第二十五話:折れる鉛筆
大きな地図と木枠にガラスを嵌めたテーブル、その両脇には高級そうなソファがおいてある。その先にはレーシュネの名札が置かれたデスクがあった。座り心地の良さそうな椅子に収まっているのは白髪の中年エリート――レーシュネ・ボーシュニョスツィーニ・シュフイシュコだ。背後のガラス窓はシェードが閉じられて部屋の中は少し薄暗い。
執務室に来るのはこれが二回目だったが居心地が良いところではなかった。初日の衝撃が未だに首筋に残っている感じがする。
俺達三人は来賓用のソファに座って、「仕事を済ませてくる」と言ったレーシュネを待っていた。リーナは出された
しばらくすると、レーシュネは帰ってきた。しかし、彼はデスクの椅子に座るなり、小さく唸りながら難しい顔をしていた。
「それで問題とは何なんですか?」
切り出したのはシアだった。
リーナはお菓子に夢中で話を聞いている様子もない。恐らく、七割五分くらい彼女には関係がなさそうなことなのだろう。しかし、言語翻訳庁の二人が行政庁の力になれるようなことといえば危険で面倒なことな気がする。戦闘中の前線における通訳か、はたまたより危険な任務か。緊張が高まり、肩がこわばる。俺は唾を飲み込んでレーシュネの返答を待った。
彼は数秒間をとってから、肘をついて「うむ……」と答えた。
「実は総務省の方から視察団が来るようで、行政庁の方で迎え入れる予定になっている」
「はあ、それで何か問題があったりするんですか?」
「大ありだ。来賓用の菓子を切らしているからな」
「なんだ、そんなことですか」
一気に肩の荷が降りたような感じがする。心配して損した。
レーシュネの「そんなこととは何だ」とでも言いたげな視線がこちらに向けられる。まあ、行政長官になるようなキャリア組は上にどれだけ媚びるかで昇進が決まるようなものだから、必死になるのも分からなくはないが。その程度のことで悩んでいるのは滑稽だ。今前線で戦っている連邦兵が聞けば、怒髪天を衝くといった様相でレーシュネをこの部屋から窓外投擲することだろう。
緊張がほぐれたなりに適当に相手してやればいいだろうと思った。
「料理ならシア……ダルフィーエ監理官が得意だそうですよ」
「ヴィライヤ先生……?」
名前を呼ばれたシアは一瞬「何でこんなことに私を巻き込むんですか」とでも言いたげな表情を見せたが、すぐにいつもの穏やかそうな表情に戻った。そんな少しばかり恐ろしい表裏の入れ替わりを横目にリーナが口の周りにリウスニータの泡を付けながら、レーシュネの方を向く。力強く手を握りしめて自信に満ちた口調で言った。
「シアの作ったの食べ物はおいしい。私が保障する……!」
「ふむ、ダルフィーエ監理官が料理を得意だとは。偶然だが、丁度いい。手伝ってもらうことにしよう」
リーナの言葉を聞いたレーシュネは疑う素振りも見せずそう言い放った。
それを聞いたシアは表面では穏やかな顔をしている。だが、それとは裏腹にメキメキと木の枝のようなものが軋む音が聞こえていた。彼女の手元の鉛筆がどうなっているのかは見なくても分かる。資源は大切に。
そんなに行政庁に関わるのが嫌なのだろうか、と思ったがそれもそうだった。大体の行政機関にとって言語保障監理官は目の敵にされている。そして、キャリア層の人間は彼らをあの手この手で懐柔しようとする傾向がある。シアもそういった扱いを幾度となく受けてきたのだろう。大して好意がないのに媚びへつらうというのはヴェフィス人の一番嫌いそうなところだ。
そんなところを考えていると、シアはリーナを見つめながら呟いた。
「“保障する”なんて単語、いつ覚えさせたんですか?」
「別に覚えさせてはないが、多分、言語“保障”監理官事務所からだろ」
「
だからこそ、リーナの言葉は少し違和感があるものだったが自信に満ちた言葉にレーシュネが異存を述べることは無かったのだ。つくづく、語学は理論を理解することと同時に習得には実践が不可欠であることを思い知らされる。
シアはささくれが飛び出て、曲がった鉛筆をガラステーブルの上においてレーシュネに視線を向けた。
「分かりました。材料などはそちらで用意していただけますか?」
「もちろんだ、もう既に様々な材料を用意してある」
「設備の整ったキッチンはありますよね?」
「行政庁の内部に何故かあるな」
「それってただの給湯室じゃないですか?」
俺が問いかけるとレーシュネは怪訝そうな顔をした。
「ん、料理なんてコンロとやかんがあればどうにかなるんじゃないのか?」
レーシュネの堂々とした言葉にシアの顔が段々と青ざめていく。元々白い肌が更に白く、青くなっていた。今にも倒れそうな顔色のシアは胸の前に手を合わせ、精一杯のスマイルで彼に答えた。
「そ、それではこちらで調理場は用意させていただきます。お任せ下さい」
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