万邦よ、適正たれ(1)
「なんでそう、何もかもが急なのよ……」
私は不機嫌に口を尖らせた。「出陣は明日早朝、もうひと眠りしたらすぐでしょう? 散歩なんかしている場合じゃ……」
「今こそ絶好の散歩日和ですよ。起きている者は明日の準備に忙殺され、寝ている者は出撃に備えてテコでも起きません。俺は神撃集団の武人連中とは別系統だから、動きに制約もない」
「作戦会議ならここでもできるはず」
「……けっこう腕と腿がしんどいもので」
ハイバルの額にほのかな汗が滲んでいるのに気がついた。縄を掴んでいる片腕もぷるぷると震えている。
「別に私としては、あんたがそのまま落死しても困ることはなさそうなのだけど。ここ、割といい部屋だし」
「そんな殺生な……」
彼は束の間笑ったが、すぐに凄むような表情に切り替わった。「いいんですか? 俺が死んだら、近日中に理甲師団は壊滅しますよ。リクラフ様も、連邦の奴隷から
「えらく強気ね。腹立つ」
「じゃあもっと建設的なことを。
「むむ……」
興味がないわけないじゃないか。
そんな私のぐらつきを彼は見逃さなかった。
「散歩が嫌なら、せめて部屋の中に入れて下さい。それも嫌なら、俺は大人しく自分の寝床に戻ります。当面は情報収集で遠出しないといけないから、明日からはしばらく会えそうにもないですね――さて、どうします?」
「……わかったわ、行けばいいんでしょ」
「そうこなくちゃ」
ほんの少し開けた窓から捩じ込まれた黒ローブを投げやりに引っ張り、上から羽織って暖かさにくるまれる。そしてハイバルは私に手を伸ばす。
扱いやすい女だと思われているかも知れないと感じつつ、私は窓を大きく開いて、その手を取った。
「私の立場って一応虜囚なんでしょ。連れ出していいわけ?」
「エリザさんも時々天然ですね――まずいに決まってるでしょ。わざわざ窓の外からやってきた訳を、ちょっとは想像してくださいよ」
馬鹿にされたように返事されて釈然としない。「ちょっと舞いますよ、掴まって」
「は? 舞う? ――うわっ」
いつの間にか私の腰に回された彼の片腕が、ぐっと締まった。私の身体は引きつけられるように窓の外へ躍り出た。
窓の外。四方からの風と浮遊感が私を弄んだ。
眼下には何の足場もなく、下の方には剥き出しの岩肌が広がっている。落ちれば全身の骨肉が砕けるだけでなく、斜面を転がり落ちてリンゴのように擦り下ろされそうだ。
身がすくむのを覚えて慌てて顔を上げる。その肩に両腕を回し、ハイバルの胸に顔を埋め、ぎゅっと眼をつむった。
「掴まりましたね?」
「は、早くっ!」
余裕なく私は叫んだ。「お、落ちる! 早く動いてっ!」
「はいはい。恐がりですねぇ」
ハイバルは城の外壁を少しずつ蹴りながら、縄にぶら下がった自分の身体を振り子のように揺する。最初はふらりと揺れる程度だったのが、何度か加速をつけることで振れ幅は大きくなり始め、そして充分な勢いがついたところでハイバルは外壁を思い切り蹴った。
屋上から垂れた縄がぴんと張って屋根の縁伝いに擦れ動く。棟の裏側へ弧を描くようにして、私たちはアンラウブ城の空を舞った。
ハイバルの片腕が私の腰を掴まえていると言っても、身体の固縛は全く頼りない。四の五の言わず、ただハイバルの胴を全力で抱き締めた。ハイバルの引き締まった身体の感触だけが頼りだったが、理甲と比べると、その身体は脆そうでもあり、そして温かくも感じられた。
宙を舞ったのは恐らく10秒か20秒ほどだった。棟を半周ほど回ったところのちょうど踊り場のような屋根で、ハイバルはロープを緩めるようにして着地。地に足のついた感覚にほっと息をつき、ハイバルの身体からも素早く離れた。はぁ、はぁ、と息が上がっていて、頬が熱もっていた。
棟のてっぺんから垂れるロープの先端に重石代わりの鞄をくくりつけると、彼は「こちらです」と告げて案内を始めた。
