第8話

 ある夏の日。まだ街が移住者で溢れていなくて、僕らも仕事をしていなくて、クロエの両親が存命だった頃。そのときも戦争は起こっていた。


 戦争。


 連日報じられてはいたけれど、国境周辺のごく限られた地域で行われていた小競り合いでしかなかった。それほど規模は大きくなかった。だから、僕らにとってはブラウン管を通した先にある出来事でしかなかった。

 僕とクロエは街の外れにある小高い丘にきていた。夜。八月の夜。暑くもなく、寒くもなく、心地いい夜だった。


「ねぇクロエ。あの星はなに」


 僕は夜空を指差してクロエに尋ねた。


「ラサルハグェだよ。へびつかい座っていう星座の、一番明るい星」


 クロエは僕の指先を辿って、そう教えてくれた。


「へびつかい座」


 なんだか変な星座だと思った。蛇を使う人。なんでそんな人が星座になんてなれたんだろう。


「どれを繋ぐの」

「えっとね」


 尋ねると、クロエはひとつひとつ丁寧に教えてくれた。でも、教えてくれた星を結んでもちっとも人の形に見えなかった。ただ縦長の四角形にひょろひょろと毛が生えたみたいだ。


「へびつかい座はね、アクスレピオスっていう神様をかたどったものなんだって。医者の神様なんだって、お父さんが教えてくれたの」


 クロエが嬉しそうに笑う。なにがそんなに嬉しいのか僕にはちっともわからなかったけれど、クロエが笑っているならそれでよかった。だから、僕は夜空に輝く星よりも、隣で笑うクロエを見ていた。


「アスクレピオスは優れたお医者様だった。死んだ人を蘇らせることもできた。でも、死者の国の王様は、それが気に食わなかった。だから、死者の国の王様は、アクスレピオスを殺して、星座にしてしまったんだって」

「人を助けてたのに、どうして」

「どうしてだろうね。人を生き返らせることって、よくないことだったのかな」


 それから僕とクロエはへぴつかい座になったアスクレピオスについて話した。

 生と死。死は避けては通れないもの。でも、アスクレピオスはそれを克服しようとした。そして、それをなしえてしまった。それゆえ、死者の王の怒りをかい、殺されてしまった。人々の命を救い、永らえさせたのに、自分を救うことができなかった至高の名医。どうして、彼は殺されなくてはならなかったのだろう。逆らえない、ということだろうか。人はいずれ死ぬもの。永遠に生き続ける命などない。それを破ることは許されないことだったのだろうか。


 では、今の世の中は。この国の状況は。死者の国の王が望む世界なんだろうか。人と人が殺し合い、命を散らしていく世界。アスクレピオスが望んだ世界とは、真逆の世界。彼はどう思っているのだろうか。かつて救おうとした人々が互いに殺しあう姿を見て。悲しでいるだろうか。呆れているだろうか。それとも、まだ手を差し伸べようとしてくれているのだろうか。


「クロエは、なにがしたい」


 尋ねると、クロエは思案げに星を見上げた。風が吹いて、髪を揺らした。さらさらと舞う髪が星の光を受けてきらきらと輝いていた。


「お父さんを助けてあげたい」


 ずいぶんと悩んだ末にそう答えてくれた。


「ずっと誰かを助けてるから。だから、私がお父さんを助けてあげたいな」


 生意気かな。そう言って、クロエは笑った。

 そんなことないよ。

 僕はそう言いたかったけど、なんだか上から目線のように思えて、口にはできなかった。けれど、そう思えるクロエがなんだか眩しく見えた。僕は未来のことなんてなにも考えていなかった。ただ、このときがずっと続けばいいと思っていただけだった。クロエと、ライアンと、トレバーと、それからおじさんとおばさんと。みんなでこのまま過ごせればいいとそう思っていた。


「ノアはなにがしたいの」


 だから、そのクロエの問いには答えられなかった。


「また星が見に来たい」

「なにそれ」


 僕は答えをはぐらかした。なにも考えていないことも、このときがずっと続けばいいと考えていたことも、どちらも口にはできない。ちょっとだけ気恥ずかしかった。


「またこようね」


 でも、クロエはそう言って笑ってくれた。その笑顔はやっぱり綺麗で、星の海に浮かぶもうひとつの星みたいに見えた。

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