何かが間違っている(1)
軍病院に戻るなり、例の恐妻家の医療助手を捕まえて、「今夜、夜10時から2時間ほど散歩しようと思うのだけど?」と告げた。
「に、2時間?」
哀れな助手君はわなわなと唇と両膝を震わせた。「ウィルダ中級理官、先日はやむなく協力しましたが、それはいくら何でも……巡回だってごまかさないといけなく……」
「あっそう――今日の明け方でしたっけ、普段お使いでないはずの第3宿直室から、あなたと誰かさんによく似たモノモノしい声を聞いたような――」
「あ、あ、あのですね! 喜んで! 喜んでごまかさせて頂きますから! どうかそれだけは……」
今にも号泣しそうなほど情けない顔をし始めたので、私は涼しく言った。
「そう? 悪いわね。ついでに、もうひとつお願いがあるの」
怯える彼の胸の真ん中に人差し指を突いて、私は彼の顔を蛇のようにじっと見つめる。「もし私がその2時間を超えても一向に帰らなければ、枕の下に端書きを置いておくから、それを必ず明日朝イチで理甲師団大陸司令部まで届けて。わかった?」
助手の彼はぶんぶんと頷いた。「か、帰ってきて下さいね……」
あんまり脅して後ろから刺されても敵わない。彼をいじめるのはこれっきりにしておこう。
そうした茶番を経たら、夜を待って病院を再び抜け出し、月光に照らされる街道を渡って、あの路地に入る。
私自身、この数日の急展開に、頭の整理がついているとは言い難い。
私だってわかっている、ソフィだって被害者なのだということは。
あの戦役があって、あの娘の部族は家族も含めて皆死んだ。故郷に帰ることは許されず、街外れのあんな酷い牢塔に押し込められ、心の拠りどころだったリクラフも連邦軍に召し上げられてしまった。
奪われて、剥がされて、取り上げられて。あまつさえ、かろうじて残ったリクラフと自分の命さえも風前の灯火。それもこれも、運悪くリクラフを奉じた未開部族の酋長の子として生まれてしまったばかりに。
そうでなければ、あの爛漫そうな性格で周囲に愛されながら日射しの下で遊ぶことも、あの聡明な頭脳を活かして勉学に励むことも、あの可憐な容姿に見合った素敵な恋にときめくこともできただろうに。
だが、ソフィが敬愛するそのリクラフこそが、私の恩人を殺めたのも事実。ソフィへの憐憫とリクラフへの憎悪は全くの別問題で、一方によって他方が相殺されるようなものではない。
リクラフに殺された私の恩人たち――その無念と断末魔は、この世で私だけが覚えている。
もし私がリクラフへの怒りを忘れてしまったら、誰が彼らへの鎮魂を担えばいいのか。あの時、情けなくも私だけが生き残ってしまった訳を、私はどんな言葉で正当化すればいいのか。
彼らを忘却すること、そしてリクラフを許容してしまうことは、私の恩人たちをもう一度この手で殺す所業に他ならない。今、私の中にある中で、揺るぎないものがあるとすれば、その感情を置いて他になかった。
昨夜、ハイバルも含めて3人で話した、あの詰所が見えて来た。
あそこでソフィは待っているはずだ。あるいは、あのハイバルという男も。「またお茶が飲みたい」とあの子が言ったのはそういうことだと解釈していた。
今さら私に会ったところで、何をするつもりだろう。私になおもリクラフの廃甲を止めさせるよう泣き落としを仕掛けてくるのか、それとも何らかの実力行使に出てくるのか、予想がつかない。
私は腰元のサーベルの柄を思わず握りしめ、奥歯を噛み締めた。地面を軍靴で蹴りつけるように進む。
なぜ、あの子なんだ。
なぜ、リクラフなんだ。
なぜ、私なんだ。
私とソフィ。リクラフを取り巻く私たちの願いは同時には叶わない。
でも、ソフィに罪があるとは思えない。酋長だったとは言え、戦役時にはたった12歳の少女に、一体何が為し得たというのか。
