第4章

砂の上で、星の下で(1)


 この5日間を振り返れば、アリゴラからの逃亡は事前に練られていたらしい手筈に沿って進んだ。

 甲渠から逃げ出した私たちは、その日の内にアリゴラ西側の山中にぽつんと佇む荒屋に立ち寄った。そこには衣服を含む旅道具があらかじめ用意されていた。私の身体を縛る縄もそこであっさり外されたが、逃げようという気力が湧かないばかりか、行き先さえも思い浮かばなかった。そんな私に渡されたのは、手足の先まですっぽり覆う枯草色の厚手のローブ。加えて、肩から上の肌について日射と雨露を避けるための頭巾も被る。一口で言って隊商のような恰好だが、すっかり空冷された身体にはありがたい暖かさだった。

 着替えをして身支度を済ませたら、再びリクラフに掴まるよう指示されて出発。

 夜中になる頃には山を越え、街道からも外れた荒野を西進した。仮眠を挟んで、あくる日もひたすらリクラフ任せで無人の荒野を突き進み、夕刻になってようやく小さな宿場町が見えてきた。後でわかったことだが、アリゴラからここまで歩けば3、4日はかかるものを、リクラフはいなごのように跳ね続けて丸1日で走破していた。


 その宿場町で、ハイバルはとある隊商と話を付けてきた。今夜はこの町に泊まり、明日からは彼らと行動を共にする旨を私たちに告げた。

「ずっとリクラフに捕まって跳んでいけば早いのに」と不思議がるソフィに、ハイバルが優しく諭す。

「ぴょんぴょん跳ぶのは目立ちますし、あんまり啓霊さんのご厚意に甘えるのもよくありません。今は一時的にソフィのお願いを聞いてくれているだけで、信用は無尽蔵ではないでしょう?」

「そうだけど……」

「充分お力はお借りできましたから、ここからは自分の足で進みましょう」

 ハイバルの言う通り。貴重な理甲をあんな贅沢な――移動の足のためだけに丸一日使役するなんて使い方、うちの師団の誰も思いつかない。


 次の朝、つまり逃亡3日目からは隊商の連中に混ざって、私たち3人も馬にまたがって西を目指した。

 隊商を率いる隊長はまだ30半ばのようだが、がっちりと逞しい体格に爽やかな男だった。ハイバルとの親しげなやり取りを傍で聞いていると、どうやらかつて彼が商人をしていた頃の兄貴分だとわかった。

 隊商は7人ほどの集まりで、少年もいれば比較的高齢の者もいる。男だらけの連中の中へ私とソフィがいきなり放り込まれたわけだが、これがなかなか気の良い連中で、ソフィはあっという間に心を許して打ち解けてしまった。

 私はと言えば、屈託なく打ち解ける気分にもなれず、和やかな輪からは少し外れて、ひとりで荒野ばかりを眺めていた。


 そうして陽が昇れば進み、計画的に休憩を取り、陽が沈めば野営して、火を囲んで食を共にした。

 たまに連邦軍の捜索隊がやってきて、私たち3人とリクラフの行方を尋ねてきたが、そんな時には荷馬車に隠れたり、隊員の嫁や娘を装ったり、隊長の機転と口車で難なくやり過ごした。

 そんなこんなで荒野を行く旅は、どうしてこんな羽目になったのかを忘れるぐらいに牧歌的なものだった。私は遅れないように馬を進ませて、時々隊商の荷物持ちや雑務を分担する他、ほとんど何もしなくてよかった。判断、覚悟、責任――それらを肩代わりしてくれる人がいて、ただぼんやりすることが許される環境。軍に入るずっと前、まだお父さんやお母さんに甘えていた頃にも似て、ひどく懐かしく、心地がよい時間だった。

 ちなみに、この間リクラフは布でぐるぐるに包まれ、荷物に化けていた。荷馬車の中で他の積荷に紛れて眠りについていたから、その顔を見ずに済んだのも私の精神衛生にはよかったのだろう。


 そうして、今夜は5度目の夜を迎えたというわけだ。



「すっかり魂が抜けてしまっていますね」

 隊商たちの集まりから、ハイバルがひとり抜け出してきて、私に話し掛けた。

 珍しいな、と思った。というのは、アリゴラを脱出して以来、ハイバルが事務的な用件以外で私にだけ話し掛けてきたのは、この5日間でほとんど初めてのことだったから。

 けれど、何を答えるのも億劫だった。彼を一応一瞥したが、私は何も言わない。相手がハイバルだからというわけでもない。相手を気遣ったり、会話を楽しんだりするだけの気力と余裕が枯れてしまっていた。ハイバルには出会った時からつんけんしているのでともかく、隊商の連中にはさぞ人当たりの悪い奴だと思われているに違いない。

 なぜかと言えば、5日間の旅の疲れもあるし、それ以上にまるで裏切り者のように軍から追われてしまった環境の激変を、私の心は未だに受け止め切れていない。とんでもないことになってしまった、という愕然とした気分こそが、今の私の飼い主だった。


