(5)

 重厚な扉の奥には意外と大勢の客たちがいた。『コーカス・レース』は大盛況のようだ。ルーレットテーブル一台の他にカードテーブルが六台ほどあり、どのテーブルも客で埋まっている。

 室内は装飾らしいものがほとんどなく、壁も床も古びた模造生体合板フェイクウッド張りだ。カーペットも敷かれていないので、フロアを横切る人間の足音が耳につく。


 店には入ったものの、俺の目的は賭博ではない。部屋の隅にバーカウンターがあったので、俺はそのスツールの一つにアリスを座らせ、自分もカウンターにもたれかかるように立った。そして興味を持っているふりをしてゲームを眺めた。


 初めのうちは、場違いな金髪の女児を何人かがじろじろ眺めていた。だが、ちょっかいをかけに来る奴はいなかった。

 アリスの横で俺が最高に凶悪な表情を作って威嚇していたせいもあるだろうが――おそらく、ここの客どもは、真剣にギャンブルをしに来ているのだ。子供などにかまけていられないのだろう。

 各テーブルではてきぱきとカードがディールされ、コインが人の手から手へと移動し続けていた。



 ――待ち人が現れるまで、およそ二時間ほどかかった。


 俺は怪しまれないように時折カードに参加したり、ゲームの様子をぶらぶら見て回ったりしながら時間をつぶしていた。アリスがおとなしくじっと座ってくれているので助かった。昨日の様子から、こいつは年に似ず、何かを待ち続けることに慣れている子供なのではないかと予感していたが、その通りだったようだ。


 地味なスーツを着た、頭頂部の寂しい中年男が店内に入ってきた。


 俺は予習をしてあったので、すぐにわかった。この目立たない男はサーフェリー・ギャング団の会計士だ。

 男は店の奥にある、スタッフルームへ通じる扉をめざしてまっすぐ歩いていく。ゲームのテーブルには目もくれない。


 俺はタイミングを合わせて歩き出した。酔っ払いの雑な動作を装い、側面から男に思いきり肩をぶつけてやった。

 体格差も手伝い、男は吹き飛んで尻もちをついた。


「ああ! 悪ぃな。大丈夫か?」


 身をかがめ、立ち上がる手助けをするような顔をして会計士の手首をつかんだ。少し怒っている双眸を、近い距離からのぞき込む。


target=()

run ('looking_glass')


 [鏡の国ルッキング・グラス]は成功率の高くないスクリプトだ。相手の知覚神経と同期し、五感を遠隔でモニタリングする特殊スクリプト。

 アイコンタクトと身体的接触フィジカル・コンタクトを併用することによって、かろうじて同期の成功率を五割近くまで上げることができる。たとえ同期に成功したとしても、他人の感覚情報をすべて読み取って処理する負荷に[冗長大脳皮質リダンダント]が長くは耐えられないので、モニタリングはせいぜい十五分が限度だ。


 世界が明滅し、反転した。


 口の中に広がる口臭消しの錠剤の強すぎる清涼感。蓄膿らしい、鼻の奥のかすかな痛み。ぼさぼさの髪の、目つきの悪い男がじっとこちらをみつめている。そのまぬけ面が自分であると気づいた瞬間、二つの異なる体を同時に知覚している己を自覚して混乱に呑まれそうになった。

 ――同期に成功した。会計士の感覚をとらえた。

 俺の眼と会計士の眼。二組の眼に映る異なる世界に、ぐらぐらする。おなじみの感覚だ。

 俺は懸命に自分の五感を確認した。バーカウンターのスツールに腰を下ろして力を抜き、自分の体をあまり意識しなくてもよい状態にした。会計士の感覚器からの情報の方を優位に切り替えた。


