第10章 グリフォン

(1)※

 グリフォンは女王さまが姿を消してしまうまで、じっとそのあとを見送ってから、くっくっと笑いました。つづいて、「笑わせるぜ!」と言いましたが、それは半分はひとりごとで、半分はアリスにむかって言ったことのようでした。

「何が笑わせるの?」と、アリスは言いました。

「あいつに決まってらあ」と、グリフォンが言いました。「ぜーんぶ思いこみばっかしさ、あいつは。処刑なんぞ、まるっきしやったためしはねえんだ。」


『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)


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 六年前の秋。俺は半年ぶりに、メッカにある《バラート》の寮へ戻った。

 あまりの素行の悪さにメッカを追い出され、ガイナント伝道教会の本部で開催されている半年間の修養コースに放り込まれていたのだ。


 教会本部ウィントフックで出会った修養仲間は、信仰に命を懸けている本物の求道者が多かった。心から神を称え、己を掘り下げ、「生の意味」に真剣に向き合っていた。

 そういうまじめな連中の姿は良い刺激になった。素直に、尊敬できると感じた。

 だが、教会本部で過ごした六か月間は――単に教内で肩書があるというだけの、神を忘れた俗っぽい高僧おえらがたを敬ってやろうという気持ちを、これっぽっちも俺に植えつけずに終わった。


 そういうわけで俺は、半年前に出発したときと同じぐらい反抗的な態度で肩をそびやかせ、寮に帰り着いた。


 寮の玄関ロビーでハクトが待ち構えていた。


「レジィナと話したってくれ」


 俺が部屋に荷物を置くのさえ待ちきれず、ハクトは叫んだ。


 その様子に、俺の心も沈んだ。

 最後に会ったときのレジィナは部屋にこもりがちで、元気がなかった。仕事もまったくしなくなっていた。――ハクトがこれだけ深刻な顔をしているということは、この半年間でレジィナの調子は良くなっていないということだ。


「おまえがそれを俺に頼むのはおかしいだろ。だって、あいつはおまえの……」

「俺じゃあかんのや。おまえでないと」


 ハクトは血を吐くような言葉を絞り出した。


「……俺かて、おまえにこんなこと頼みとぉないわ」


 赤フレームのアイシールドの奥からこちらをみつめる瞳は、真っ赤だ。

 その赤さが、泣いているせいなのかそうでないのか、俺は判別できたためしがなかった。昔から。



 「離れ」と呼ばれているが、要するにその建物は物置だ。全世界の宗教施設から集められた大転換期トランジション・フェーズ前の紙資料のうち、世界宗教者会議のご立派な中央図書館に収蔵するに値しない、と判断された本を雑然と放り込んであるだけの場所だ。人が暮らすようにはできていない。


 俺は離れの扉を拳で叩いた。名前を呼んだが返事がない。


 あいつ、中で倒れてるんじゃねえだろうな。


 いやな予感がしたので、蹴破るつもりで一歩下がった。

 その瞬間、扉が開いた。レジィナがぼんやりした瞳でこちらを見上げていた。


 最後に会った半年前より、ひとまわり小さくなってしまったように思えた。土気色の顔。目の下のクマ。ぼさぼさの長い金髪。あり得ないほど痩せこけた腕は、つかんだら簡単に折れてしまいそうだ。


 不意に、レジィナの瞳に光が戻った。生気のなかった頬が赤く染まった。


「やだ!」


 いきなり、俺の鼻先で扉が閉じられた。俺は平手で扉をバンバン叩いた。


「おい、ふざけんな。何が『やだ』だ。いくらなんでも失礼だろうが」

「だって、あたしっ……顔も洗ってないし……人に会えるような状態じゃない!」

「どうでもいいんだよ。おまえの顔なんか、もう十七年も飽きるほど見てんだぞ。今さら何も違わねえだろ。さっさとここ開けろ」


 ドア壊すぞ、と言うと、レジィナはしぶしぶ開けてくれた。


 彼女の肩ごしに見える室内は本だらけだった。天井まで達する高さの書棚がいくつも並べられ、迷路を構成していた。書棚同士の間隔は、体を斜めにしなければ通り抜けられないほど狭い。まさに本で埋め尽くされた空間だ。


