何かが間違っている(4)

 ハイバルは長刀を鞘に収めて、私に右手を差し出した。

「今ので傷が開いたのではないですか? 手当して差し上げます」

「……うるさい」

 ハイバルのその手を、ぱんっとはたいて払いのけた。「手当するぐらいなら斬ればいい。私には蛮教徒カルトに貸してやる手なんかない」

「あなたも強情だなぁ。そんなんじゃ、蛮教徒カルトの連中と変わらないですよ」

 彼はそろそろ愛想を尽かしたかのようなため息をついた。「湯を沸かしますから、しばらく待っていて下さい」

 そう言い残し、壁際の台所へ向かっていく。私のサーベルもその辺りに転がっていたが、彼はそれを部屋の隅に立て掛けて、火を起こし始めた。


 入れ替わりのように、うずくまった私の背中をソフィがさすりに来た。もう短刀はどこかへしまっている。「大丈夫?」と心配げな声を掛けてもくる。

 この怪我さえなければ、何のつもりだと怒鳴っていただろう。でも脇腹の痛みがそれを許さなかったのと、ソフィは本当に心配そうで他意がなさそうでもあった。

「ハイバル、包帯か、きれいな布はある?」

 ソフィは台所に立つ彼の背中に声を掛けた。彼は半分だけ振り向いて、ある棚の方を指差すと、ソフィはトトトとそちらへ駆け寄った。その中に目当ての物は入っていたようで、すぐに巻き布を手にして戻って来た。


 服を脱いで、とソフィが求めた。私は拒絶するつもりで首を振った。他人に見られたくないものが私の皮膚には刻まれている。それでも彼女の小さな手は有無を言わせず、上着の軍装を脱がしにかかった。

 1枚、2枚と上着が剥かれ、肌着だけになった時、脇腹のところが小石ぐらいの大きさに赤く染まっているのが私にも見えた。ソフィはすぐに血濡れの肌着も取り払おうとした。

「ソフィ、いいから。止めて……」と最後の抵抗をしたが、それも空しく彼女は肌着をめくり上げる。

 案の定、そこでソフィは裂けた傷口ではないところを目視したようで、少し固まった。

「これ……火傷?」

 驚いたソフィの声に、ぴくりとハイバルの耳が動いたようにも見えた。

 見られる前に、ソフィの手から肌着を強く引っ張り、傷口ごとその眼から隠した。

 彼女も、私が嫌がったものは何かを察したようだった。


「……ごめんなさい、傷口だけ見せて」

 ソフィはそう言って今度は血の滲んだ包帯だけを見つめて、ゆっくりとそれを外し始めた。傷口に直接接着する最後のひと巻きを外す時、かさぶたもろとも剥がされて悲鳴を堪え切れなかった。

 そこからの手当は慣れたものだった。ハイバルが一度煮沸させたらしいぬるま湯を持ってくると、それを使ってソフィが傷口を入念に洗い流す。その行為の裏側にどれほどの思いやりがあろうとも、涙が出るほどの激痛は変わらないだろう。それが済むと、真っ新の布に少しの蜂蜜をつけて傷口にあてた。その上から新しい包帯を巻きつけて、彼らの処置は終わった。


「ここを茶飲み場にしていてよかった」

 一息ついたハイバルがソフィに微笑んだ。蜂蜜がたまたまあったことを言っているのだと思われた。

 そして壁際にある綿の詰まったソファに寝かされる。ソフィは枕元に付き添うように、私の頭のすぐ傍に腰を下ろした。手当を受けたという安心感、そしてひとまず横になれた安楽感からか、傷口の痛みも少しずつ和らいでいくようだった。

