第14話
「たかねぇ、起きて!」
香子はリビングで再び眠りに落ちていた。
弟に揺すられるように起こされるなんて。
「……どうかなさいまして?」
「――飯塚さんがいない。それに羽岡さんとこも」
「まぁ……!」
香子は口元を覆い隠した。
――もしかしてお母様また同じことを?
志津子さん母娘、明珠香さんたちがいない。
まるで何事もなかったかのように、紅茶を飲むのに使った食器類がすべてなくなっている。
リビングは日暮れ時を超えていて、あたり全体が暗い。
時間を確認するために電気をつけると、もう七時を回っていた。
香子は玄関に向かった。
志津子さんたち帰ったのかしら?
羽岡母娘の靴はない。帰ったのか。
明珠香の靴もない。
みんな帰ったのか?
安堵した瞬間、家のどこからか電話の着信音が鳴った。しかし固定電話でもなく、香子のスマートフォンでもなかった。
電話が鳴り続ける。乙女の祈りだ。
どこか? 玄関横の部屋だ。
ここは衣装部屋で、基本的に朝子の衣類や服が保管されている。
その中に唯一カジュアルなカバンがあった。
布製のベージュを基調としたトートバッグ。しかしこれは母のものではない。
トートバッグから電話がなっていたのか。
香子は電話の着信に答えるために手にとった。
電話口から女性のパニックになった声が聴こえる。
『明珠香? お母さんです。連絡してください』
飯塚光咲は憔悴してた。
もう十九時だ。いつもなら門限を守って家に帰っているし、帰る時には一報入れていたのに。
十八時五十分ぐらいから何回かメッセージアプリで連絡するように伝えたが返事がない。それでも無理ならと電話してもずっと電話の呼び出し音しか聞こえない。
「明珠香、まだ連絡つかないのか?」
光咲以上に夫の秀清が憔悴していた。
額から汗がにじみ出てる秀清の姿を見た光咲は「秀ちゃん、顔色悪いよ?」と不安げに顔を覗き込む。
「確か、今日井上くんの家にいくって言っていたな。よし、いまから殴りこみにいくか……思ったけどどこに住んでるか連絡先わからん。たしか、井上くんは明珠香の同級生だったよな。峰沢ネットワークを使って聞き出してみるか……それでも無理なら警察に……」
「もう一度電話かけてみて、それでも無理なら警察に相談しよう」
光咲は天に祈る思いで電話をかけた。
パニックになって心臓が跳ね上がりそうだ。
「明珠香? お母さんです。連絡してください」
――電話は繋がったが、出たのは明珠香ではなかった。
『ごきげんよう。もしもし、飯塚明珠香さんのお母様でしょうか?』
「あ、はい……失礼ですがあなたは?」
『ご無礼いたしました。私、喜久の姉の香子と申します』
「井上くんのお姉さま……」
光咲は香子の言葉遣いにどうリアクションすればいいのか分からないでいた。
懐かしい、と同時に苦い思い出がやってくる。
ただでさえ、娘が帰って来ないというのに。
「まだ娘が帰ってこなくて、そちらにいらっしゃるのかと思いまして」
『まぁ! 明珠香さん、まだ戻ってこられてないのですね……!?』
「え、ええ……」
『もう一度私も探してみます。もし見つかったらこちらからご連絡致します』
「は、はい」
とそこで電話は終了した。
「電話に出たの井上くんのお姉さんだったの」
「井上くんのお姉さんがなんで電話に出てるんだ?」
「分からない。でも喋り方や言い回し…」
あの上品な喋り口調。言い回し。自然に身に付いたものだろう。
一般の家庭じゃなかなか身につかない。
「さっき電話にでてた井上くんのお姉さん――香子さん、家族に紫桜の卒業生がいるか、本人が在籍してるのかまたは卒業生」
「紫桜の?」
「ごきげんようで挨拶してくるのはこの辺だと紫桜の子ぐらいだよ」
「まぁ、そうだよなぁ。峰沢ではいないし」
峰沢で「ごきげんよう」なんて挨拶したら学校で浮く。
ただでさえ「周りから浮くかどうか」に対して敏感な年頃に、我が道をいくのはかなりリスクが高い。
「とりあえず、井上くんとこの連絡を待ってみよう」
――とにかく、みんな探し出さなきゃ。
キッチン、喜久の部屋、両親の部屋、お風呂場。
思いつく場所を手当たり次第探した。
いい年してかくれんぼをしているみたいだ。
あとは――。
――母の部屋。
この部屋は母の衣類とカバンが収納されている。
防犯上なのか普段鍵が掛かっている。
鍵は母しか持っていない。
鍵がないので開けようがないのだが。
「香子? 喜久? どうかなさいまして?」
後ろから――母の声がした。
香子の肩が強ばった。
「お母さん、飯塚さんは?」
喜久の質問を無視した。
振り向くと母がいた。どこに行ってたのか。
「お、お母様……」
「どうかなさいまして?」
「明珠香さんとはどこにいらっしゃるの?」と聞こうとするが、声にでない。
聞いちゃいけない?