 会計士は自分の感覚が「乗っ取られた」ことに気づくよしもなく、すでにスタッフルームを通り過ぎていた。埃っぽい廊下を速足で進んでいく。


 目で見る風景だけでなく、顔に当たる空気、耳に届く足音、歩を進めるたびに全身に伝わる軽い振動。

 会計士が感じているすべてを俺も感じているので、まるで俺自身がその場を歩いているような錯覚に陥る。


 だがもちろんそれは錯覚だ。もっと周囲を見回したい、いま視界の端を横切ったものを確認するため振り返りたい。そう思っても、とっさに動くのは俺自身の首であり、会計士が動いてくれるわけではない。俺は会計士にとりついた幽霊ゴースト。奴の知覚を借りて世界を体験しているに過ぎないのだ。


 会計士は支配人室のドアをノックした。指の関節にドアの硬さを感じることさえできるのに、その動作をしているのが俺じゃないというのが奇妙で仕方ない。

 扉がすぐに開き、中から賭場の支配人らしい男が顔をのぞかせた。


「ずいぶん早かったな」

「ボスがお急ぎです。ウィリアムのくそじじいが、ここを狙っているらしいという情報が入ったものでね」


 しゃべりながら、会計士は室内へ踏み込んでいく。

 支配人室は、賭場のフロアよりは多少飾り気があった。床にはいちおう――すり切れてボロボロだが――カーペットが敷かれている。壁には年代物の油絵がかかっている。もっとも、窓に嵌まった頑丈な鉄格子のせいで、わずかなりとも文化的な雰囲気が台なしになっていたが。


 あの絵の額の下に隠し金庫がありそうだな、と俺は当たりをつけた。

 詳しく観察したいが、会計士はそちらを見てくれない。デスクの上に放置されている書類を読もうと目を凝らしていやがる。どうしようもないことだが、もどかしさにいらいらする。


「その連絡なら、こっちも受けてる。明日から警備を倍にする予定だ。みすみすウィリアムの思うようにはさせねえ」

「そりゃそうでしょうが……ボスは、できる限り用心しておきたいとお考えです。ここの金庫はいったん空にします。金は、私が本部へ持ち帰ります。すみませんが護衛を二人ほど貸してもらえますか。……もしウィリアムの手下がこの店を襲ってきても、手に入れられるのは一晩ぶんの売上だけ、という寸法です……」


 会計士と支配人は力を合わせて、部屋の奥にあった執務机を持ち上げ、横へ移動させた。

 支配人が部屋の隅からカーペットをめくり上げた。砂まみれの模造生体合板フェイクウッド張りの床が現れた。

 机の置かれていた部分の床に、巨大な金庫が埋め込まれていた。黒々した金属の肌が威圧的に光った。


 俺は会計士の目を通して、奴が金庫の扉を開ける一部始終を見ていた。会計士は、扉に取り付けられたDNAセンサーに手を触れて認証し、音声センサーへ向かってパスワードを囁いた。見たところ金庫にはレンズもついている――形式からして、モーションセンサーだ。会計士の体の動かし方を解析し、記録する。その動作の特徴にマッチした人間でなければ扉を開錠できない。

 DNA、声紋、パスワード、モーションの四重ロックか。古典的だな。


 金庫の扉が開くと、中にはちょっと見たことがないほど大量の 現金マネーチップが収められていた。


 支配人が丈夫そうな黒の鞄を持ってきた。会計士は慣れた動きで現金を金庫からつかみ出し、次々と鞄へ移した。掌一杯に握られるマネーチップの感触が俺にも生々しく伝わってきた。

 現金をわしづかみにするのは楽しい体験だが。金庫の開け方の情報を手に入れたのだから、もう会計士の感覚情報と接続している必要もない。そろそろ引き上げるか。


 そのとき、視野の端で何かが動いた。鉄格子の嵌まった窓の方だ。


 会計士は自分の手元から視線を動かそうとしない。おい! 気づけよ。窓の外に何かがあるぞ。見てみろって!


