、ほとんどの個性とは、身体ではなく思考に宿るものだ。その個性が、人の思考を固有のものへと導いていく。人は心の中では自由だ。どんなことを考えてもいい。どんなことを思ってもいい。それが自由の証であり、個性たる所以だ。人は肉体を捨て去って思考に身を委ねたときに、真の自由を手に入れる』
マーシャは恍惚としたように語る。その語り口が、僕に追い打ちをかける。僕に決断を迫る。耳の奥で、どくどくとなにかが脈打つのを感じた。
いつしか雨が降り出していた。大粒の雨が窓を叩く。濡れた窓ガラスが室内を反射して、いびつに歪んだ僕を映し出している。今、自分がどんな表情をしているのか、そこからは窺い知ることができなかった。
『……もう一度聞こう。オリビアはクロエの記憶を持っている。その体はクロエのものではないが、記憶は確かにクロエのものだ。それは君も知っているだろう。さて、彼女は、誰だ』
答えが出てしまったように感じた。もはや疑いようもない。自らの発言で証明してしまった。こいつがマーシャだと認識した時点で、僕は答えを出してしまっている。
「……なにが目的だ」
歯を食いしばりながら絞り出す。複雑な心境だった。オリビアを思い、クロエを思い、嬉しいのか、悔しいのか、悲しいのか、腹立たしいのか、どの感情が正解なのか、自分でわからなくなる。
『ふむ、目的ときたか。私は別に、君を苦しめたいわけではない。むしろ逆だ。オリビアを守ってくれたことに感謝すらしている。だからこうして君個人に宛てて連絡をしたわけだが……。そうだな、目的というならば……、オリビアの返還を求めたい』
「なっ……」
今やオリビアはクロエと等しい存在だ。それをマーシャ自ら自覚させたはずだ。それなのに、再び引き剥がそうというのか。
『なに、君に不利益は被らせない。代わりを用意しよう。体は変わるが、クロエの記憶を移植した人間を用意する。そして、オリビアからはクロエの記憶を消そう。我々が欲しているのはオリビアの体だけだ。中身に興味はない。私はオリビアの体を手に入れる。君はクロエの記憶を手に入れる。どうだい、悪い話じゃないだろう』
「オリビアはどうなる……」
『どうなろうと、君の興味の範疇ではないだろう。それとも、君はオリビアにも興味があるのかい』
「あんたら、いったいなにがしたいんだ……」
『それを話す義理はないな』
取りつく島もなかった。
『言っておくが、君に選択肢はない。今君が断っても、別の手段でオリビアを返してもらうだけだ。その場合、君のもとにクロエが帰ってくることはないだろう』
強気な発言だった。はったり、の可能性は薄いだろう。なにせ、こいつは生きていた。死んだはずの人間が今もこうして僕と会話している。そうなると、なにがあっても不思議じゃない。
しかし、オリビアを素直に差し出せるかというと、別問題だった。今の僕にとって、オリビアはクロエと等しくなった。オリビアはオリビアでありクロエだ。クロエの記憶を有したオリビアじゃない。
歯を食いしばる。どうしたらいいのか。どんな選択が正しいのか。どうすれば誰も悲しまずに済むのか。情けないことに、また僕は、答えを出せずに硬直するしかなかった。そんな場合じゃないことはすっかり承知しているけれど、自責の念が募る。僕はいつだって答えを出せない。ライアンの背中に隠れて、ずっとライアンにそれを預けていた。クロエの両親に拾われる前は、命の選択さえも主に明け渡していた。僕はいつだって選択の機会を逸してきた。意識的に、あるいは強制的に。だから僕は、こんなときになっても自分で答えを出せずにいる。
……どうしたらいい。なにが正解なんだ。ライアン……。
目を閉じて、ライアンの顔を思い浮かべた。
――なぁ。
そのとき、声が聞こえた気がした。
――選ぶのはお前なんだ。可能性はいくらでもある。その数ある可能性の中から、望むものを手にするのはお前自身だ。過去に囚われる必要はない。お前はお前の選んだ道を行けばいい。
違う。これは前に見た夢だ。だから、この続きは……。
ライアンがいつもみたいに僕の背中をぽんと叩いてくれた。
――さぁ、お前はなにを選ぶんだ。
背中にライアンの手の感触が蘇る。ライアンはそうやって、いつだって僕の背中を押してくれた。ライアンが助けてくれた。それなら、僕は応えないわけにはいかない。だから、僕は答えを出すことにした。余計なことは考えず。シンプルに。
『さぁ、どうする』
無線の向こうから、マーシャが問う。だから、僕は答えた。
「断る」
『……ほう』
マーシャが驚きの声を挙げる。僕だって、この選択に多少の驚きがある。でも、決めた。誰がどう思うか、なにが正しいかなんて関係ない。僕は、一度掴んだクロエの手を、もう二度と離したくはない。オリビアにクロエが宿っているというのなら、オリビアも含めてだ。単純なその思いに、僕は従うことにした。
『それでいいのかね。君は、君とオリビアは居場所を失うことになる。それでも、その選択に悔いはないな』
「ない。僕はもう、クロエの手を離さない」
即答した。迷いは捨てる。マーシャがそうやって僕らを追い詰めるのなら、僕は全力で抵抗する。迷っている暇などない。
そして、一拍の間の後。
『承知した。だが、覚悟しておくといい。オリビアはいずれ返してもらう』
「絶対に渡さない」
宣言する。これはマーシャに対する宣戦布告だ。
『いいだろう、どれだけ抵抗できるか、楽しみにしている』
ぷつんと音がして、無線が切れた。急に雨音が大きくなったような気がした。相変わらず、土砂降りの雨はすべてを覆い尽くしていて、先が見通せない。僕は大きく息をついて、その場に座り込んでしまった。
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