ユリスキアの啓霊(2)

 さっきそう言ったわたしを叱ったばかりなのに、先生はほとんど同じことを言った。

 この戦いにもう勝ち目はない、と。

 ほらね、とわたしは思った。頼みのリクラフの片手もつぶされてしまったもの。


「テグサ先生、それじゃあ早く降伏しましょう。降伏したら、もうみんな苦しまなくてすむでしょう?」

「誰も苦しまない、ですか」

 テグサ先生は深いため息をついた。こっちが不安になるぐらい、深く。「……ソフィ様、それは不可能です。事ここに至っては、戦っても降伏しても、苦しみの中身が少し変わるだけのことです。まことに遺憾ながら、ソフィ様もリクラフ様も含めて」


 それを聞いて、わたしは目の前が遠くなるのを感じた。

 今まで先生が間違ったことを言うなんてほとんどなかった。だから、先生がそう言うのならそうなんだ。


 しっかり立っていたつもりが、気づけばへなへなと足の力が抜けて、その場に尻もちをついていた。

「先生、何か方法があるはず……武器を捨てて、皆で謝れば……」

「謝る……?」

 テグサ先生は顔を上げて、わたしの眼を真っすぐに見つめた。「ソフィ様、我々は何に対し、何について謝るべきだと思われるのですか?」

 わたしを叱る時、教える時、褒める時、いつもそうしてくれたみたいに、わたしに逃げようがないぐらい真っすぐに。

 そして、そのひどく赤黒くなった顔で、振り絞るように言葉を押し出した。


「謝るというなら、我々を『未開部族』などと蔑み、力にものを言わせて一方的にこの大陸へ侵攻してきた連邦軍こそ、我々に謝るべきです」

 先生は、一息をついた。

「そして、リクラフ様の御加護の下、日々の命に感謝し平穏に暮らしていただけの我々を戦場へ駆り出し――そればかりか、グランカゼル会戦で鼻っ面を折られるやあっさりと降伏した連帯神団の盟主アリゴレツカこそ、我々に謝るべきです。さらに、軍装を解いて故郷へ撤退しようとした我々を恫喝し、大義なき無謀な反抗に巻き込んだ隣州クオールの兵団こそ、我々に謝るべきです」

 先生は、拳をぶるぶると握りしめた。

「――『戦わなければならないから、戦わなければならない』。詰まるところその程度の同義反復トートロジーの下に、戦う理由などなかった我々を戦場に引きずり出した、あらゆる人々が、まずは我々に謝るべきなのが道理です」


 仲間のはずの国々の名前がいくつも出てきたけれど、先生はとても腹を立てていた。

 仲間の国なのに、どうして先生が腹を立てるのか、どうしてわたしたちに謝らないといけないのかがわたしにはよくわからなかった。


「――じゃあ、それを連邦軍に説明したら、わかってくれないの? わたしたちはただ巻き込まれただけで、味方のはずのいやな人たちに利用されただけだって。先生はいつも正しいことを言うから、向こうの人もきっとわかってくれるんじゃ……」

「わかってくれないでしょう」

 先生はその泥だらけの右手で、わたしの肩をしっかりと掴んだ。

「この争いで私たちはひどく傷つきましたが、それと同様に、私たちも既に大勢の連邦軍を傷つけてしまっている。互いに身命を賭して殺し合いをしてきたのですからね。悪いことをすれば謝りなさいと貴方に教えたのは私ですが、しかし、互いに数多の怨嗟を抱えてしまった今となっては、その場しのぎの謝罪が成せることなどありません」

「私たちが、そんなに連邦軍を倒していたの?」

「私たちと言うよりも、リクラフ様が、です」

 先生はわたしの後ろに立つリクラフの方を見上げる。「ソフィ様は戦場でのリクラフ様の戦舞をご覧でないでしょうが……」


 そして先生はゆっくりと間をあけながら、私に語りかけた。


――リクラフ様は、蹂躙され続けた連帯神団の誰よりも、いやどの啓霊よりも強くあられた。

 百の悪骸、千の連邦軍将兵を赤子のようにあしらい、矛となり盾となって、寡兵の我が村民をお救いになるお姿は、この私も魂が震えるのを覚えたものです。

 今や連邦軍は、リクラフ様のことを『白銀しろがねの悪霊』と呼んで恐れている。

 あまりにも圧倒的であったから。

 あまりにも歯が立たなかったから。

 あまりにも大勢の連邦軍の悪骸と将兵が殺されてしまったから。


「……つまり、連邦軍から見ればリクラフ様こそが悪霊であり、その陰に隠れて悪あがきを続ける我々は排斥の対象であって、今さら保護の対象にはなり得ない。彼らにただ許してくださいと言ったところで、未来永劫彼らの靴を舐める奴隷となるか、さもなくばなぶり殺されにいくようなものです」


 リクラフが、連邦軍から見れば『悪霊』だなんて呼ばれている? 