「今更言っても何にもならないでしょうが、あなたには申し訳なく思っています」

 ハイバルは私から見て焚火のすぐ向こうに腰を下ろした。

 火の赤い揺らめきに照らされて、その顔が夜闇に浮かぶ。

「……確かに。何にもならないわ」

 ふつり、と弱々しく湧いた感情があったので、私は答えた。「これから私は蛮教徒カルトに突き出されて、どんな目に遭うの?」

「リクラフ様の鍵のようなものとして、あなたの身柄を使わせてもらいます」とハイバルは答えた。「何しろ、あなたはリクラフ様の担当理官だ。蛮教徒カルトにはリクラフ様にやらせたいと思っていることがある。そのためには担当理官という存在を確保することが必要なんです」

「何が何だか知らないけど、もうリクラフは私の言うことなんて聞いてないじゃない。全部ソフィにやってもらえば?」

「いえ、そういうわけには……以前も言った通り、こうなった以上は俺があなたを守ります。ですが、あなたを護るためにも、蛮教徒カルトにとってあなたが庇護される立場である必要があります。ソフィが全部できるなら、いよいよあなたは要らないということになってしまう」

「こうなった以上、って。全部そっちの都合でしょ……」

 乾いた笑いが漏れた。なんで私が要るとか要らないとか、私の外側で話されなきゃならないんだ。「あんたがソフィやリクラフをどうしたいのか知らないけど、もうそんなの、私にはどうでもいい……」


――どうでもいい。


 そう口に出してしまうと、本当に全てがどうでもよく思われて。

 眼の前の焚火、その焔が生まれているところに視線を落とした。集めて組んだいくつもの炭を、煌々とした燃焼が食らい尽くしているのが、妙に眼に焼き付いた。


「……リクラフなんか、さっさと廃甲されてしまえばいい、」

 ほとんど独り言だった。「土着民族の尊厳だとか、啓霊がどうだとか、連邦と蛮教徒カルトの対立がどうとか、勝手にぐずぐず言っていればいい。私は今まで通り戦場に出かけて、仕事をこなして、それさえできればよかった。私の日常も、仲間も、これまで築いたものも、逃げ出してきたあそこにしかなかった。いろいろあったけれど、ようやく掴めた居場所だった。あんたたちが私に関わってさえこなければ、こっちだってあんたたちに干渉したり邪魔するつもりなんかなかったのに。どうして、こんなことに巻き込まれなきゃいけないわけ。私のことなんか触らないでほしかった、揺すらないでほしかった……」

 こんなに女々しい言葉を呟いたのは何時ぶりだろう。自分のことが情けない。

 これまでもいろんなことに耐えてきたつもりだった。それを誰かのせいにしても仕方がないと思っていた。自分だけを見つめて、ひたむきに生きてきたつもりだった。なのに、こんな不条理な目に遭うなんて。報われなさすぎる。

 ぽろぽろと、涙が流れ出してしまった。

 ハイバルの前なのに。こんな奴には見られたくない涙なのに。


 滲んで見えるハイバルが、痛みを覚えたようにその眼を伏せた。


 頼んでもいないのに、私の記憶は5日前の光景を呼び起こす。

 ランドール副官から――つまり、私の居場所であったはずの組織から、リクラフの暴走を抑えなかった咎を受け、私はたちまち捕縛されてしまった。これまで身も心も命も捧げてきた組織から、一瞬で敵視されてしまったのだ。それは雷に打たれたような衝撃だったというか――最も親愛の情を感じていた知人から、いきなり崖下に突き落とされたような絶望だった。

 こうもあっけなく、信用というものは崩れ去ってしまうのか。


 仮に私がここから脱走して連邦軍に助けを求めても、あの責任を問われて裁かれるに決まっている。私が同調していたリクラフは、友軍の理甲を3体も痛めつけ、しかも蛮教徒カルトの手先にみすみす奪われてしまった。

 あの暴走が私の指図であったかどうかは決定的な問題ではない。私の管理下にあったはずの理甲が、第三者の干渉を許して暴走してしまった――その管理責任の問題だった。

 私を待つ結末は、良くて処刑、悪くて惨たらしい処刑だろう。

 もう、理甲師団は既に私にとって居心地のいい場所ではなくなっていた。


「――でも、俺も意志を曲げるわけにはいかなかったんです」

 ハイバルはきっぱりした語調で言った。私に対する申し訳なさはあるものの、それはそれ――とでも言うように。「エリザさんが味わっているその感情は、俺もソフィも少なからず味わっています。その辛さは充分に理解できるつもりです」

「自分たちも辛い想いをしたから、それぐらい許せ、って? 滅茶苦茶だわ……」

「そういうつもりでは……」

 彼はそう言いかけて、焚火の端をぼんやりと見つめた。


 ぱち、ぱち、と炭が弾ける音が響く。

 あははは、と離れたところで隊商たちが談笑する声も、空気に溶けるように響く。

 流れる涙を、私は手の甲で拭った。

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