第35話

「おばあちゃま、どうしてこちらに……?」

「あら、今晩こちらにお邪魔するって言わなかったかしら? みんなで夕食するって……」

 つゆ子は「ビール買ってきましたのよ。喜久くんと香子ちゃんはジュースを用意しましたのよ」と残念そうな顔をする。

「あれ? 川井かわいさんと橋本はしもとさんは今日いらっしゃらないの? ご一緒にお夕飯食べようと思いましたのに……」

「あいつらなんか用意しなくていい。所詮しょせんは井上家の手伝いだから。――予定が変わった。さっさと帰れ」と邦広が虫を追い払うような仕草で、つゆ子を追い出そうとする。

「まぁ、邦広! お母さんに対してなんて偉そうに! あなたは昔からそうでしたわね。先ほどの香子ちゃんと喜久くんに対しても」

「お義母かあさま、あなたは関係なくってよ。ぶぶけいかかですか?」

 ずっと黙っていた朝子が口を開いたと思えば、つゆ子に対する嫌味だった。

「まぁ、もうお帰りにならないといけないのかしら?」

 つゆ子は「ケーキも買ってきましたのに、残念だわ」と口をとがらせる。

「――ところで話をお聞きしましたわよ。香子ちゃんと喜久くんに寮生活をさせるんですって? またどうして?」

「お前には関係ない話だろ。とっとと帰れこのアマ」

 邦広がつゆ子に対して辛辣しんらつな言葉を浴びせる。

「確かに話には関係ないですわ。でもね、喜久くんと香子ちゃんは私の孫なのよ」

「だからなんなんだ。失せろ。井上家本家の跡継ぎに意見するつもりか? 下々の生まれの親もって恥ずかしい」

 邦広が言った瞬間、つゆ子は徐に邦広のほうへ向かった。


 ――その瞬間つゆ子の平手打ちが来た。弱めだが。


 空気が凍りつく。

 香子と喜久は祖母のガチ切れの姿に言葉がでなかった。

「なにすんだ! 下々しもじもの癖に!」

「下々は関係ないでしょう! あなた本気で自分がこの世で一番だと思ってらっしゃるの? その下々の方に支えられてるのをお分かりでないのですか!」

 

 

 つゆ子は下町したまちの育ちで、五人兄弟の真ん中である。裕福とは言えない家庭だったので、若い頃から兄弟力合わせて働いてきた。

 つゆ子が料亭で働いているときに夫の源三げんぞうと知り合った。

 源三に見初められたのである。

 つゆ子は源三に対して警戒していたが、段々誠実さに惹かれていった。

 源三は井上家本家跡取り。片やつゆ子は下町の娘。

 育ちに違いがあるため親族及び源三の母がいい顔しなかった。

 源三には親が勝手に決めた許嫁いいなずけがいたものの、それを蹴ってつゆ子を選んだ。

 つゆ子は源三と結婚したものの、周りから育ちを引き合いにして嫌がらせを受けてきた。

 「井上家の伝統を潰した女」だ「財産や地位が目当て」「許嫁から奪い取って面の皮が厚い」だ散々言われてきた。

 親族がつゆ子に悪口言ってくる度に源三は「俺が決めた相手にとやかく言うな」と一蹴してきた。

 つゆ子は周りからとやかく言われないように、《じょうりゅうかいきゅう》に相応しい人間になれるように、陰で努力してきた。

 親族の集まりはもちろん、保護者の集まりに積極的に顔をだして自分なりのコミュニティーを作り上げてきた。

 

 ――好きに育ちなんて関係ない。つゆ子と一生を共にしたいと思ったから。


 その言葉通りつゆ子と源三はおしどり夫婦で近所の評判となっている。


 邦広は子どもの頃から親族の話を鵜呑うのみにして、つゆ子のことを下々の奴と見下している。

 邦広がつゆ子のことを馬鹿にするたびに源三は怒っているもののこの調子だ。

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