第29話 ほっとしたから、切り込んだ。
ほっとした。
思ったより、抵抗がなくてよかった。
浴槽に沈んだ『私』の死体を見上げながら、
≪私≫はほっと息を吐いた。
抵抗が強かったらいけないと、
長い髪の毛を摑み上げ、強引に押し込んだ。
それでも抵抗が強かったらいけないと、
首を掻き切るために、鋏を持ってきた。
必要がなくてよかった。
心の底からそう思う。
≪私≫は『私』を殺した。
見ていられなくなったからだ。
それはかわいそうとか、同情とか、
正義心を発揮したとかではなくて、
単に≪私≫がこれ以上、『私』の日常を見ていたくなかった。
それだけだ。
これはある意味、≪私≫自身の問題だ。
仕事を辞めずに、無理に働く『私』を見て、
腹が立ったとか。
疲れて、帰ってくる『私』を見て、
目を逸らしたくなったとか。
変わらず日常を過ごす『私』を見て、
見るのが辛くなってきたとか。
死んだことを突き付けられるのに
耐え切れなくなったとか。
割と身勝手で、理不尽で、
どうしようもなくて、
≪私≫にとっては一番、切実な問題だった。
殺意よりも質が悪いのかもしれない。
自覚はある。
それでも、浴槽に沈んだ『私』を見て、
楽にはなったのだ。
「……よかった」
そんな言葉が零れ落ちた。
ほっとしたのも束の間、
≪私≫はふと思い出す。
冷蔵庫の中に入っていた、睡眠薬。
あれを、ココアに混入して、
飲ませておいた。
だからこそ、抵抗が少なくて済んだのかもしれないけど。
あれは結局、何だったのか。
そもそも『私』は処方された覚えもないのだが。
「……」
考えても仕方がない。
それよりもまずは、髪を切らないと。
長い髪の毛を強引に掴んだせいか。
手に、髪の毛が絡まっていて仕方がない。
絡まっているなら、切ればいい。
だから、鋏を使って、
切り込んだ。
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