(2)

 テラスの床に両足で着地。


 早朝の静寂しじまを裂いて、かなり派手な音が響きわたった。


 ほぼ同時に両手を床につき、体を丸めて肩から転がる。落下の衝撃を膝で吸収し、できる限り分散させることを意識する。

 この高さからでは、音を立てずに着地するなんて芸当はできない。体を傷めずに済んだだけでも上出来だ。


 同じぐらい大きな音を立てて着地したライデンが、床を転がる拍子にテラスの椅子を倒しやがったので、室内の人間は完全に目を覚ましただろう。



 俺は、テラスから寝室へ通じるガラス戸を引き開けた。


 ガラス戸には鍵はかかっていなかった。

 最上階なのでテラスから侵入されることはないだろうという油断か。侵入者が来ても撃退できるという自信か。


 映画の一場面のような、贅沢で洗練された空間が広がっていた。


 二面の壁が完全にガラス戸と窓になっていて、三面目の壁沿いに、上でボクシングの試合でもできそうなぐらい大きなベッドが置かれていた。それ以外に応接セットとドレッサーがゆったりと配置されているのだから、この部屋は寝室にしては無駄なほど広い。

 室内には、やたらとたくさんガラス細工が置かれていた。「花瓶に生けられた花」をかたどった精巧なガラスの彫刻だ。

 最近、文化人と称する連中の間で、本物の花よりこういう細工物の花を飾るのが流行っている。それにしてもこの部屋のガラス製品の多さは異様だ。置けるスペースにはすべて置いてある、という感じだ。展示即売会でも開こうってのか。


 ――巨大ベッドの真ん中でティリーが眠っていた。安らかな寝息をたてていた。

 ふかふかの布団にうずもれた金髪頭が、やけに小さく見える。


 自分でも驚くほど深い安堵感が俺を襲った。

 瞬間、膝が砕けそうになる。


 だが、熱波のように吹きつける鋭い殺気が、俺をいやおうなく現実へ引き戻した。


 受付女、メグ・ノーバディが、ベッドの傍らに立って俺を睨み据えていた。

 眠ってはいなかったらしく、髪にも服装にも乱れはない。かっちりとした白のスーツを着込んでいる。


 《ローズ・ペインターズ同盟》の高位幹部、《♠Kキング》。

 相手の記憶を書き換えるスクリプト[事実無根トータル・ファンタジー]の使い手。


 そのぽやっとした無害な表情に、俺も長い間だまされていたわけだ。いつも身につけていた小さなダイヤのバッジは、自分が最強であることを隠すためのフェイクだった。

 今、女のスーツの襟には、見慣れたスペード型のバッジが輝いている。


「起こさないで。せっかく寝てるんだから。まだ、小さい子を起こすような時刻じゃないわ」


 ベッドに歩み寄ろうとした俺を、メグが鋭く牽制した。

 ティリーを起こしたくないというのは本気らしく、その声は囁きに近い。


 俺は女を睨み返した。


「どうやってこいつをおとなしくさせた? まさか、薬で眠らせてるのか?」


 メグは答えない。吊り上がり気味の瞳に、ひどく冷たい光をたたえて俺を睨み据えている。

 これまでずっと、ネジの外れた無害な笑顔で俺に接していたものだが。敵愾心をまとったこの女はまるで別人のようだ。


「ティリー様の記憶の中では……『しばらく仕事が忙しくなるから、この姉ちゃんに面倒を見てもらえ』と言って、あなたが彼女をわたしに預けたことになっている。だからティリー様は素直にわたしについてくるの。ずっと機嫌良くしてくれてるから、助かるわ。『いい子にしてろよ』とあなたに頭をなでられたのが嬉しかったみたい」


 [事実無根トータル・ファンタジー]でティリーの記憶を書き換えやがったのか。合理的だ。いまいましいが、誘拐方法としてはきわめて合理的だ。

 ――偽の記憶で喜んでいるティリーの姿を想像すると。

 人の心をもてあそぶ目の前の女に対する猛烈な怒りが湧き起こってきた。


 俺の口が再び、俺の知らない情報を言葉にした。


「なるほど。《♠Aエース》が言ってた『子守りのうまい女』ってのは、おまえのことか」


 言い終わらないうちに、俺は自分の言葉に混乱していた。《♠Aエース》にいつ、そんなことを言われた? ライデンが来る前にあいつと交わした会話は、まったくと言っていいほど記憶に残っていないのだが?


 メグの顔色が目に見えて変わった。


「彼は…………どうなったの? 《♠Aエース》は?」


 俺は肩をすくめてやった。


「答える必要あるか? 俺たちがここへ来たって事実が答えだろ」

「よっぽどのことがなければ……《♠Aエース》はわたしたちの居所を白状したりしない。わたしのことを喋ったりしない。……あなたは彼をひどく拷問した?」

「情報を引き出す方法は拷問だけじゃねえさ」


 メグの真っ白な顔の中で、俺を見据える二つの瞳は、地獄へ通じる穴のように深く暗かった。


 俺は慎重に相手の気配を探った。女が使ってくるのが[事実無根トータル・ファンタジー]だとわかっていれば、限定クオリファイできる。失敗は許されない――うっかり相手のスクリプトを食らってしまった場合の結果が重大すぎるからだ。


 だが、攻撃力のあるスクリプトを自前で持たない俺としては、相手にスクリプトを使わせてそれを反転リバースするしかない。さっさとこの女を無力化してティリーを取り戻すのだ。

 憎むべき相手だが、俺にはまだ、メグを物理的に痛めつけて目的を果たせるほどの衝動がなかった。

 ライデンにだって俺の目の前で女を殴らせるつもりはない。


「あなたが彼を殺したの?」


 声を高めたわけではなかったが、メグのその言葉は慟哭のように響いた。


「そんなことを訊いてどうしようっていうんだ。仇討ちしたいのか?」


 俺はわざと声を荒げた。仇討ちという語をあえて使ったのは相手の感情を逆撫でするためだ。

 メグの双眸が激しい憎悪にぎらりと光った。その瞬間、


「ギャングに撃ち殺されたんですよ」


 俺の背後に立っていたライデンが口をはさんできた。女と俺との間に漂う殺気を乱すような、とぼけた口調だ。


「ルーラント・サーフェリーの手下が、室内の様子を確認もせずに、いきなり外から乱射してきたんです。どんな手段を使ってでも捕虜を逃がしてはいけない、と命令されてたようです。それが最優先事項だと。――阿呆どもの思考回路だと、じゃあとりあえず全員殺しとけ、となったようですね」


 広い室内に、ひゅっ、と高い音が響いた。それがメグの喉から漏れた音だと悟るのに少し時間がかかった。


「その命令を出したの……わたしだ……」


 メグは震える声でつぶやいた。腰にあてがわれていた両手が、だらりと垂れ下がった。急に重力に耐え切れなくなったかのように。

 何か光る物が、うなだれた女の顔から落ちるのが見えたような気がした。



 おい、ライデン、余計な口出しするんじゃねえ。女を刺激してスクリプトを使わせようとしていたのに。戦意を失わせてしまったら何にもならないじゃねえか。

 ――だが、ハクトと組むときのような連携の良さを、この暴走脳筋に期待するのは無理というものだ。



「そうじゃねえよ。あんたが自分を責める必要はねえ。だって、を死なせたのは、この俺だからな。あいつ、なぜ自分がくたばるのかわからないってつらで死んでいったぜ」

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