第44話 懇願したら、目が合った。

 腹が立って仕方がなかった。

 疲れたと言いながら、『私』の部屋で、暮らしている誰か。


 正直、その誰かの名前とか、事情とか、

 そんなことはどうでもよくて。


 『私』が暮らしていた部屋で、生活している。

 それだけで憎らしく感じてしまう。


 そんな感情は多分『嫉妬』と呼んでもいいのかもしれない。


 だけど、そんな簡単で、曖昧な感情で片付けられない。

 そんな何かが『私』の中で渦巻いていた。


 ――『私』は一度、死んでいる。


 死因は多分、溺死で殺人だった。

 身動きが取れない状態で、沈められた。


 溺れる息苦しさも、強引に沈められる衝撃も、

 覚えてはいた。


 なのに、気づけば私は『私』の部屋にいて、

 他の誰かが暮らし始めたのをずっと見ている状態に置かれた。


 苦痛以外の何物でもなかった。


 『私』の部屋が『私』の知らない部屋に変わっていき、

 『私』じゃない『誰か』が、

 『私』の部屋で暮らしている。


 『絶望』なんて可愛らしいものじゃない。


 何かが終わっていくのを、ずっと眺めている。


 それを見せつけられる。

 誰かに非はなくても、感情を向ける対象は、

 その『誰か』しかいなくて。


 身近にあった棚の中に、太い縄があった。

 ちょうどよかった。


 眠っている誰かを憂さ晴らしの一環で、

 首を絞めてみる。


 これが結構難しくて、

 結構、気分が楽になる。


 苦しんでいる様は、罪悪感を抱く一方で、

 苦しんでいるのは私だけじゃないんだと、


 安心できる作業でもあった。


 『誰か』が苦しめば苦しむほど、

 安心感が増していく。


 だけど、結局そんなものは一時的なものでしかなくて、

 状況は何も変わらない。


 それが多分、限界でもあった。


 太い縄の縄の跡がくっきりと残る。

 その首目掛けて、包丁を振り下ろす。


 その誰かの生活を見る限り、自炊している様子もなかった。

 なのに、包丁だけがちょうどよくあった。


 変だとは思ったが、そんな疑問は頭の隅に追いやった。

 そして実行に移した。


 衝動にも似た行動と、首を刺した感触。


 一瞬でも躊躇ったせいで、『誰か』は逃げようとした。


 逃げないで。


 無茶苦茶な感情が沸き上がる。


 また刺した。


 逃げないで。


 また刺した。


 何度も何度も刺した。


 ――逃げないで。


 虫の息になった『誰か』に向かって、

 もう一度、


「逃げないで」


 懇願にも似た、命令だった。


 もしこの『誰か』が生き延びたら、

 もしここでの生活を再開したら、


 私はきっと耐えきれない。

 もう、耐えれてもいない。


 耐えられない状況は打破するために、

 耐えられない状況から目を逸らすために、


 もう一度だけ言った。


「逃げないで」


 その『誰か』は『私』を認識した様子もなかった。

 死んでいるのだから、見えていないのだろう。


 幽霊みたいなものだ。


 なのに、最後の一刺しを浴びせる瞬間、


 目が、合った気がした。

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