第9話
「ノア」
僕を呼ぶその声のトーンに懐かしさを感じた。戸口を振り返るとオリビアがいた。
「今、いいかな」
「どうぞ」
僕は銃の手入れをする手を止めることなく返事を返す。オリビアは静かに扉を閉めて、ベッド脇の椅子に腰掛けた。
「ノア」
また静かに呼びかける。その声はクロエではなかった。でも、声の調子も、そこに込められた感情も、クロエと瓜二つだった。だから、僕は目線を向けることができないでいた。
オリビアの事実を知って、少しは受け入れられたと思っていた。けれど、オリビアがクロエの記憶を持っていることを知って、再びこうして顔をあわせると、うまくはいかなかった。オリビアはクロエじゃない。クロエはもういない。そのことを、ことさら深く実感させられるような気がした。
「ノア」
「やめてくれないかな、その呼び方」
はっとした。つい言ってしまった。隣でオリビアが息を飲むのがわかった。そのことに、少し傷つく自分がいた。オリビアを信じたいのか、認めたくないのか、自分でもわからなくなっていた。
「まだ、信じられないかな」
オリビアの声は少しだけ震えていた。ちらりと目線を横に流す。
膝の上で硬く握り締めた拳が目に入った。関節が白くなるほど強く握られたそれは、なんだかとてもか細くて、頼りなく見えた。
クロエの手を思い出そうとする。クロエの手は、こんなに小さくなかった。もう少し大きくて、家事で少し荒れていたけど柔らかかった。そして、暖かかった。
僕は何度もその手に救われた。僕がクロエの両親に拾われたあと、忙しくて構うことができなかった両親の代わりに、献身的に僕の世話を焼いてくれたのはクロエだった。塞ぎ込んでなにもできなかった僕のそばには、いつでもクロエがいてくれた。
それから、過去の記憶に囚われて眠れない夜、過去の夢にうなされて飛び起きた夜、僕の背中を撫でてくれたのはクロエだった。
「ノアと初めて出会ったのは、私が九歳のときだった」
オリビアが話を始めた。
「ノアは小さくて、とても痩せていた。私は、このまま死んじゃうんじゃないかってすごく怖かった。だから、ずっとそばにいた」
オリビアは、そうして僕と出会ってからの日々を語った。
両親は医者で、行き倒れていたノアを拾ってきたこと。でも、忙しさのあまり面倒を見ている暇がなかったこと。だから、両親が少しでも楽になるようにと、クロエが献身的に世話をしたこと。そして、次第にノアの顔色が良くなっていくことが嬉しくて、誇らしかったこと。いつしか、医者になって両親を手助けしたいと思うようになったこと。
「ねぇ、覚えてるかな。ラサハグェの話」
そして、いつかの夜の話を始めた。それは、僕とクロエだけが知っている、二人だけの思い出だった。
「私はあのとき、お医者様になりたいと思ってた。お父さんを少しでも助けたくて。でも、今はもう叶わない。私はもう、クロエじゃない。それは私もわかってるの。でも、クロエはいるの。私の中に。私の名前はオリビアだけど、クロエでもあるの」
オリビアは苦しそうに語った。その声はやっぱり震えている。その震えはオリビアのものなのか、クロエのものなのか。それは僕にはわからない。
ふと、MSCの代表の言葉が頭をよぎった。
『個人を紛れもなく個人だと規定するものは、いったいなんだろうね』
彼女はオリビアだ。それは間違いない。自身がそう自覚しているし、そう名乗っている。だが、「オリビア」という名は、ある側面からの彼女を表しているだけのただの記号だ。名前があるから個体があるわけではない。むしろ、個体には複数の名がつくことだってある。つまり、名は本質ではない。では、オリビアをオリビアと規定するものはなんだ。肉体か。精神か。そのどちらでも、紛れもなく断定できるだろう。
しかし、クロエではないと言い切れるだろうか。たとえばクロエの顔をして、まったく別の人格を有していた場合、それをクロエと呼べるだろうか。きっと、僕は否定するだろう。けれど、外面が別の誰かで、内面がクロエだったら。あの優しい声と、温かい手を有しているのなら。それは、クロエであると認めてもいいのではないだろうか。例えそれが、クロエの顔をしていなくても。
「クロエ……」
思わず口をついて出た。呼びかけてしまった。慌てて顔を下げる。でも、部屋の空気が動いて、オリビアが顔を上げたのがわかった。
「ゆっくりでいいよ。待つよ。だから、また、ノアとお話したい」
オリビアはそう言った。そして、くすっと笑ったような気がした。
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