第五話:話者の視点


 思わず腕で顔を覆った。目蓋を閉めていても強い光が目に入ってきたからだ。ソファの柔らかさを再確認して、再度眠りにつこうとするが中々寝付けなかった。諦めて目を開ける。掛け時計の針は9時を指していた。


「朝、か」


 デュインに来てから一日目は怒涛の勢いで過ぎていった。この瞬間から言語調査官アレン・ヴィライヤの二日目が始まる。だが、その事実とは裏腹に体は思うように動いてくれなかった。全身が鉛のようにだるい。昨日は無茶をしただけでなく、色々と心労まで溜めてしまった。それのせいだろう。


「結局、残ってしまったな……」


 ベッドの方に視線をやると昨日の少女がすやすやと眠り込んでいた。苦しんでいるような様子は全く見られない。これだけ早く回復しているのを見ると医者が栄養点滴でもしてくれたのかもしれない。それにしても自分の選択が正しかったのか、未だに分からなかった。あれだけ長官に強く迫ったにもかかわらずだ。

 ソファから起き上がって彼女の方に近づいてみる。今ならその容姿が良く観察できた。身長は5フェータローエシュ約155センチメートルくらい。小麦色の肌に、髪は美しい銀髪だ。今は見れないが瞳は水色に近い青だった気がする。本土に居れば見ることのないような容姿だ。

 思い起こしてみれば、彼女の瞳を見たときは奇妙なものを感じていた。それは打ち捨てられ、地面に倒れていた彼女を助け起こそうとしたときだった。こんな状況なら人間は総じて藁にでもすがる思いで他人に助けを求めるものだ。それなのに彼女の目には何の感情も籠もっていなかった。逆にこちらがうろを覗き込んでいるかのように感じた。


「……奇妙なもんだな」


 参与観察、つまり直接コミュニティに参加して言語調査を行う場合はインフォーマント――情報提供者に近い家に居候することが多い。自分の師匠は昔フィールドワークで農村に赴き、ウサギ肉を食べ、野糞したという。あまりのワイルドさに目眩がするほどだったが、重要なのは話者と同じ生活、同じ目線に立たなければ気づかないこともあるということだ。まあ、野糞で気付けるのは自分の新しい“趣味”くらいなのかもしれないが。

 ともかく、少女――インフォーマントが自分の部屋にいるのはフィールドワークの計画とは全く異なる。彼女の目線に立つには細心の注意が必要になってくるだろう。


「話者の目線……ねえ……」


 少女が気持ちよさそうに眠っているベッドの脇でかがんでみる。視線を下げて、少女の目の位置と合わせてみた。ふと思い浮かんだ行動だったが、これだけでは何も分からない。今更、自分がバカバカしく思えてくる。立ち上がろうと思った瞬間、少女の目蓋が動いた。

 彼女は横になったままアクアマリンのような瞳をこちらに向けてきた。自動的に目が合ってしまう。


「あっ……えっと……」

「ダルン……ラルトニル? ラルトヒェルム……?」


 聞き覚えのない言葉は恐らくラッビヤ語だろう。彼女はベッドから身を起こすと困惑した様子で部屋の中を見回していた。考えてもみれば、この状況は彼女にとっては困惑以外の何者でもない。人々に酷い扱いを受けた末に見知らぬ閉所に閉じ込められて、目の前には見知らぬ外国人がいる。理解に苦しむに決まっている。

 少女は意気消沈したように顔を伏せると小声で言った。


「バルトショニルズュハット?」

「えっと、君の言葉は分からないんだ。君は俺が話す言葉が分かるか?」

「あっ……ダルン?」

「ん? もしかして今、リパラオネって言ったのか? そうだ、俺はリパラオネ人だ」


 少女は顔を上げてこちらの顔を凝視する。その表情からは「一体何故」という疑問が伝わってきた。彼女は何か言おうとしていたが、なかなか言葉に出来ないようだった。

 ここまで驚いているところを見ると一つの予想がつく。リパラオネ人が助けてくれることはない、という刷り込みから分かること。それは恒常的に行われていた彼女への暴行を、キャンプに関わっていた連邦政府の関係者や軍人たちは無視していたということだ。こうなってくるとますます彼女をキャンプに戻すという選択肢は取れなくなる。


(レーシュネの奴、一体何を考えているんだ)


 頭に血が上ってくるが、それと同時に分かったことが一つあるので整理しなければならない。さっきの少女の問いは恐らく「あなたはリパラオネ人か?」で間違いないはずだ。対応するラッビヤ語は「ダルン・リパレーナン?」だったことから「ダルン ~?」で「あなたは~か?」という意味になりそうだ。

 俺は少女に近づいてリパライン語が理解できているかどうかの回答を待った。すると、彼女は小さな声だが話し始めた。


「リパライン語が分かるのは少しだけ。でもと、話すことは難しい……」

「なるほど、分かるだけでもありがたいな」


 媒介言語のない状態での言語調査は難しいに違いない。その上では彼女がリパライン語をある程度理解できることは助かる事実だった。

 いつの間にか、少女は少し安心したような表情になっていた。そういえば、彼女に栄養のあるものを少しづつ与えるようにと言われていた気がする。立ち上がって台所に向かおうとしたところで玄関のドアが独りでに開いた。


「よっ! 女の子の調子はどうだい?」


 聞き覚えのある声と口調でそれが誰なのかはすぐに分かった。

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