 次の瞬間、轟音が響いた。

 かと思うと、左の肩口を中心に耐えがたいほどの苦痛が生まれ、一瞬で膨張した。


 やばい、と防衛本能が働いた。反射的に会計士の知覚神経から離脱ジャックアウト

 俺はバーカウンターのスツールに腰かけていた。「自分の体に戻って」も、まだ左胸がずきずきと痛んだ。

 あれは――銃声だ。

 会計士は窓の外から撃たれたのだ。

 危ないところだった。死ぬ瞬間の人間の五感をモニタリングしていたら、俺も正気を保てなかったかもしれない。まだ会計士が死んだと決まったわけではないが、どっちにしても、撃たれる瞬間の感覚を共有するなんてごめんだ。


 だが、非常事態が起きているのは支配人室だけではなかった。


 賭場の表玄関の外が騒がしい。

 銃声。怒号。

 扉が荒々しく蹴開けられ、銃を手にしたギャングどもがなだれ込んできた。


 俺はとっさに、アリスを胸に抱きとって床に伏せた。背中の上を銃弾がかすめ過ぎた。


 くそっ。〈オールドマン〉ウィリアムの襲撃かよ。

 冗談じゃねえ。ギャング同士の勢力争いなら、俺に関係のないところでやってくれ。


 乱入してきたギャングどもに対し、スタッフルームから駆け出してきた賭場の用心棒どもが応戦したので、あっという間に本格的な銃撃戦が始まった。巻き添えを喰らった客たちの魂切る悲鳴が、場の雰囲気を陰惨なものにする。耳を聾せんばかりの銃声。


target=all

run ('easy_contraction')


 俺はスクリプト[収納自在イージー・コントラクション]を無差別で発動。

 半径二十五メートル内のすべての人間が、右腕と左脚が七分の一に縮んだのを知覚した、はずだ。

 とたんに銃声がやんだ。七分の一ということは筋肉量は約三四三分の一だ――銃など持ち上げられるはずがない。ギャングも賭場の用心棒も客も、全員が床に転がった。

 対象を限定しなかったから、スクリプトの効果は店の外の通行人にも及んでいるだろう。


 だが、構っていられない。


 男たちがなすすべもなく転がる中、俺はすばやく立ち上がり、アリスを肩にかつぎ上げて駆け出した。

 こんな大騒ぎの中だというのに、この子供は泣き声ひとつあげるでもなく、非常に平静だった。こいつも手足が縮んだのを知覚しているはずなのだが。

 しかし俺は不思議と、そのことに驚きを感じずにいた。


 扉の外は灰色の夜だった。女を買いに来る男どもが増えて、通りはさっきよりにぎわっている。

 賭場の周辺に、通行人が道路に倒れ伏しているエリアができあがっていた。元気に罵声を発しながら、片手、片足で立ち上がろうとしてもがいている。

 俺がスクリプトを発動させたままなので、俺を中心とする半径二十五メートルの円内でこの現象が起きる。


 俺は倒れている連中の間を駆け抜け、賭場から十分離れた所でスクリプトを解除した。

 

 四肢の長さを取り戻した連中が俺の背後で何をおっぱじめるのか、振り返って確かめるつもりはない。

 賭場のギャングどもが銃撃戦を再開したとしても、それは俺には関わりのないことだ。


 俺はただの情報屋だ。殺し合いは俺のビジネスじゃない。

 依頼は果たした。あとは帰って報告するだけだ。

 アリスを肩にかついだまま、人ごみをかき分けて前へ進んだ。



 降って湧いた危機を無事に切り抜けたせいで、少し背後への警戒がおろそかになっていたのかもしれない。

 すぐ近くで、愚痴っぽい女の溜め息のような音が響いた。




 ――至近距離で発射された麻痺銃エンジェルウィスパーの銃声だ。


 音の正体がわかったのは、路面に転がった状態で意識を取り戻した時のことだ。


 [仮想野スパイムビュー]の上端に表示されている現在時刻が、『コーカス・レース』を出てから四十分が過ぎたことを示している。後ろから何者かに撃たれた俺は、ずいぶん長い間おねんねしていたわけだ。体を探ってみると、当然のことだが、手持ちの現金は消えている。

 六十五番街は犯罪者の巣窟だが、まさかいきなり麻痺銃で眠らされるとは思わなかった。


 心臓が沈み込むような嫌な心地がした。

 アリスの姿が消えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る