 安心感、だなんて……ついさっきまでこの場で繰り広げられたやり取りを思い出せば、全く似つかわしくない。

 私に一度刃を突きつけたはずのソフィとハイバルの2人は、何も言わず、またそうする必要もないような自然な佇まいで、私が落ち着くのを静かに待っていた。


「――エリザさん、落ち着きましたか?」

 やがてハイバルが穏やかに口を開いた。「せっかく茶葉の余りがありますから、1杯飲みましょう。気が和らぎますよ」

 ハイバルは再び台所の方へ立ち、さっき沸かしていた湯の一部を使って茶を淹れ始めた。

 彼が淹れ終わると、ソフィが私の分のカップを運んで来てくれた。じっくりと味わう余裕まではなかったが、乾いた口に茶の香味がしっとりと広がり、潤すのを感じた。



 充分な沈黙を挟んでから、ハイバルはにわかに本題へ舞い戻った。

「それでは、あなたに協力頂きたい事項を説明しましょう」

 とろんとしかけた意識を再び叩き起こし、「協力するなんて一言も言ってない」と言い返した。

「あなたの意思は聞いていません。あなたが“協力しない”という選択を取ることはありえない」

 理由不明の決めつけを言い放った後、ハイバルは温めていたらしい作戦を打ち明け始めた。「――明日、ソフィはリクラフ様の能力を解放するために師団本部へ出頭を命じられたそうですね。エリザさんにはそこへ同行して頂きたい。それから、ソフィとリクラフ様が確実に引き合わされるよう、取り計らって頂けませんか?」


 ソフィとリクラフを引き合わせる――ハイバルたちがそれを狙っていることは、ある程度予測はついていた。

 問題は、その先だ。

「――リクラフで何をするつもりだ?」

 私はハイバルの微笑を叩き割りたい気持ちで睨む。「それとも、こう訊いた方がいいか? ソフィに何をさせる気だ?」

 束の間、ハイバルは不思議そうな表情をしたが、やがてふっと笑みをこぼした。

「ま、当座の目標ぐらいはお話してもいいでしょう。俺たちは連邦の手からリクラフ様を救出したい。放っておけば処分されてしまいますから。しかし、当然連邦軍はそんな狼藉など許さないでしょう。だからリクラフ様を確保次第、速やかにこの国を脱出する必要がある」

「――お前、わかっているのか? リクラフは既にだ、もうソフィが親しんだじゃない」

 私は頑として主張する。「理甲を動かすには理官の指示が必要で、今のソフィにその資格はないわ。ソフィだけじゃなく、掌握できないままの理甲まで連れて、アリゴラのど真ん中から脱出だなんてできるわけがない」

「どうしても理官が要るというなら、頭数の上ではあなたがいるわけですが」

「私は、断じて貴様に協力するつもりなどない!」

 少し声を張ったせいで脇腹にぴりっと痛みが走った。「協力をさせる前提だったのならあいにくだな。口封じをしたいならここで私を殺すしかないぞ、ハイバル」


 今死なれては困る、とハイバルの言ったことが嘘でないとすれば、殺してみろよと言い放つことはこれ以上ない挑発だ。

 もちろん、本当に殺されたいわけではないけれど、私の身に何かあれば遅かれ早かれ師団本部も気づく。私が今どこに来て、何者と会っているかは既に軍病院のあの恐妻家の助手に託したメモにも書き留めてある。

 といって、このまま見逃されたとしても、私は翌朝早々に一部始終をたれ込むつもりだ。どちらにせよ、追手の差し向けられるタイミングがほんの少し変わるだけ。抜き差しならない立場にあるのは、私よりもむしろハイバルであるはずだった。


「――エリザさんのお立場は理解していますよ」

 予想に反して、彼は特に深刻に受け止めようとする素振りは見せなかった。「でもエリザさんが協力しようがしまいが、これだけは確実なはずだ。リクラフ様をお縛りする制約を解除するには、ソフィによるリクラフ様との直接の交信が必要です。つまり、。そしてその瞬間、。――違いますか?」

 違わないはずだった。一般論としては。

 だが、その認識の正誤などどちらでもいい。私はハイバルの企みのろくでもなさに、頭に血が上るのを感じた。

「ソフィに、そんな危ないことをさせるなんて……」

 奥歯をぎりりと噛む。「理甲の“暴走”による責は、理動した本人が負うことになる。ソフィにリクラフを握らせてアリゴラの脱出なんてしようものなら、そんな挙動を見せた時点でまずソフィが殺されるのだぞ……」


 心の中なら、どこまでも自由だ。心の中なら、にっくき相手をくびり殺してもいいし、騙して損失を与えてもいいし、他人の伴侶を寝取って不貞にふけってもいい。それを口に出すか、実行に移した時に初めて審判が下る。

 嗚呼、素晴らしき内心の自由。しかしその自由こそが、理甲師団として最も心を砕くリスクとなる。

 例えば、ある理官がひとつの理甲を理動させた後、心の中でそっと指示を唱えたとする。果たして彼/彼女が何を指示したのか――例えば「A」と命ずるべきところをこっそり「B」と命じはしなかったか――、その真偽を第三者がする仕組みは、この世のどこにもない。


