第三十話:実は同じだった2つの文
「よし、じゃあ始めるか」
四日目の穏やかな昼は文法調査票と共に、そんなキャッチフレーズは言語調査官にはない。しかし実際の所、現場にいる新人言語調査官にとっては文法調査票は頼みの綱だ。俺――アレン・ヴィライヤにとってもそれは例外ではなかった。
手前には文法調査票、面と対して座っているのはリーナだ。彼女の服はまだ出来ていないため、着ているのは俺のシャツとズボンだ。垂れた銀髪がすきま風でふわりと浮き、振れる。水色の瞳が質問を待ってこちらを見つめていた。
彼女は先程シアの昼食を取ったばかりで少し眠そうにしている。うとうとしているのは心許ない。彼女に訊くと「大丈夫」と気丈に答えていたが、今回の調査時間は短めにしたほうが良さそうだ。
実際、俺も眠い。しかし、またあの悪夢を見ないか心配で昼寝することが出来なかった。調査の続きを進めるのは半分覚醒を維持するためということもある。しかし、今はシアとタールが私用で居なくなっていたため言語調査には丁度いいステライルな環境だった。
「リーナ、“私はリーナです”はラッビヤ語でどうやって言うんだ?」
「んー、“リーナ ゴシュン”?」
「お、新しい単語だ……」
手元のメモに書き加える。「ゴシュン」は「私」を表す代名詞だろうか? これまでの文章から
自分を指してリーナに言う。
「じゃあ、“
「違う、それは言わない。“アレン ゴシュン”が正しい」
「おっと……?」
疑問に呻くとリーナは心配そうな表情を見せた。大丈夫だとジェスチャーで伝えるとなんとなく分かってくれたらしい。ラッビヤの人々と連邦人の間でのジェスチャーの違いも調査すべき問題だが今は脇においておく。
語順を修正してきたということはこれまでの主語とは性質が違う単語ということだ。そもそも、これまでの文章で単語を反転させることは出来るのだろうか。
「“
「分かる、変じゃない」
「じゃあ“
「違う、言葉逆と思う」
「むぅ……」
整理すると「単語-ム」は「単語-ン」の後に置くことは出来るが、「単語-ン」は標識の無い単語の後ろに置くことは出来ないということだろう。するとやはり、無標識の「リーナ」の後に来た「ゴシュン」の存在が謎になってくる。
俺は今度はリーナと俺とを交互に指差して訊いてみる。
「
「
「ん、ちょっと待てよ……?」
リーナの答えは殆ど意味の分からないものだった。しかし、そこには解決の糸口が一つだけ含まれていた。
リーナがさらっと髪をかきあげている所に俺はすかさず質問を入れていく。俺は自分とリーナと玄関の方を順番に指してゆく。
「
「シア、正しくは、“ゴシュム”」
「やっぱりな」
俺の納得が謎だったのかリーナは首を傾げていた。
つまり、「ゴシュン」は人称変化する動詞だったのだ。先の動詞の場合、「ゴシュ」を語幹として一人称語尾「-ン」、二人称語尾「-ト」、三人称語尾「-ム」が付いているようだ。なので「ゴシュン」は「私は~である」を表し、「ゴシュト」は「あなたは~である」、「ゴシュム」は「彼・彼女は~である」を表すのだろう。恐らくSOV語順であるというのは間違っておらず、無格の名詞よりも後にきたのはそのためだ。
しかし、それだと新しい疑問が生じる。
「リーナ、“
「それは違いが無い」
「え? そうなのか」
「“
「ああ、そりゃそうか……」
結局の所、「A-ン B」という等式文は文末の「
「“マトゥコルン”は“これは”って意味だろ?」
「正しい」
「“マトゥコルム”はなんて意味なんだ?」
「それは“ここに、ここで”」
「ん? じゃあ、“
「うん、“ここにリーナさんが居ます”の意味」
完璧に合点がいった。
「-ム」は与格・処格の接辞だ。恐らく「マトゥコル」は「ここ、これ」の意味で対象が無生名詞の時は等式文でこれを主語にしてもいいが、有生の場合は処格にして有生名詞の方を主語にしなければならないのだろう。ラッビヤ語は何かとアニマシーに厳密な言語のようだ。母語のリパライン語では考えないようなことを思い出させてくれる。これだから、言語調査は止められない。
と、そこまで考えたところでリーナは完全に眠そうな表情でこくりこくりと頭を揺らしていた。俺が考え込んで、目を瞑っているうちに寝てしまったらしい。
「ありがとうな」
俺は彼女の頭を一撫でして記録を付けることにした。リーナの頭はくすぐったそうに震えた。
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