(2)
――たぶん俺はとっくに感じ取っていたのだ、心のどこかで。あの子供が何者なのか。
あいつの本名が
そして、ティリーがレジィナの異母妹であることがわかって、予感が確信に変わった。
翌朝、俺はティリーを近所のカフェに連れて行った。ティリーは朝から機嫌が良かった。日に日に表情が豊かになってきているこいつだが、こんなにも満面の笑みは珍しい。真っ白な頬にえくぼを刻んで、瞳を輝かせて俺を見上げている。
まるで悟っているかのようだ。俺がもう、こいつを手放さないと決意したことを。
カフェはいつも通り客が少なく、閑散とした店内にテレビの音声だけが響いていた。俺たちが朝食をとり始めてまもなく宗教放送の時間になり、見慣れたへちゃむくれ顔の女が大映しになった。
「みなさん、毎日、幸せですか? 日々の暮らしに満足できていますか? 最近、声をたてて笑えていますか? 『こんなはずじゃなかった』、『自分だけ損をしている』、『周りに正当に評価してもらえない』……そんな思いで心を曇らせてはいませんか?」
昨日ハクトの[
信じられない事態に、俺はテレビ画面を凝視した。
そんなはずはない。俺の知る限り、ハクトがターゲットの知性を破壊するのに失敗したことはない。奴の[泡沫夢幻]は誰よりも強力だ。
録画じゃないのか、と見直したが、画面に貼りついた「LIVE(生放送)」の文字は揺らがない。
これは中央ユーラシア自由経済圏の政府公式放送だ。質の高さには定評がある。録画放送にLIVEのキャプションをつけるようなミスをするとも思えない。
「そんな時こそ神様の出番です! 祈ってスッキリしちゃいましょう!」
マキヤのねばっこい声が勝ち誇ったように響いた。
俺の隣で、ティリーはテレビに視線を向けようともせず、顔の形が変わるぐらいプーリーを頬ばっていた。母親に対して、まるで興味がないかのようだ。
ふと、かちゃりと音をたててフォークを皿に置いた。金髪を揺らして振り返った。
「えるしー」
ぎょっとして振り返ると、カフェの扉が開いて、朝っぱらから露出度の高い服装をきめたLCが入ってくるところだった。周囲のあらゆる男どもの視線を彗星の尾のようにまとわりつかせ、意気揚々と歩いてくる。
ティリーを隠すにはもう遅すぎた。
「やっほぉ、
LCの細い指が幼女の頬をいたずらっぽく突ついた。ひどく親しげな態度だ。ティリーもされるがままになっている。
意外な展開だった。
「おまえら、仲がいいのか?」
俺の質問に、LCはにやりと笑って胸を張った。
「あったりまえじゃん。あたしはこの子の唯一の遊び相手だったんだよぉ、この子がヒステリーババアに牢屋に閉じ込められてる間。……ババアは『絶対に牢屋に近づくな』と命令してたけど。だーれが言うことなんかきいてやるかっつーの」
「女王は、おまえの……」
「あ。その先は言わないで。言葉にするのもおぞましいから。今日はそんな話をしに来たんじゃないんだぁ。《
ティリーをいじるのをやめ、俺の隣のスツールに腰を下ろしたLCが流し目を送ってくる。少女のまとうキツ過ぎる香りが俺を包む。
「そんな用件なら電話で済ませりゃよかったじゃねえか」
俺は、はぐらかすことによって嘘を吐くのを回避した。LCはきゃはっと笑い声をたてた。
「つれないこと言わないでよぉ。あんたの顔を見たかったからわざわざ来・た・の・にぃ♡ あたし、あんたをオトすの、まだあきらめたわけじゃないんだからねっ」
LCの甲高い声はよく響く。たぶんその言葉は店内の全員の耳に届いただろう。
――カウンターの向こうで、長いナイフを使ってブレッドローフをカットしている店主が、全力で俺たちの会話に耳を傾けている気配が伝わってきた。他の客どもも同様らしく、店内に異様な沈黙が広がった。
悪目立ちはまっぴらだ。用件を伝え終えたのならさっさと消えてほしい、という俺の内心も知らぬげに、LCは俺をじっとみつめた。
「ねえ。どうしていつもそんな難しい顔してんのぉ? あんた生まれてこのかた笑ったことってないんじゃね?」
「大きなお世話だ」
「いいこと教えてあげたら……笑顔、見せてくれる?」
LCが身を乗り出してきた。カフェ内の全員に聞かせるのはさすがにまずいと自覚したのか、声を十分低めている。その分、顔が近づいてきた。息のかかる距離で囁いた。
「あんたはそのうちスペードのキングやエースとも戦いたくなると思うんだぁ。だから今のうちにヒントをあげる。《
「……」
さあ、笑ってよ、とLCが顎を持ち上げて言い放った。
俺はしばらく黙って相手を見返した。笑うってどうやるんだっけ? 急に言われると思い出せねえ。
たぶんこの少女と会うのも今日が最後だ。厚化粧の奥に隠された顔立ちを見分けようと目を凝らした。まばたきもせずこちらを見返してくる真っ黒な瞳。――ティリーには全然似てねえな。本当にこいつがティリーの
だが――マキヤのしゃべっていたことが百パーセント
「無理はするなよ。『大丈夫だ』なんて自分をごまかすな。ろくなことにならねえから」
「何の話ぃ? あたし、無理なんかしてないよぉ。毎日すっごく楽しいんだからぁ。好きなだけ贅沢できるし、男にはちやほやされるし。《
そうか、と俺はつぶやいた。
いちおう忠告はした。それ以上踏み込んでやるほど、俺たちの間柄は近くない。
この少女が肚をくくっているんなら、己の選択の結果も自ら引き受ければいい。
不自然なほど濃く長い睫毛の下の少女の瞳に、ふと焔が灯った。
「あんたっていつも……あたしを通り越してどこか遠くを見てるみたいな目をするよねぇ、リデル。それがね、悔しいんだぁ。意地でもこっちを向かせたくなる」
温かい華奢な手が俺の頬を両側から押さえた。LCの顔が急速に近づいてきて、ゼリーのようにやわらかいものが俺の唇をかすめた。甘い香りが俺の鼻腔に残った。
それは――教義に縛られた厳しい節制の生活からずぶずぶの悪徳へ一気に転げ落ちた俺がほとんど経験せずに終わった、幼くぎこちないくちづけだった。
派手な音が響いた。
ティリーがカップを床に取り落とした音だった。
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