 リクラフは啓霊で、敵の悪骸こそ悪霊だとわたしは教わった。

 先生の言っている意味がわからなくて、すぐ傍に立っているリクラフを見上げながら尋ねた。


「悪骸は恐ろしい悪霊で、わたしたちの啓霊をはずかしめる敵だ、ってお父さんが言っていた……それは違うと言うの? どうして連邦軍はリクラフのことを悪霊だなんて……」

 リクラフは何も言わなかった。ただじっと、いつもの表情でそこに立っているだけ。

 わたしの質問に答えてくれたのは、やっぱりテグサ先生だった。

「ソフィ様、『悪骸』と『啓霊』とは、ただ我々連帯神団の中での呼び方がそうである、というだけのことです。例えば、連邦軍の兵士と連帯神団の兵士は、肌や眼の色が多少違うぐらいで同じ人間同士でしょう? 悪骸と啓霊もそう、生まれた大陸が違う以外は本質的に同じご種族です。本質的に同じものに境目を設けて呼び分けようとするのは、ただ単にこの戦争のため、戦いの相手を憎み戦う理由を正当化するためのプロパガンダに過ぎません。連邦軍の方では、我々が『啓霊』『悪骸』と呼ぶものは全て“伴侶亜人類プロクシーズ”などという冒涜的な呼び名で一緒くたにされているようですが……それはともかく、連帯神団は悪骸を操る連邦軍を『外道』と蔑みましたが、それを言うなら啓霊にすがって戦う我々連帯神団も外道です」


 だんだん、わたしはわけがわからなくなってきた。

 悪骸と啓霊が同じ? “伴侶亜人類プロクシーズ”? わたしたちのリクラフも、あの野蛮な悪骸たちと同じということ?


「でも先生……、元はと言えば、連邦軍が悪骸なんかを使って攻めてきたのが悪いのでしょう? わたしたちが、わたしたちの神様にすがって、悪いひとや悪霊たちに立ち向かうことの、何がいけないの?」

「そこです、ソフィ様」

 どうやらわたしは正解に近いことを言い当てたらしい。

 いつものテグサ先生なら「いい質問だね」と頭を撫でてくれて、わたしはとても嬉しくなるはずだけど。

 先生はにこりともしないで、かえって悲しそうな顔をした。

「……争いが始まってすぐに、連邦軍の繰り出す悪骸にはとても敵わない、このままでは連帯神団の兵士が為すすべもなく死ぬだけだとわかりました。そこで大陸諸州の連合軍である連帯神団は、各自の守護神たる啓霊を戦場に担ぎ出すことに決めた――」

「わたしたちユリスキアの場合は、それがリクラフだったのね……」

「そうです。この戦争に勝つという、ただその視点だけに立つならば、その判断は間違いではありません。いや、そうするしかなかった」

「でもそれは間違いだったと、先生は思っているの……?」

 テグサ先生はほんの少し頷いた。

「リクラフ様がこれほどのお力を発揮なされるのは、我々の代々のご先祖がリクラフ様に捧げた祈りと奉献の重畳たる蓄積ゆえです。それこそ我がユリスキアという村の歴史であり、魂そのものでした。しかし、そのような大事な資産を、目先の勝利と命欲しさに湯水の如くつぎこんでしまった。本来なら我々が血を流してでも自力で対処すべき問題を、全てリクラフ様に肩代わりさせることを選んでしまったのです。それは私も含む我々村の大人たちが犯してしまった、重大な罪なのです。例えこの戦争に我々が勝ったとしても、我々は後悔したでしょう。そうまでして生きたかったのかと思ったでしょう。そうまでしたのに敗戦するのなら、それはなおさら――」


 先生の肩がわなわなと震えているのがわかった。

 どうしたのだろうと思ったら、先生は泣いていた。こんなに大きい大人が、こんなに情けなくぼろぼろとなみだを流すのを、わたしは初めて見たかも知れなかった。


 リクラフはわたしの傍に立って、じっとなみだの止まらないテグサ先生を見下ろしていた。

 先生が泣くだけの、静かな時間が少し流れたけれど、なみだを拭いて、先生は言った。


「ソフィ様はまだ12歳。今は呑み込めないことがたくさんあるでしょうが、私が教えられるのはここまでです。これからはソフィ様自身がリクラフ様を支え、信仰し、お守りするのです。それが我々ユリスキアの村の、首長としての務めです。酷なことを申しますが、あなたひとりでもリクラフ様と共に生き延び、塵を集めて山を成すように、途方もない信仰を重ねていくのです」

「先生? 教えるのはここまで、ってどういう……?」

「ソフィ様。今ここで、リクラフ様にお伝え頂きたい言葉があります」

「今ここで?」

 早く、わたしの言った通りに! と強く急かされた。

 テグサ先生が耳打ちした言葉を、わたしは言われた通りに両手を合わせてリクラフにお願いした。

 先生がリクラフに伝えなさいといったことは、2つあった。



『テグサ先生がこれから行うことについて、絶対に止めたり、誰かに喋ったりしてはだめ。それから……』



 びりびりと、地震みたいに心の奥底が震える。肌が逆立って、鳥肌がぶわっと立つ。

 リクラフは、その両眼を閉じた。すると、もう一度わたしの心の奥底が震えた。


「先生、伝わりました」とわたしはいつも通りに振り返って報告した。

 すると先生は、小さく「御免」と呟いたかと思うと、突然その太い腕でわたしをがっしり捕まえて、腰元から取り出した紐でわたしの身体を縛り始めた。


「テグサ先生、何を」


 そう言う間もなく、わたしの口を布で縛り付け、さらに顔にも麻袋のようなものをかぶせられた。必死で抵抗したけれど、大人の力には叶わなかった。

 やがて何かに頭の後ろを強くなぐられたところで、わたしは気を失った。

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