第4話 「疲れてしまった」と、考えた

 ずぶりと刃物を引いていく。

 首を抉る刃物は赤い色で、一瞬目を奪われるほどの鮮やかな色を放っていた。


 『俺』は人を殺した。

 

 壁に背中を預ける、出血死した死体。

 その死体の首に、『俺』は刃物で抉っていた。

 この死体だけでない。


 悪臭漂う、首吊り死体。

 風呂場には、手足を縛られた溺死した死体。

 三体の死体が、この部屋に転がっていた。


 だが、『俺』はただ黙々と血で汚れた服を捨て、

 洗面所で、丁寧に丁寧に手を洗って、血を落としていく。


 ――初めて見たわけじゃないからだ。

 何度見たかも覚えていない。


 最初は身に覚えのない殺人に混乱し。


 逃げようともした。

 発狂しそうにもなった。

 ベランダから飛び降りようともした。

 

 なのに――

 その度に。


 カチッ、カチッ、カチッ。

 軽快な、それでいて不快な音。


 それを耳にする度に、また引き戻される。

 身に覚えのない死体の部屋に。


 逃げようとしても、

 発狂しかけても、

 命を絶とうと足掻いても、

 全部全部全部全部――――何もできない。


 何もできないから。

 そのうち――疲れてしまった。

 ここでは発狂もおろか、死ぬことすら許されない。


 ならば、できることはただ一つ。

 ――通報だった。

 

 身に覚えがないのは確かだ。

 だが、こんな状況で『何もしていない』と言ったところで、信じる奴がどれだけいるか。

 

 何より、殺してなくても『殺した』と自白して、警官に来てもらえば。

 この部屋から出られるかもしれない。

 自分から出ようとしても出られない。

 ならば、他人の力を頼るしかない。


 たとえ、無実の罪で投獄されたとしても。

 世間から叩かれたとしても。

 身内に累が及ぶとしても。

 ――死刑になるとしても。


 『俺』はもう疲れてしまったのだ。


 そうだ、『俺』はこの状況にいるより、外に出たい。

 一時でも外の空気を吸いたい。

 その一心だった。

 

 死体がある光景には、もう驚かない。

 何度繰り返すうちに慣れてしまった。

 だからと言って、ここにいたいわけでもない。


 だから俺は服を捨てた。洗面所で手を洗った。

 自首するにしても、血で汚れたまま居続けるのは嫌だったからだ。


 幸い服は棚の中にあったから、それを着た。

 一杯の水を飲み干した。


 そして――受話器に手を伸ばす。


 カチッ。

 暗転した。


 ――気が付けば、『俺』は出血死していた。

 仰向けの状態で、数カ所も刺されているのが分かる。

 

 どうしてこうなったのか。

 全く分からない。

 

 このまま『俺』は死んでしまうのか。


 ――外の空気を吸いたい。

 それだけなのに。


 徐々に意識が朦朧としてくる。

 そんな中、あることに気が付いた。


「……ない……」


 壁に背中を預ける出血死した死体。

 その死体がどこにもなかった。

 確かにあった筈なのに。


「なん、で……」

 

 その疑問さえ、『俺』は知ることはない。

 何故なら、すぐに血の中で意識を手放したからだ。

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