第七話:ポートヴィータシュと病衣


 とりあえず一つ分かった事がある。「ブツィニル」という言葉はリーナのトラウマらしいということだ。この言葉の意味を理解するにはもっと時間が必要だろう。

 リーナは毛布の中に潜り込んだままだ。呼びかけても出てこないだろうし、無理やり引きずり出すなんてこともしたくはない。インフォーマントとして長らく付き合ってもらう以上、彼女とは信頼関係を確立する必要がある。


「そうだ、タール。買ってきたものに匂いが強いものはあるか?」

ポートヴィータシュ海獣の一種の肉を油漬けにしたものくらいならあるが……」


 タールはビニール袋の中から瓶詰めされたポートヴィータシュを取り出してみせた。俺はそれを受け取ってリーナの居るベッドの脇に座った。瓶を開けて肉を取り出して口に運ぶ。タールは不満げにこちらを見てきた。


「それはリーナちゃんのために買ってきたんだぞ」

「そうかもな」


 もう一個取り出して口に運ぶ。口の中に絶妙な比率で調合された香辛料の香りが広がる。ポートヴィータシュの食感も相まって美味だ。ヴェルバーレ教会で供される食事で貰えるようなユープラフラットブレッドの一種に挟んで食べたら最高だろう。

 故郷の味にノスタルジーを感じていると熱い視線に気づいた。リーナが包まっている毛布の間からこちらを覗いている。香りと美味しそうに食べる人間、本能的に気にならない人間のほうが少ない。彼もその変化に気づいたのだろう。タールはそれ以上こちらのつまみ食いを追及してこなくなった。


「欲しいならあげるぞ。ほら」


 肉をつまみ上げてリーナの目の前に差し出してみる。彼女は困惑した様子で俺の顔と肉を交互に見ていた。なかなか自分ではそれを受け取るという選択を出来ないようだった。

 「ブツィニル」というスティグマが彼女にどのような仕打ちを与えたのか。この反応だけで想像に難くない。


「俺達が君を助けたのは、酷い目に合わせるためじゃない。それだけは信じてくれないか」

「……」


 リーナは俺の顔をじっと見つめ、数秒視線を横にそらした。そして、そっと毛布の間から両手が伸びて、つまみ上げていた肉を受け取った。それを口に運ぶと彼女の目は輝きを取り戻したように見えた。

 気に入ったようで何より。瓶ごと差し出してみるとリーナは引ったくるように持っていってしまった。どうやら、相当お腹が空いていたか、まともな食事を取ってこなかったのだろう。

 食べている様子を見ながら、タールも安心したようだった。息の詰まる瞬間が終わり、ため息が自然と出てきた。風船から空気が抜けるような感じだ。


「そういえば、彼女の服って今どうなってるんだ?」

「病衣のままだな」


 リーナが着ているのは緑色のガウンだ。タールが病院に連れて行ったときに着替えたのだろう。元々着ていたボロ布がどこに行ったかは知らないが、あんな服とも言えないようなものはどうなろうが知ったことではない。所詮、この少女を苦しめてきた連中が餞別として被せた布だ。そんなものにすがる理由はない。


「病衣のままで数週間とか言うんじゃないよな?」

「まさか。当分は俺の服を着てもらうことになりそうだが」


 タールはなるほどなと納得した様子だった。

 女装の趣味はないので残念ながら女性向けの服は持ち合わせていない。しばらくの間はリーナには我慢してもらう必要がありそうだ。ラッビヤ人の服が手に入れられるなら、それが一番彼女に馴染んだものになりそうだがキャンプの住民があの様子では入手は難しいだろう。

 そんなことを考えていると、唐突にポップな音楽が部屋に鳴り響いた。慌ててポケットをまさぐり、端末を取り出したのはタールだ。俺達に静かにしていてくれとジェスチャーで表す。

 リーナはその様子を見て、驚いた様子で目を瞬いていた。ポートヴィータシュを食べる手も完全に止まってしまっている。確かに彼らにとって電子機器やその音、ポップな音楽は身近なものではないだろう。俺達にとって普通なことが、他人にとっては恐怖や衝撃となりえる。逆もまた然りだ。リーナに驚かされる日が来るのも遠くはないだろう。

 タールは何回か電話先に答えると焦った様子で身支度をし始めた。


「仕事か?」

「ああ、少し遠出だな。北の方までひとっ走りしてくる」

「食い物の代金は」

「あ? 今更水臭いこと言うな」

「何から何まで申し訳ないな……」

「それにだな」


 タールは玄関のドアノブに手を掛けてこちらを振り向いて言った。


「その娘が救えたんだったら、細けえことは良いじゃねえか。ま、笑顔が見れれば良かったんだが、こんなにすぐじゃまあ無理か」

「タール……」


 出会って一日、それに難民キャンプで倒れている見知らぬ少女を救おうとするような変人に付き合ってくれる。それに自腹を切ってまで面倒を見ようとするなんてどれだけ人が良いのだろうか。裏に何かあるのではないかと疑ってしまうほどだ。

 そういえば、これまで訊いてこなかったが彼の職業は一体何なのだろう。総務省界間管理局というのは世界を隔てる連邦の外交や邦人保護を担当する。タールはそこに委託された民間の業者だ。だが、その仕事が何なのかは詳しくは聞いていなかった。


「じゃあな、ちゃんと日にも当ててやれよ」

「あ、ああ……」


 タールはそう言って、部屋から出ていってしまった。タイミングを逃してしまったが、今更追って訊くほどのことでもない。そのうち分かるだろう。

 俺とリーナはそうして部屋に二人っきりになってしまった。


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