ソフィ(1)
私がこてんぱんにやられたあの夜からは一ヶ月が経っていた。
その一カ月の間に、私は前線の野戦病院からここアリゴラの軍病院に移ってきた。それだけ安静にしていれば、私の身体は松葉杖があればどうにか自力で移動が出来る程度には恢復し、病院からはようやく散歩程度の外出が許可された。
私は早速、(気持ちだけは)踊るように嬉々として、杖をつきながらも軍病院を抜け出した。
密度高くほとんど均質な色と大きさの石が均して敷き詰められた街道は、車輪には優しくても、松葉杖をついて歩く身には硬さと凹凸が辛い。とは言え、老紳士から若い商人まで多くの人々と馬車が行き交い、活気に溢れている。街道沿いの中心街は石造りの建築物が立ち並び、その色彩はまるで1頭の白馬のように乳白色で統一されている。
ひとつ、未だに私が見慣れないのは、街のあちこちの建築・建設の現場に
このアリゴラという街は、かつて“アリゴレツカ”と呼ばれた大陸一の強国の都だった。今も昔も「光の都」と賛美されるに相応しい美しい街。
連邦軍の征服という憂き目に遭ってなおこの街が壮観を保っているのは、アリゴレツカが早期全面降伏の決断を下したおかげだ。
大陸で最も勢力を誇り、土着民族の同盟“連帯神団”の盟主格であった国が、侵略者に対していの一番に降伏した――その決断の是非は、今なお論争の種だ。
果たして、破滅的な殺戮を回避した英断か。それとも、誇りも気概もなく膝を屈した売国行為か。その是非はさておくとしても、この美しい「光の都」アリゴラが焼けずに済んだことぐらいでは、ハッピーになれない人がこの大陸には大勢いるのだ。
そういう事情は承知しているが、私はこのアリゴラで生まれ、幼少期を過ごした。そんな人間としては、生まれ故郷が瓦礫と化さずに済んだ決断を責める気持ちにはなれないものだ。
街道の隅っこを亀のように進みながら、私が最初に向かった行き先は連邦図書館だった。同僚から何度「お前、そんな柄か?」とからかわれようと、こう見えて図書館が好きなのだ。
軍病院から中央街道を3区画も北上すれば、だだっ広い広場の奥に、一際巨大で重厚な建築物が現れる。街の一番中心にある大神殿に比べるとさすがに少し小さいが、あれだけ大きくて巨人の太ももみたいな柱に何本も支えられた建物は珍しい。
遊んだり休んだり待ち合わせたりする老若男女で賑わう広場をゆっくり横断して、私は建物正門をくぐった。
受付では簡単な記名と証明確認を経て、すんなりと入館を許された。昔は手続きももう少し面倒だったが、連邦の統治下になって便利になったと感じることのひとつだ。
早速進入した広間中央は、貴重な色ガラス越しに天窓から差し込む光に照らされている。その光が、壁という壁に書籍がぎっしり並んでいる光景を照らし出す。こうして眼に見える開架分も、館内蔵書の中のごく一部に過ぎないと言うのだから恐れ入る。
松葉杖をつきながら、よたよたと適当な棚の前まで進んで、無数の背表紙を吟味する。
この瞬間だけでも私にとっては楽しい体験だ。この国にどんな本が存在するのか。一体、どんな物事について、本として残されるほどの価値が認められているのか。世界に自分の知らないことがいくらでもあること、そしてそれを知る手がかりが集積していて、自分の意思で手を伸ばしさえすれば知ることができる。
少なくともその可能性が約束され、保障されている。それがこの図書館という場所だった。
本そのものと言うよりも、そのこと自体が大らかで勇敢で美しいとさえ思う。ここは、本当の意味で私たちが最も自由になれるはずの空間なのだ。
「――何かお探しですか?」
隣の方から優しい声がした。それは乾いたタオルにきれいな水を垂らしたように、私の耳にしっかりと浸透した。むさ苦しい軍ではまず聞くことのないほどの柔らかな発音だった。
そちらを見ると、小柄で品の良いお嬢さんが私を見ていた。
私の胸ぐらいまでしかない背丈に、肩の上で小鳥が踊っているようにくるくるしたブラウンの癖っ毛。でも、全然汚れのない白いブラウスにさほど膨らみのないシンプルな桜色の長スカート。服装はどちらかと言えば庶民風だが、庶民にしては特有の煤けたような雰囲気が全くない。
本当に私に声を掛けたのかな、と思うほど、私とは住む世界がまるで違いそうな娘。
「私?」と自分を指差して尋ねると、彼女は頷いた。
私に話しかけるなんて、酔狂な娘さんだと思う。
私が血生臭い軍人だと知っているのだろうか。
「……ああ、探し物をしているわけではありませんよ」
「そうなのですか。もしそうならお手伝いしようと思ったんです。失礼しました」
「いえいえ、ご親切にどうも」
「……随分ひどいお怪我をなさっているのですね」
神妙な面持ちでお嬢さんは私の脇腹と左腕を見つめた。そこは今も包帯が巻き付けてあるので、外見的にも目立つ。
「はは、お見苦しくてすみません。でも、もう治りかけです」
「一体何をされてこんなお怪我を……」
そこまで言ってお嬢さんははっとしたように口元を手で押さえた。「……すみません、立ち入ったことですね」
「構いませんよ」
いろいろ突っ込んでくるなぁと思わなくもなかったが、ひと月も床に臥せていたので、話し相手には飢えている。お節介さんに乗ってやるのも、たまには悪くない。「西方の戦線にいたんです。先月まで」
「軍人さんなんですか?」
「そんなところですね」
「――もしかして、理官の方でしょうか?」
「へぇ……」
当てずっぽうだろうか?
だとしても、察しのいい娘さんらしい。「どうしてそう思われました?」
「そんなにお若い女性の方なのに、軍人さんで。しかも、それだけのお怪我をされるのなら、きっと最前線にいらっしゃったはず――そう考えると、そうなのかなと」
「驚いたな、大正解ですよ」
私は柄にもなく満面の笑顔になってしまうぐらい感心してしまった。「こう言っては失礼ですが、お見かけによらず軍のことをよくご存知なんですね」
男だらけの軍隊の中で、女が兵士として所属できる部隊と言えば、うちの理甲師団ぐらいのものだ。
まぁ、眼を皿にして探せば、もしかするとお家の事情だか本人の趣味だかでまかり間違って軍人をしている女傑はいるかも知れないが、そんなのはあくまで特殊事例。若干とは言え理甲師団の女性比率が高いのは、徴募兵主体の連邦軍の中でもここに関しては志願制であり、能力と根性さえあれば女性も拒まれないから。歩兵や騎兵などに比べれば、理官にはそこまで単純な筋力が重視されないこともある。
そんなことは軍の中に身を置いていれば共通認識として持てることとは言え、軍に縁のない娘さんが知っているにはマニアックな情報だ。
「言い当てられてしまったので自己紹介しますね。私は連邦軍 理甲師団 第2分隊所属 エリザ・ウィルダです。階級は中級理官。こんなボロボロの有様で格好がつかず、お恥ずかしい限りですが」
脇下を松葉杖に預けながら、握手のために片手を差し出した。
お嬢さんは嬉しそうに私の手を握って、自分の名を述べた。
「私、ソフィと言います。理官の方にお会い出来るなんて嬉しいです、とても」
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