「おまえ……いったいどこで寝てるんだよ? ベッドがありそうには見えねえが……」


 俺のつぶやきに対し、床の上、とレジィナは消え入りそうな声で答えた。恥ずかしそうに足元に視線を落としてしまう。が、何かを思いついたように、突然顔を上げて叫んだ。


「あ、でも、座る場所はあるのよ。奥に机と椅子があるから。ずーっと床の上で過ごしてるわけじゃない……」

「最後に飯を食ったのはいつだ?」

「え……? ちゃんと……食べてるよ。寮の管理課の先生が基本栄養食を運んできてくれるし……」

「運ばれてきた基本栄養食の箱、そこに積んだままじゃねえか。最低でも二か月分はある。おまえ二か月も、何も食わずに過ごしてたのか?」

「や……そんなわけないじゃない。……古いものがまだ残ってるから、それを食べてるの。だから新しい箱を取り込んでないだけよ。……おなかが減らないから、あまりたくさん食べられなくて……どうしても残っちゃうのよね……」


 俺はレジィナの、骨と皮と形容するのがぴったりの体を見下ろし、たまらない気持ちになった。いったいどれだけの間、絶食に近い生活を続けてきたのか。こいつの首ねっこをつかまえて、基本栄養食を無理やり口に押し込んでやりたい。


「最後に外へ出たのはいつだ? このいまいましい本の墓場みたいな場所から出たのは?」


 俺の声はひとりでに荒くなった。

 レジィナはしばらく考え込み、それから困ったように肩をすくめてみせた。思い出せないらしい。


「こんな辛気臭い場所に閉じこもってたら病気になっちまうぞ。いい加減に……!」

「時間が、いくらあっても足りないの。他のことをしてる時間がもったいないの」


 レジィナが突然、意外なほどの大声を張り上げて、俺の言葉を遮った。細くなった顔の中で以前より存在感を増した二つの瞳が、ぎらりと輝いた。


「ここには人類の叡智があふれてる。いくら読んでも追いつかない。あたしの知らないことが、まだまだたくさんある。あたしはもっともっと知りたい。を知りたい。自然のこと、宇宙のこと、人のこと。ああ、百人ぐらいに分身して、みんなで手分けして本を読めたらいいのに!」

「……何の話をしてんだ、レジィナ」

「ねえ。世界には美しいもの、精密なもの、すばらしいものが無数にあるのに、人間はそのほとんどをとりこぼしてしまうのよ。もったいないと思わない? 自分の体ひとつに縛られてるんじゃ、たかだか六十二年の人生で体験できることは限られてる。だから、そのために、本があるの。他人の知を分けてもらえるの。自分の[境界]を越えていけるのよ」


 まるっきり生気のなかったレジィナが、突然激しいエネルギーを迸らせ、拳を握りしめて叫びたてた。


「初めは、ただの現実逃避だった。仕事がつらくて。生き方がわからなくて。導師先生に相談してみても型通りの答えしかもらえないし。気持ちの向きを変えるためのヒントがほしくて、ここで本を読み始めた。……すぐに、悩みなんか忘れちゃったわ。自分がどれだけ些細なことでくよくよしてたかわかったの。ここに眠っている数千年の人類の知。なんてすばらしい。世界はこんなにも完全で不完全で輝かしい。その輝かしさを味わうのに、時間はいくらあっても足りない。寝てる時間も食べる時間ももったいない」

「おい、レジィナ……」

大転換期トランジション・フェーズに、電脳が……[ダイモン]が人類あたしたちをどうして完全に滅ぼさなかったかわかる? 電脳は人間ひとりひとりを入出力装置I/Oデバイスとして使いたかったのよ。世界を知覚するセンサーとして。だから人間の脳に[補助大脳皮質]を埋め込んで、すべての知覚情報をモニタリングしているの。

 世界中の十億人の人間が生まれてから死ぬまでのあらゆる瞬間に五感で知覚するすべてのこと。朝の高原で散歩してるとき頬に当たる風の気持ちよさ。ビフレスト・エッジのてっぺんから見る絶景。焼きたてのピッツァマルゲリータの匂いや味。ふかふかの毛布の手触り。マンマに抱きしめられたときのぬくもり。……そういうデータは機械的センサーじゃ絶対に採取できない。

 [ダイモン]は世界をすべて理解したいのよ。そのためには、人間の感覚器が必要。

 [ダイモン]の行動原理は知の探求ナレッジ・アキュムレーションだと言われてるでしょ。あたし、わかるわ、その気持ち。すべてを知りたい、すべてを感じたい、すべてをとっておきたい。地球の裏側で、会ったこともない人が見上げた空の青さでさえも」