どうせ周りの大人たちに言われるがまま、そいつらの勝手な都合でリクラフを操らされたに決まっている。
地位ある子どもをかしずく大人は、いつもそうだ。わかった風な口を聞き、自分たちの都合に過ぎないことをもっともらしい言葉で粉飾し、こちらの意思を巧妙に操縦する。その結果、操り人形として矢面に立たされた子どもたちがどんな目に遭うかなんて、毛ほどの心配も想像もしやしない。その責を問われ、怨嗟を突きつけられたとしても、かしこまった小理屈や形ばかりのお悔やみを盾に、結局誰も責任なんか取ろうとしないのだ。
何より、私自身がそんな目に遭わされてきたじゃないか。
アリゴレツカの生家を離れることになった日の記憶が、昼間見たソフィの潤んだ瞳と響き合う。
私が彼女の気持ちを踏みにじってよい道理なんか、本当はどこにもない。あの日の大人たちが私に対して行った仕打ちを、私が今まさにソフィに対して行おうとしているのなら、とても私の良心が耐えられない。
しかし、それでも……そこまで頭で理解していても、私は、リクラフに関してだけは折れることができないのだ。
そうして目まぐるしく考える内、私はある懐かしい感情を取り戻しつつあることに気づいた。
――ああ、これは、何かが間違っている。
◆
詰所の前の扉で、はたと止まって、深呼吸をした。
ここまで歩くその間に、私は私なりの妥協点を決意した。それをソフィに語ろうと思った。
そしてほとんど蹴り付けるようにして、あの詰所の扉を開いた。
詰所の奥に佇んでいたのは、意外にもソフィひとりだけだった。ハイバルの姿は詰所の中には見えない。
「ひとり?」
と私は尋ねた。ソフィはひどく緊張した様子でこくりと頷いた。
「あ、あの、エリザ、訊いていいかな……リクラフと何があったの?」
昨夜垣間見せた決意の強さなどほとんど掻き消えていた。ソフィは声を詰まらせた。「昼間のエリザが凄く怖かった……よほどの因縁があるんじゃないかと思えて……」
「ソフィ……」
私はさっき蹴り開けた扉を静かに閉めて、ソフィに歩み寄った。
軍靴が木の床を叩いて、こと、こと、と小気味よく音を立てる。ソフィはますます小さくなって後ろずさろうとした。
その身体が逃げないように、私は素早く間合いを詰めて、ぎゅっと彼女を抱き締めた。
ソフィはびっくりしたのか二、三度もがいたが、すぐに観念して動きを止めたので、私はさらに力を込めた。
その細さに私は驚いた。
「……ごめんね」
そう囁いた。彼女の耳元で。
「……ごめんなさい」ともう一度。「あなたが悪いわけじゃない」
“じゃあ、誰が悪いのだ。”
私の頭蓋の中で、何かがそう冷たく囁いた。
私は誰に対して、何を謝罪しているのだろう。謝罪したところで、ソフィの希望を叶えるつもりなんてないのに。
その場しのぎの謝罪に為せる業などない――そうだとしても、人が人へ、私があなたへ謝る理由とは何だろう。
その自問は、ただ空しく宙を舞った。こんな言葉で私の仕打ちを許してもらおうだなんて、私は卑劣だ。そんな自分が嫌で、おかしくなりそうだった。
「――ソフィ、改めてお願いする。明日、リクラフの能力を解放して」
私は彼女をもう一度抱き締めた。ソフィが恐がることのないように、強く。「――でないと、リクラフは廃甲されて、あなたも用済みとされて、どんな目に遭わされるかわからない。あなたと、そしてリクラフが助かるためには、今はそうするしかない。もしかしたら、ソフィは今までソフィなりの意思をもって連邦への協力を拒んでいたのかも知れないけど、今は……私は、あなたに助かってほしい」
それが、今の私ができる、精一杯の提案。
今の私が折り合いをつけられる、精一杯の妥協だった。
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