 全ての加害行為がそうであるように、どれほど厳重な罰則を設けても、どれほど眼の良い邏卒に見張らせていても、まさに加害する瞬間のごく刹那的な局面においては“やったもの勝ち”だ。強大な力を有する理甲なればこそ、そのごく刹那的な局面で速やかに沈黙させなければ、無限大に被害が拡大してしまう。

 だから完全な事前予防は無理であっても、暴走した理甲とそれを許した(あるいは、けしかけた)理官は速やかに封殺されなければならない。もしハイバルが、ソフィを通してリクラフを操るつもりであるとしたら、ハイバル自身はトカゲの尻尾切りのようにとんずらできるかもしれないが、ソフィにはまず無理だ。リクラフともども捕らえられて処刑を待つか、手に余ればそのまま殺される。全く卑劣で破滅的な真似だという他ない。


 私はソフィの表情に目線を移した。こんな風に扱われて、あなたはなぜ怒らないのだ。

 私のすぐ傍に座る彼女は、特に動揺もせず、何かを諦めているわけでもなく、ただ真剣な眼を崩すつもりはなさそうだった。


「エリザさんの仰る通り、我々にとっては非常にスリリング。まさに生きるか死ぬか」

 ハイバルの柔らかな声が響く。「――そして、ソフィがリクラフ様に同調する、その状況は理甲師団もさぞ戦々恐々のことでしょう。一時的とは言え、リクラフ様が理官の統御下から離れるわけですから。ソフィはリクラフ様が“暴走”してしまうかも知れませんし」


 ハイバルの推論はどれも尤もらしい。リクラフに目をつけ、ソフィを取り込んだ狙いも、腹立たしいが理解はできる。

 ただ。

 リクラフに関して、この男はひとつだけ正確な認識を持てていない部分があるらしい。

 それを悟られないよう、私は話題を逸らした。


「――それで、アリゴラを抜け出して、どこへ?」

蛮教徒カルトの故郷、アンラウブ城です」

 この男が蛮教徒カルトならば当然の目的地だが、連邦軍の一兵卒としては受け入れがたい行き先。

 アリゴラより西へ歩くこと20日。大陸西方を覆う大森林地帯の一角に埋もれるように佇むという、ほとんど遺跡も同然の古城アンラウブ。大陸征服戦役終結の2年後――言い換えれば今より3年前、蛮教徒カルトの唐突な奇襲によって守備隊が排除された時から、このぐずぐずの戦乱が始まったのだ。

 そんな連中の総本山とも言うべき場所へ、リクラフを連れて行くのだという。

蛮教徒カルトに、リクラフを『献上』するわけか……」

 私は舌打ちと共に唾棄した。「そんなことに協力なんかしたら、私もソフィも2度と連邦の土を踏めなくなる。貴様は他人に頼んでいいことと悪いことの区別もつかないらしいな」

「その点は何とかしましょう。永久に踏めなくなることのないように、俺が立ち回ります」

 簡単そうに口にするのに呆れて、乾いた笑いが漏れた。

「そんなことができるものか……」

「俺が泥を被ればいいでしょう? エリザさんは私に恫喝され不可抗力で巻き込まれただけの哀れな理官。ソフィも私に利用され不可抗力で巻き込まれただけの哀れな少女。悪いのは全部俺。――それぐらいの泥なら、被ることも全くやぶさかでありません」

 再び、私の口から嘲笑が漏れた。何と言う不愉快な自己犠牲だろう。

「そこまで連邦を敵に回すようなことを企んでいるくせに、蛮教徒カルトのためでもないと言っていたな。お前は、何のためにそんなことをする? 何の益がお前にある?」

「アドボカシー、ですよ」

 ハイバルは凛として言った。「確かにこちらの大陸は戦争の決着として連邦の属領になりましたが、今の体制は何かがおかしい、何かが捻れていると、土着民族の誰もが違和感を抱いている。人として信じるべきもの――例えば、啓霊と呼ばれた存在がこの土着民族の社会から根こそぎ失われた時、俺たちは果たして何を生きる指針とすればいいのでしょうか」