 もう我慢できねえ。俺はレジィナの手首をつかんで扉から引きずり出した。


「やだ! 何すんのよ! 痛い、やめてよ」


 弱々しい抗議を、俺は黙殺した。レジィナの手を引いて、敷地の出口へ向かってずんずん歩いた。


「部屋に閉じこもってばかりだから、腹も減らねえんだ。少し動けば食欲も出る。で、飯を食え」

「あたしが食べたくないんだから、いいでしょ? 放っといてよ」

「このままだとおまえ、ぶっ倒れちまうぞ? そうなったら大好きな本も読めなくなる。それでもいいのか?」


 納得したらしく、レジィナの抗議が止んだ。しばらく歩くと、急に俺の手に重みがかかった。

 レジィナが地面にへたり込んでいた。


「ちょっと……立ちくらみ。お日様の下に出るの、ひさしぶりだから」


 顔をしかめながら、それでも懸命に笑おうと努力している。


 俺は彼女を背中におぶった。彼女は別に文句を言うでもなく、おとなしく背負われた。彼女は本のページのように重みがなかった。


 寮の敷地を出て、古びた舗装材で覆われた道を大股に進んだ。秋空の下、街路樹が茶色の葉を風に散らせていた。

 この地区はメッカの中心街からかなり離れているが、それでも気のきいた飲食店はいくつかある。俺は、胃腸の弱ったレジィナでもこなせそうな料理を脳内で検索しながら歩き続けた。


「みんな見てるわ」


 レジィナが囁いた。


 確かに周囲の通行人が好奇の目で俺たちを眺めていた。

 俺が殺意をこめて睨んでやると、通行人たちはあわてて目をそらした。柄の悪い外見も時には役に立つ。


 レジィナは俺が背負ってるんだから、多少遠くの店でも大丈夫だろう。

 そう判断して、薬膳ヤクゼン専門店に向かって歩き出した。足元で枯葉がからからと音をたてた。


 歩いているうち、レジィナが何かつぶやいた。もごもごした発声なので聞き取れない。猫が額をこすりつけるように、後ろから俺の肩に顔をうずめてきた。彼女の金髪が俺の頬をかすめた。


「……いま何か言ったか?」

「『生身の体もいいな』って言ったの」

「なんだ、そりゃ」

「体なんて、食事とか睡眠とかメンテナンスの手間がかかるから、わずらわしいだけだと思ってたけど。やっぱり現実リアルの感覚っていいわね。お日様の温かさ。肌を撫でてく風。あんたの足音。あたし、ひさしぶりに『自分の体で生きてる』感じがする」


 わけがわからねえ、と言ってやると、背後で笑う気配がした。それは弱々しいが確かに明るい笑いだったので、俺は気分が良くなった。


 やがて目的の店が近づいてきた。店内の人数を[仮想野スパイムビュー]で確認できる距離になったとき、俺の耳のすぐそばで、思いつめたような声が響いた。

 

「――ねえ。一緒にこの街を逃げ出さない? あんただって今の仕事に嫌気がさしてるんでしょ? あたしもそうなの」


 信じられない言葉に、俺の心臓が暴れ始めた。

 同時に、頬が熱く燃え上がるのを感じた。早い話が赤面したのだ。


「おまえ……自分が何を言ってるか、わかってんのか?」


 それは求婚しているのと同じことだぞ?

 二人で《バラート》を脱走するというのは、未来永劫お互いだけを頼みに生きていくということだ。運命を共にするってことだ。


 だが、俺の返事は正しいニュアンスで伝わらなかったようだ。

 かつては言葉にしなくても通じ合える鉄壁の連携を誇った俺たちだが。レジィナは俺の反応の意味を読み違えた。うろたえた様子で、


「ごめん、嘘よ。言ってみただけなの。……できるわけないもんね、そんなこと。《バラート》を裏切ったら世界中の宗教関係者を敵に回す。ずっと逃げ隠れしなくちゃならない。つかまったら[泡沫夢幻オブリビオン]で記憶を消されちゃうから……いつ追手が来るかと一生びくびくして暮らすことになる。そんなの、いやよね?」


 ――おまえを、びくびくさせたりしない、レジィナ。

 安心してずっと笑ってろ。


 ハクトの顔が眼前をよぎり、つかのま胸が痛んだ。だが俺は痛みごとその面影を脇へ押しやった。


「レジィナ。もしそれが、おまえの本当に望んでることなら……」


 おまえを連れて世界の果てまで逃げてやる。何十人、何百人追手がかかろうが絶対に負けねえ。何があってもおまえを守ってみせる。




 温かい液体が俺のシャツの肩にしみた。涙のようだった。身を寄せ合っているのに、俺の名前を呼ぶ彼女の声はなぜかひどく遠かった。


「心配かけてごめんね。あたし、反省した。……本ばかり読むのをやめて、ごはんも食べる。がんばって強くなる。またあんたの隣に立てるように。……だから、待ってて、。あんたがあたしを見守ってくれてる、と信じられたら、あたしはがんばれるの」

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