何かが間違っている(5)

 ああ、黙りこくるな、私。

 否定しろ、何でもいいから、否定を――。


 しかし、否定の言葉の前に、頭に溢れるのは疑問の言葉たちだった。


 どうしてその名を知っているのだ。

 どこでその名を知ったのだ。


「……今日まで必死に隠していたようですね」

 ハイバルの静かで小さな声が、追い打ちのように私の耳朶を打つ。「でも、あなたは案外脇が甘いようだ。ノコノコとたったひとりでこの場に出て来る、勝気で向こう見ずな性格もそう。徹底的に隠し通せばよいものを、下手に手柄なんか立てて目立つから俺なんかに尻尾を掴まれるんですよ」

「――貴様」

 私はソファから跳ね上がり、ハイバルの首元に掴みかかった。

「エリザ、止めて」とソフィが慌ててふためいたが、もう遅い。

 再び腹部に走る痛み。そんなものよりも焦燥が沸騰している。力を振り絞ってでも、この男を殺さなければ。

 だが、私の眼前のハイバルの姿が不意に消え、視界の上下がぐるりと回転。宙に浮いた身体は背中から木の床に叩き伏せられ、背面を襲った衝撃に呻きが漏れた。

 ハイバルは、掴みかかった私を難なく転倒させてしまった。仰向けにひっくり返った私の頭のすぐ傍で彼は片膝を着き、その片手で私の首元を軽く締め上げる。その手は大きく、力強い。


 鏡のような水面に、突然ひとつの球が落ちたように、私はハイバルの不敵な態度の理由を理解した。

 こいつは最初から、私の素性と、抱えた業とを掴んでいたのだ。

 どうして? どうやって? それはわからない、わからないが――。


 こうなることを、私の周りにいた大人たちは何よりも恐れていた。アリゴレツカの神灯――この資源が良からぬ企みの標的にされ、脅しや取引の餌食にされてしまうことを。

 だから、私はアリゴレツカを放逐されたんだ。

 だから、私は血反吐を吐く思いをしながらも、アリゴレツカから最も縁遠いはずの場所――連邦軍理甲師団へ入隊を志したんだ。

 それが崩れた――私の人生を掛けた秘匿、それが全部崩れた。


 ソフィが駆け寄ろうとしているのが視界の端に見えたが、ハイバルは首だけで振り返り、「ソフィ、そこにいて。この人に乱暴はしないから」と依頼した。

 組み合う私とハイバル、そこからソフィは離れたままの位置関係で、ハイバルは一段と私の耳元に顔を寄せた。


「……今なら、恐らく俺だけがこのことを知っています。このことはソフィにだって伝えていませんよ? しかし、それが事実である以上は、いつ・誰に打ち明けるかは俺の胸三寸で決まることだと、その頭に刻みつけて頂きたい。いいですね?」

「貴様、何が目的だ……」

「――いずれにせよ、」

 私の唸りなど聞こえないかのように、ハイバルは一方的に話を続ける。「連邦軍最高戦力の理甲師団に属する麗しき気鋭の理官が、アリゴレツカの神灯を秘匿する逃亡者――さもなくば獅子身中の虫だったなんてたれこまれるのは、誰にとっても不幸なことです」

 ハイバルの声は、次作の構想を沈思する画家が漏らす独り言のように静かで。そのか細い声量は、到底ソフィには聞こえないだろう。

 私にだけ語られるハイバルの言葉。なぜ彼はソフィに対しても隠すのだろう、その理由はわからない。

「……このことが明るみに出た場合、何が起こるか。エリザさんにも大方の予想はつくでしょう? 連邦の内側では、あなたの身柄を巡って連邦軍、政府、理甲師団の3者で駆け引きが始まる。理甲師団の仲間意識メンバーシップは強固ですから、あなたを庇う者もいるかもしれない。しかし、理甲師団は連邦の鼻つまみ者――そう言って憚らない連中が少なからず存在することはご存知ですよね。垢抜けない平民出身の師団長に率いられた、たかだか創立2、30年の新造兵科が、今やパングラフト連邦と言う巨像の軍略の中枢を牛耳り、貴重な理幣をどか食いしている状況がおもしろくないからです。理甲師団の汚点を探す者は多く、そんな連中にとってエリザさんの存在は恰好の玩具でしょうね。それでなくとも昨今の極度の理幣不足の中で、政府側はあなたを拘束し、神灯を吐き出させようともするはずだ。エリザさんの抱える神灯がどれほどの量かは俺も知りませんがね」

