第十九話:朝食は文法質問票と共に


 シアは早朝から起きていたらしくシャキシャキと家事仕事をしていた。少しは休まないのかと訊けば、じっとしているのは落ち着かないと彼女は答えた。

 入ったときには微妙な感じだった宿舎の一室だった。しかし、いつの間にかより華やかに清潔感のある部屋へと変わっている。そのうえ、今朝もキッチンの方から良い香りが漂ってきていた。タールの買ってきたもので朝ごはんを作ってくれているらしい。

 それを待ちながら、俺はラッビヤ語を記録した紙をクリアファイルに入れて書類棚に戻す。同時にこちらに来る時に持ち込んだスーツケースを足で寄せた。

 それを見たタールが怪訝そうな表情をする。


「呼んでくれたら、運んでやるのに」

「あまり他人に見られると困るようなものが入ってるし、触らせたくなくてな」

「ふぅむ、そうかい。男の秘密は守るぜ……?」


 タールは怪しげな表情でこちらを見てきた。どうやら、何か勘違いしているらしい。


「そんなんじゃなくて、個人情報だっつうの」


 言語調査官は様々な場所で様々な調査を行う。そういった調査の中には個人情報に繋がるデータも多い。前任の調査結果も言語翻訳庁持ち出し禁止資料の一つだ。大した調査になっていなかったようだが、機密情報であることには変わりない。

 スーツケースの外側のチャックを開けて、一冊のペーパーバックを取り出す。表紙は白、貨物で揺れたのか表紙の角が折れてしまっていた。しかし、中身が破れでもして無ければ気にする問題でも無い。

 タールが取り出した本の表紙を興味ありげに見つめていた。


「何だそれ? “語彙・文法調査票”?」

「そうだ、リーナに早速いくらか質問をしようと思ってね」


 名前を呼ばれたリーナは首を傾げた。彼女もテーブルについてシアの朝食を待っている様子だった。

 文法調査は文法特徴調査票に従って行われ、語彙調査も基礎語彙調査票に従って行われる。いずれも言語翻訳庁ほんてんから公式に発行されているものを使う。これが言語特務局に所属する調査官の基本だ。

 しかし、勿論それ以外にも様々な情報を集める必要がある。調査票は調査の手掛かりになるが、それが全てではない。


「リーナ、“これは人です”はラッビヤ語でどういうんだ?」

「マトゥコルンニル」


 自分を指して尋ねるとリーナはこちらを人差し指で指してそう言った。


「じゃあ、“これはタールです”は?」

「マトゥコルムンニル」


 今度は他人を二人で指す。指されたタールは気恥ずかしそうに頬を掻いていた。


「“これは食べ物です”は」

「ラショルン

「うーむ」


 訊いてはみたものの、結果は微妙だ。いくつかの単語が識別できるだけで完全に単語を区別できるわけでもない。最初の二つは「マトゥコル~」が一単語とすれば、単語の末尾が少し違うのが謎だ。最後に至っては「マトゥコル~」すら出てきていない。「ヨケル」と言えば食事中に訊いたラッビヤ料理の一種だ。茹でたり焼いたりする食べ物だったらしいが、もしかして食物の総称だったりしたのだろうか? こればかりは実際の調理風景を見なければ分からなさそうだ。

 確か、「ダルン ~?」で「あなたは~か?」と言えたので「~ルン」は主語を表す標識かもしれない。それでは、二文目で「マトゥコ」となっているのは何故だろう。「タールン」がタールを表す主語だとすれば「ニル」は第一文と第二文で共通した統語上の理屈で抽出できるはずだが、それだけでは情報不足だ。

 自分を指差して、リーナに問いかける。


マトゥコルムこれ…… ヴィライヤルンヴィライヤは ニル?」

「マトゥコルム  ニル」

マトゥコルムこれ…… ニル?」

「マトゥコルム 


 オウム返しのように受け答えしているように見えるが、一部強調されて少し単語の形が変わっていた。恐らくリーナは訂正してくれているのだろう。

 訂正の結果を考えるに拘束形態素「ルン」は「ン」と修正すべきなのだろう。未だに「マトゥコル~」の語尾「ム」と「ン」の違いが謎だが、「ニル」が独立した形態素だということはどうやら正しいらしい。

 考えに頭を悩ませているとキッチンの方からシアが朝ごはんを運んできた。俺とリーナ、二人の前にバネトレフ精製された団栗水飴ヴァルカーザ甘酸っぱい紫色の漿果のジャムを載せたパンケーキが出てくる。飲み物はどうやらリウスニータだ。彼女の特製のようでバニラの香りが強い。

 いくらシアにしても、女の子に作ってもらった朝食。テンションが上がらない訳が無い。


「おう、俺にも早く朝飯をくれよ!」


 ニコニコしながら待つタール。彼女が自分の分も用意していると勘違いしていたのだろう。しかし、哀れ、ここから見えるキッチンテーブルには3つ目のプレートは見えない。どうするのかと無言で観察していると、シアはメイド服のポケットから何かを取り出した。そして、それを彼の前に勢いよく叩きつけた。

 “朝のお勤めバー プレーン味”――コンビニで買える市販のフルーツバーだ。


「あ?」

「貴方にはこれで十分でしょう?」

「おいおい、冗談きついぜ、嬢ちゃん……!」


 そう言いながらもタールは「お勤めバー」の包み紙を取って、豪快にかぶりついていた。いじめにも等しい扱いに全く動じない。その様子を見て、シアは悔しそうに「ぐぬぬ……」と声を漏らしていた。


「災難だな……」

「そうでもないぞ、俺だけスペシャルの朝食だぁ!」

「あのですね、そんなつもりは――」


 嬉しそうに食べるタールを前にして俺とシアはそれ以上何も言えなくなってしまった。

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