「自分自身の理に従えばいい」

 私は迷わず答えた。「それすら神様にすがらないと考えられないだなんて、私に言わせればただの未熟だ」

「なるほど。連邦の言う、人間の理性なるものを代わりにすればいいと――。しかし、それを強いる連邦のやり方が、土着民族に受け入れられないのはなぜでしょうね。皆が信仰した啓霊という精神的紐帯を強権的に消し去れば、個々人の理性が目覚め自立するはずだ――連邦の方々がなどと呼ぶそんな小理屈は、この大陸の現実を無視した空理空論であり、上から目線の暴論に過ぎませんよ。誰も啓蒙されることなど望んでいない。その違和感、不安、戸惑いが“声”として表明されないのであれば、この世は何も変わらない。変わらない間に失われていき、取り返しのつかなくなるものがあるとすれば、俺も――あるいはソフィも、それを守りたい。それは先ほどソフィが言った通り、連邦か蛮教徒カルトのどちらが正義かといったちっぽけな話じゃないんです」


「……大した正義感をお持ちなことで」

 大層ご立派な心掛けだ。反吐が出そうになるぐらい。「その大掛かりな企てのために、貴様はリクラフを欲するのか?」

「有り体に言えば、そうです。この大陸の諸民族、連邦、蛮教徒カルトを架橋することができ、渦巻く禍根を和らげることができるとすれば、恐らくリクラフ様しかいない。リクラフ様の存在はあの戦役を知る者全てにメッセージを与えます。連邦にさえも、です。それだけの力が備わっているはずなのです」

 そう語るハイバルの表情に浮かぶもの。それはどこまでも純粋に感じられるが故に、刃物のような危うさを漂わせてもいた。


「……狂ってるわ」

 額に浮かんだ脂汗を拭って、私は呟く。「仮にも歴史を学んだのならわかるでしょ。そんな押しつけがましい独りよがりな正しさこそが、いつだって世の中をろくでもない方へ歪めていくのよ。それがなぜわからないの……」

「では、エリザさんは、このまま何もしないことが問題の解決になるとお考えで?」

「さぁね。それ以前に、、と思っているのなら、それは見解の相違ね」


「――今、俺があなたに求めたいのはそんな日和った反論ではなく、協力の約束とその確実な履行です。いかがでしょう、『諾』と言って頂けますか?」

 ハイバルは長掛椅子に横たわる私の正面、卓の縁に腰かけると、腕を組み、足を組んで私を睨みつけた。

 脅しのつもりだろうが、私の答えは決まっている。

「――もちろん、拒否するわ。そんな御託で言いくるめようなんて、見くびらないで欲しいわね」


 するとハイバルは、私の頭の傍に座るソフィに「少し離れて」と頼んだ。

 ソフィは言われた通りに部屋の隅まで、10歩ほどの距離を取ってそこに立った。



 ソフィが充分に離れたのを確認したハイバルは、卓の角からすっと腰を上げ、私の眼のすぐ傍で片膝をつき、その顔を至近に寄せた。

 鼻先がこすれそうなぐらいに近い。そして小窓から射し込む月光を彼は背負う。彼の顔面に貼りついた闇の中で、冷たく煌めいたハイバルの眼光が、囁くような声と共に私に迫った。



「――どうか、そう仰らず。“エリザベート・パストゥーダ”さん」


 

 その一言に、私は凍りついた。

 千の高説、万の刃を浴びせられるよりも、私の心はすくみ上がる。


 この男が知っているはずのないもの。

 いや、この男に限らず、誰にも知られてはいけないはずのもの。

 それが、ハイバルの口からぽろりと転げ落ちた。


 脇腹の痛みなど、塵のように吹き飛んだ。


「……お前……今、なんて……?」

「もう一度、言いましょうか? “エリザベート・パストゥーダ”」

 噛んで含めるように、ハイバルは再生した。「アリゴレツカ王朝において最高位神官である最高司聖を多数輩出した、最も格式高い高位神官パストゥーダ家。現当主ラインエル・パストゥーダのひとり娘――あなたの本名を申し上げたのですよ。それともこう言った方がよろしいですか? ――さん」


 私の隠し続けて来た秘密を、声としてハイバルは変換した。

 それは底震えするように、この小さな詰所に反響した。


「俺の人違いでしたら、どうぞ否定してみて下さい。いかがですか?」

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