 その可能性は私にも容易に想像ができる。確かなのは、私もそうだし、連邦だってろくでもないことになるということだ。唇を噛む。「それに、あなただけじゃない、連邦に嘘をついた旧アリゴレツカの連中にも火の粉はかかる」

 旧アリゴレツカの連中――

 連邦軍への全面降伏に際して、供出を求められた神灯の存在を有耶無耶にしたにも関わらず、『実は隠していました』と判明してしまった連中のことだ。

「旧アリゴレツカ指導者層が声高に望む『護神賢政』――進駐軍本部による軍政の終焉と、啓霊信仰の保護を主眼とした自治権付与の件は、当然ながら白紙撤回されるでしょう。その運動の中心人物こそ、何を隠そうあなたの御父上、ラインエル・パストゥーダであるから。彼らに連なる人脈には陰に日向に粛清の嵐が吹く。さらに、蛮教徒カルトを始めとする連邦内外の不穏分子が、神灯の秘密を抱えたあなたのことを全力で狙う。アリゴレツカの神灯は、誰にとっても喉から手が出るほど押さえたい有限資源です。連邦も蛮教徒カルトもなく、あらゆる勢力があなたのことを狙うでしょうね」

「神灯は、アリゴレツカ降伏時に『連邦にとっての信用源としては使えない』との判断が下されたはずだ……」

「それもね、信用源として使える手順がわからなかった、というだけでしょう」

 事もなげにハイバルは反駁する。強がる私の意思を挫くには、充分な冷酷さだった。「確かに、アリゴラ大神殿の祭壇で長い歳月を燃えていたあの由緒ある神灯は、何の変哲もないただの火に過ぎなかった――というのが、当時の連邦軍の下した結論でした。『そんなわけがない』と疑う者もいたと聞きます。ただのハッタリで何百年以上も国がもつわけがない、と。だが、アリゴレツカの指導者層はついぞ誰も神灯の正体を白状せず、何の手がかりも掴めないまま連邦は諦めたのです。しかし、本当に信用源として機能してきたのなら、神灯が単なる火なわけがない。何らかの処理か、手順か、祭儀があったはずです。――恐らくあなたなら、その訳を知っているのでしょうね、エリザさん」

 下手な言い逃れは無意味だと感じてしまうぐらいに、ハイバルは事情に通じている。まるで見てきたように語る口ぶり。間諜というものは皆ここまで情報を集めるというのか。

「私をどうするつもり……」

「どうするも何も」

 彼の手がようやく私の喉元から離れた。そして静かにその場で立ち上がった彼は、再びソフィにも聞こえる程度の声量で話し始める。「俺からエリザさんに求めたいのは、生きて下さい、ということぐらいです。ただし、しばらくは俺の言うことを聞きながら」

 ハイバルの答えは明快だったが、それゆえにどう捉えるべきがが難しい。

 場違いなぐらい純粋な響きを持つ言葉。まるで愛の告白のようですら。「あなたが俺の言うことを聞いてくれる限り、俺はあなたを守りましょう。ソフィのこともそう。これは約束します。俺とあなたとの約束です。約束を果たせなかった時は、甘んじて罰を受けましょう」

「守る、って……」

 姫様に見惚れた青年騎士じゃあるまいし。ここまでにどんな経緯と状況があったか。「人を恫喝しておきながら、よくもそんなことを」

「恫喝、ですか……そう受け取られるのは本意ではありません。一応言っておきましょう」

 彼は軽くため息をついた。「俺は、あなたの出自を言いふらすことは望んでいないし、そんなことには興味もない」

「それをどうやって信じろと」

「簡単な話です、俺にメリットがない。あなたの人生が破滅し、この大陸が大混乱に突き落とされたところで、俺とソフィの目的は何ら達成されないんですよ。しかし、俺には直接の利害がないからこそ、そのカードを切ることも容易だということはお忘れなきよう。あなたが真の愛国者であるなら……いえ、これからも“真の愛国者”という仮面を被り続け、名もなき理官のひとりとして、連邦という巨大な獅子の中に埋もれていたいと願うのなら、明日はソフィと共にリクラフ様を理動して下さい。お互い、きっと過酷な1日になりますよ。わかりましたね?」


 そして、この絶望的な会話の終わりに、ハイバルが告げた一言は、深い森の中から突如現れた人喰い虎のように、私の脳内に反響した。


 賢明な答えを期待していますよ、エリザさん。



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