その背を追って屋根を行く私の頬を、城の外側に広がるグラン・オーの樹海から吹いてくる寒風が刺してくる。まるで暗闇の向こうから何かに呼ばれているかのようだ。その風は、雲のない夜闇に輝く月と、その光を徹底的に吸い取る樹海の狭間から吹いている。
翻って、城壁を挟んで反対側には中庭が見えている。ほとんど四方を城壁に囲われた区画はさほど広さはなく、またその底に灯る松明も控え目の量であったものの、
すごい数だ。
その
「あのでかいのが気になりますか?」
私が少し興味を持っているのを察したらしい。ハイバルは足を留めて、私と同じように中庭を見下ろした。
「あんなにでかいのは初めて見る。一度だけ戦闘級の
「あれが第1神撃集団の旗像ですよ、つまり
「
「どうかな。最大の戦力とは言えるでしょうが」
ハイバルは肩をすくめて見せた。「あいつはまだ戦場に出たことはなかったはずです。それだけ動かすための信用消費が大きいですから」
「そう言えば、
「それも後で説明しますよ。今夜は暴露大会です」
そこまで言うと、ハイバルは再び前を向いて歩き始めた。
屋根の端にある扉からは再び城内に入る。
階段を下り、廊下を進み、角を曲がり、また階段を下って、廊下を進む。回廊の奥からは兵たちがばたばたと駆け回る音が、まるで遠い日の追憶のようにぼんやりと響いていた。この辺りの通路は誰も通らないようだった。
燭台の灯りも疎らな薄暗い廊下を、ハイバルは確信を持って進んでいく。その途中で、ハイバルはおもむろに廊下の燭台に差されていた小さな手持ち松明を拝借した。やがて、曲がり角のすぐ先にある暗闇の中へ、彼の身体がずぶずぶと沈んでいった。一瞬眼を疑ったが、よく見ればそこにはひっそりとした細い階段があった。
そこを降りた先には、おんぼろの小さな扉が潜んでいる。子どもの秘密基地のような小さな入口を、松明片手のハイバルは長身を畳みながら潜り抜けたので、私も後に続いた。
その扉から先に照明は全くなかった。中の淀み切った空気を無警戒に吸い込んだ時、そのかび臭さに思わず「うっ」と咽せてしまい、羽織ったローブの布地を鼻にあてた。
通路は大人が通るには随分狭く、何の物音も聞こえてこなかった。一本道のようだが、身を屈めながら奥へ、奥へと進んでいく。
どこまで行くのかと音を上げそうになったところで、3歩前のハイバルが片手をすっと挙げ、ようやく止まった。
もぞもぞと方向転換して私の方に向き直り、腰を下ろす。私にも座るよう促すので、ふたりして暗闇の中の手狭な通路に座り込んだ。
「まず、
ハイバルの声が静かに響き、いきなりの本題に私の意識は惹きつけられた。
あるのは松明の橙色の光と燃焼音、そして私たち2人だけ。
「このほど、
それで? とハイバルの顔を伺ったが、彼は『おしまい』とばかりに両手を広げただけだった。
「これが、
それだけ――それだけなのか?
「なんだ。もったいぶっていた割には、単純な計画なのね」
「……問題はここからです。奴らが発掘したのは、相当ろくでもない
松明の光の下で、ハイバルの視線は『甘く見るな』と訴えている。「何でも、太古に封じられた邪神を掘り起こしたみたいですよ。啓霊たちをはずかしめる存在――という、本来的な意味で“悪骸”と呼ばれていたものをね」
「本来的な意味で、ね。ありがたい名称を頂戴した理甲師団も嫌われたものだわ」
ハイバルは私の冗句ににこりともしない。
「――仮にその前評判に偽りがなければ、連邦の理甲師団をもってしても止められない可能性が高い。そんなものを野放図にされては、待っているのは
ハイバルの瞳に、煌めきが宿った。
「その
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