もうお手伝いさんたちが家に帰ってるから、あと知っているのはお母様だけ。
「あの、明日香さんそれに志津子さんは……」
と聞こうとした瞬間。
「飯塚さんと羽岡さんたちはどこにいる?」
喜久が質問した。強い語気を含んでいた。
――母の顔が般若になった。
「香子には関係ないことでしょう。夏休みの宿題は終わりましたの? そして喜久、親にたいしてなんて言い草ですか」
いつもの上品な口調に少しヒステリックさがにじみ出る。
――お母様、なにか隠してる。
香子が確信した瞬間だった。
「関係ないことはないです! 私の親友がどこに行ったのか分からないのですよ! 連絡もつかない! 親友を心配して何が悪いんですか!」
志津子さんは私にとって理解者でもある。
たとえ志津子さんが中学校から入学しようが親友であることには変わりない。
本人がどう思っているか別だが。
「親友が大切なら尚更喜久と結婚させるべきよ。喜久と志津子さんが結婚すれば、香子とは親族になれるのですから」
朝子は口角を釣り上げた。
香子は母の笑い方に背筋が凍りついた。
「お母様、志津子さんたちはどこにいらっしゃるか教えて」
香子は朝子に詰め寄った。
「それは教えられませんわ。うふふ」
朝子が口元を手で隠して笑う。
「香子、あなたには関係ない事でしょう。親友がどうなってもよろしくて?」
「……お母様、それは脅しですか」
香子は事務的な口調で聞き返す。
「まぁ、そんなことはなくってよ。私、娘にそのようなことはできませんわ」
そう簡単に教えるわけがないか、と香子は心の中でため息を就く。
母の緩慢な口調によってふつふつと怒りが湧いてくる。
親友は? 明珠香さんは?
「じゃぁ、こうしましょう。――なんとしてでも、喜久と志津子さんを結婚させる」
香子は母の提案に口ごもった。
――今度、お見合いがありまして……私、行きたくないですわ。
――私は自分が『これだ!』と思った殿方と結婚しますわ。
親友は嫌がっていた。
まさか同級生の弟とお見合いするとは露にも思っていなかっただろう。
しかも当日まで秘密にされていたのだから。
「……わ、わたくしは……」
親友の意思を無視してまで、結婚させる必要はないと思う。
弟も好きな子がいるのだから。
いくら母が気に入らないからといって、勝手に結婚させられる筋合いはないと思う。
「ねぇ、どうなさいますの? 香子?」
「私は――」
親友をとる? 自分の保身をとる?
「――何言ってるんだ、お母さん。僕は羽岡さんと結婚するつもりないよ」
喜久はきっぱりと否定した。
「わたくしは、お二人を無理やり結婚させる必要ないと思います」
香子は喜久に続ける形となった。
「香子、今なんとおっしゃいまして?」
「お二人を無理やり結婚させる必要がないと。私は、お二人を尊重すべきだと思うのですが、いかがでしょう? お母様」
「香子、いつの間に立派になられましたの?」
母の嫌味だ。
上品な言い回しだけど、トゲが刺さる。しかもチクチクと刺さるような。
「母に対して言い返そうなんて、随分立派になられたのね。喜久に影響されたのかしら? 喜久はやはり、あの家の子だからはっきりとおっしゃいますね」
反抗期の子供たちに対して怯むことなく、朝子は続けた。
「これだけいっておきます。志津子さんたちはお家に帰られましたわ」
「それは、どういうことでして?」
香子は間髪いれずに聞き返した。
「今、明珠香さんが残っていますわ。一緒にこの家のどこかにいますわ」
「お母様、いい加減私をからかうのやめてくださいます? なんでお客様をこんな目に巻き込ませるのです?」
香子の口調が徐々にヒステリックになりつつある。
多分志津子さん母娘が帰ったのは、母がこのようなことをしたのを口止めさせるためだろう。
でも志津子さんはお見合いを断るつもりでいた。それに一緒に逃げてきたのだから。
向こうとしては喜久がお見合いに来たのはいいけど、実はお家デートをしている最中に連れてかれたとなると心配になるだろう。
「これは私の復讐よ。明珠香さんのお母様に嫌がらせするために。そのためなら、喜久を巻き込んでまででも厭わないのですから」
「明珠香さんのお母様、ご心配されて何度も電話されているのですよ! 同じ母なら娘が帰ってこないのを心配するでしょう!」
今の母の姿はもう己の欲望のためなら復讐してもかまわない化物である。
母の物置で言い合いになっていると、明珠香の携帯が再び鳴った。
香子が手に取って受け取ろうとした瞬間だった――。
「はい、私、井上朝子と申します。ごきげんよう。飯塚光咲さん」
母が奪い取った。さっと目当ての品をさりげなく取っていくような。
「おたくの娘さん、こちらで預かってますの。このような時間までいるなんて……まるで別世界の人とお話しているみたいですわ」
ふふふと口元を隠して笑う母を見て、香子は何もできないでいた。
*
光咲は娘が電話を受け取ったと期待して手にとった。
しかし電話に出たのは全く違う人物だった。
『私、井上朝子と申します。ごきげんよう、飯塚美咲さん』
突然違う人が電話に出たので、光咲は言葉にできないでいた。
そしてこの挨拶のしかた。先ほどの香子と似たようなトーンだった。
朝子と聞いた瞬間、光咲には胃が逆流しそうな感覚に陥った。
朝子――かつて私に対して嫌がらせをした同級生。
まさか、まさかね?
『私、喜久の母でして。息子がいつもお世話になっていますわ。日頃のお礼として明珠香さんをこちらに招待しましたの。でもお二人共話がはずんでしまいまして……お迎えに来られるでしょうか。もう、遅いですし。家はご存知ですか』
ということは、まだ井上くんの家に娘がいるということ。
光咲の中で微かに希望の光が見えた。
「いいえ。恐れいりますが、存じ上げなくって」
こんな状況の中、相手に釣られるような形で上品な言い方になっている。いつもはそこまでの言い方をしないのに。
光咲は朝子に住所を言われ電話機の横にあるメモ帳で記録した。
「すぐにお迎えにあがります、ではごきげんよう」と電話を切り上げた。
「秀さん、明珠香まだ井上くんの家にいるみたい。一緒に迎えに行きましょう。住所はこちらよ」
「わかった、すぐに行こう」
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