深夜の卵雑炊

第8話 割れない卵

 茶の間のドアを、遠慮がちにノックする。


「フィーリア、大丈夫か?」

「は、はいですぅ。マスター」

「これ着ろ。たぶん入るから、俺のだけど」


 フィーリアのあられもない姿が見えないように、ドアを少し開けた隙間から、シャツを差し出した。


「マスターの、お洋服?」

「そうだ、嫌か?」

「まさか! なんて優しいマスター……、フィーは幸せですぅ」

 

 潤んだ声と共にフィーリアの手が伸び、シャツは茶の間の中に飲みこまれていった。姿は見えないが、早速着替えにかかっているようだ。


「んしょんしょ、ぷはっ! マスター、入りましたぁ!」

 

 ドアを開けると、フィーリアが嬉しそうに報告した。

 確かに、流石の彼女でも男物のシャツを破りはしなかった。


 しかし哀しいかな、自分の差し出したシャツは白色だ。

 白は、下着の色が良く透ける。


 シャツの下からフィーリアの黒と桃色の可愛らしいブラとショーツが浮き出て、丸見えだ。


 だが嬉しそうにしているフィーリアに、そんなことは言えなかった。きっと恥ずかしさのあまり、彼女を再び泣かしてしまうことが目に見えているからだ。


「マスター、これすごく楽ですぅ! フィーは嬉しいですぅ!」

「お、おお。良かったな」

「はいですぅ!」

 

 ぎゅるるるるるる……、またもフィーリアの腹が鳴る。


「ふぇーん!」

「しょうがねえな、そこで座ってろ」

 

 俺はキッチンに入り、冷蔵庫を開けた。

 せっかく来た客だ、とりあえず何か飲み物が必要だろう。


 ちょうど冷やしてあった麦茶を、百均の安物グラスに注いで出してやる。

 フィーリアは物珍しいのか、マジマジとグラスを覗きこんだ。


「こ、これは……ティーですかぁ?」

「そうだ、麦茶だ」


「むぎ……?」

「麦を煎って煮出した茶だな」

「わぁ! フィー初めてですぅ」


 咽喉が渇いていたのか、フィーリアは一気に飲み干した。

 狭い茶の間で、エルフが正座しながら麦茶を飲んでいるのはかなりシュールな絵面だ。それでもなお上品に見えるのは、彼女の特性だろう。


「美味しい!」

「そうか」


「とっても香ばしくて美味しいですぅ! こんなお茶は向うにはありませんっ」

「向うって、ゲーム内のことか」


「フィーが住んでいた世界ですぅ」

「へぇ」

 

『異世界ハンター』は基本、洋風の世界観だ。

 麦茶を飲んでいる描写は無いだろう。


「おかわりですぅ!」

「はいはい。じゃ、何か作るか」


 二杯目をフィーリアのグラスに注ぎ入れると、再びキッチンに向かい冷蔵庫を開いた。


「ええと……何か食材は……」

 

 しかし、本日の冷蔵庫は不作だ。


「オカンめ、買い物行かなかったな」

 

 我が家では昼間家にいるオカンが、買い物に行くことが多い。

 なにせ俺はブラック勤め。

 スーパーが開いてる時間に帰れることなんて、まずない。

 

 仕方なくガラッとした庫内を見回すと、上段に丼が無造作に入れてあった。

 丼の中身は、食べきれなかった白米だ。


「うわっ、このご飯カピカピじゃねえか!」

 

 腐らないようにオカンが冷やしていたのだろう。

 しかし天然のオカンは、ラップもせずに適当に放り込んだようだ。

 当然だが、表面は干からびてカチカチ。

 こうなると、レンジでチンしても食べられたものではない。


「マスター、どうしましたぁ?」

 

 フィーリアがキッチンに入ってきて俺の横にぴたりとくっつく。

 ついでに胸も俺にくっつく。


「うわっ、なんだよ。くっつくなよ!」

「ふぇ」


 フィーリアの顔がみるみるくしゃくしゃになる。

 ま、まずいぞこれは……。


「ま、マスターのお手伝いが出来たらと思って……」

「ご、ごめん。そんなつもりじゃ……わかった。好きなだけくっつけ」

「グスッ。はいマスター」

 

 女心というのはなんと気まぐれなのか。

 ニコニコしていたと思ったらすぐこれだ。

 

 ここですぐ引き下がって謝れない男だと、喧嘩になるんだろうな。

 世のリア充どもは皆、こうやって生きているのだろうか。

 これじゃ女の機嫌を取るので日が暮れる。

 俺は女と付き合ったことはないが、なんて面倒なんだ。


 本当に男はツライ。

 そんなことを考えながら、俺はメニューを頭の中で組み立てた。


「マスター、その白いのはなんですかぁ」

「これは米だ」


「食べ物!」

「食べ物だったもの、だな。もう乾燥しちまって食えたもんじゃない」


「捨てちゃうんですか」

「いや。卵と青ネギの欠片が残ってる。これで絶品の夜食が出来るぞ」


「えっ!?」

「まず出汁だな」


 片手鍋に適当に水を入れ、火にかけた。

 そこにこれまた適当に、顆粒だしを一袋投入。


「マスター、そのお粉は? もしかして薬ですか?」

「これは鰹と昆布の合わせ出汁だ」


「か、つお?」

「そっか、知らないのか。鰹は魚だ、昆布は海藻」


「お魚! こんがり焼けちゃうんですかぁ!」

「こ、こんがり? まあこんがりも焼けるだろうな」


「美味しそうですぅ!」

「今度食わせてやるよ」

「わーい!」

 

 フィーリアはまたニコニコ顔に戻った。その笑顔はとてつもなく可愛い。


「……悪くない」

「はい?」

「いやこっちの話」

 

 出汁が沸騰してきたので、残ったカピカピご飯をそこにぶち込んだ。

 段々と干からびていた米が柔らかく煮えてくる。


「フィーリア、卵を割ってくれ」

 

 シンクの上にまな板を出し、手際良く青ネギを刻みながら頼んだ。


「たまご、わる?」

「ああ、出来るだろそれくらい」

「は、はいですぅ……」

 

 フィーリアはもたもたと冷蔵庫から卵を取り出した。

 卵一つを大切に持ったまま、俺の作業しているシンクに近づいてくる。


 そして意を決して、手を振り上げた。


「えいっ!」

「ちょ!」


 止める間も無かった。

 

 フィーリアは勢いをつけ、握った卵をシンクにぐしゃっと叩きつけた。

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