(3)

 それから約一時間後。ティリーと俺はコルカタ中央駅の長距離列車専用プラットフォームに立っていた。


 長距離列車は西ベンガル地方からの唯一の脱出路だ。朝のこの時間帯、プラットフォームは長旅に出ようとする客たちでごった返している。人込みに紛れられるのは俺たちにとって都合が良かった。心地よい喧騒が俺たちを包んだ。


 手荷物はくたびれた鞄一つだけだ。持ち物を必要最低限の物に限定すると、二人分の荷物もちっぽけな鞄に収まった。茅尚ママがティリーにと買ってきた巨大ぬいぐるみやアクセサリーは全部、四十二番街のアパートに置いてきた。


「……おまえ、海を見たことあるか」


 尋ねると、ティリーが青いリボンを揺らしてこてんと頭を横に倒した。わからない、ということだろう。俺は腰の高さにある金髪頭にそっと手を載せた。


「これからは、いやって言うほど見ることになる。……海がとびきりきれいな島へ連れてってやる。ランペドゥーザ島ってとこだ。たぶん、びっくりするぞ、そこへ行ったら……」


 船が本当に宙に浮いているように見えるからな。


 俺は最後にその景色を眺めた日のことをなるべく思い出さないように努めた。感傷に浸っている暇はないのだ。


 プラットフォームに列車が入ってきた。扉が一斉に開き、目的を持って大都会コルカタへ乗り込んできた連中が勢いよく流れ出してきた。遠い街からやってきた奴らは、なじみのない香りを連れてくる。[仮想野スパイムビュー]に常駐している数字の変化が騒音レベルと周辺温度の上昇を告げた。

 降りる客の流れが途切れると、コルカタ側の客たちがのそのそと列車に乗り込み始める。

 これは俺たちの乗る列車ではなかったので、俺たちは立ったまま人間の渦を眺めていた。


 ――まるで声に出して呼ばれたかのようだ。


 実際のが聞こえたわけではなかったが、俺ははっきりとの存在を感じ取り、向き直った。


 プラットフォームを埋め尽くす人の群れから、そいつは頭一つ分抜きんでていた。漆黒の顔の中でぎらぎら光る眼玉が旅行客たちの頭ごしにこちらを睨んでいる。殺気が圧となって伝わってくる。

 それは《バラート》の刺客、[メアリー・アン]ことライデンだった。


 生きてやがったのか。マーチとヘアの双子にとどめを刺されずに済んだのか。


 奴がここにいるということは。俺は周囲に視線を走らせた。案の定、ハクトもいやがった。奴の頭も人込みから飛び出ている。


 二人は俺を左右から挟み撃ちにしていた。人の動きに逆らって、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。


「どこへ行こうってんです? 高飛びですか」


 声を張り上げなくても会話できる距離まで来ると、ライデンが物騒な目つきで俺を見据え、口先だけ丁寧に尋ねた。今にも殴りかかってきそうな緊張感が全身に満ちている。

 ティリーが怯えたように俺の背後に隠れた。


「あんたの顔を本部の手配書で見たのを思い出しましたよ。《[工作員]殺し》のアリス。これまで何人もの追手を返り討ちにしてきた最上級の危険人物で、本部から『無期限手配』リチェルカート・フィノ・アッラ・モルテに指定されてる」

「……勝手に妙な二つ名をつけんじゃねえよ。誰も殺しちゃいねえ、


 その時になってようやく俺たちのそばに到達したハクトが、ぶっきら棒に割り込んできた。


「おい。あっち行っとれや、ライデン。話は俺がすることになってたやろ」


 人並外れた長身の男どもが互いに反感を隠さず睨み合った。


「大丈夫なんですか? この男は昔あんたの……」

「俺を誰やと思てる。任務に私情なんか挟まへんで。……おまえら脳筋二人を並べとくと、人前で乱闘始めそうで心配や。離れとれ。二十五メートル以上離れとれ」

「……」


 ライデンは不服そうだったが、それでも俺たちから離れていった。ボクサーの軽快なフットワークを無駄に生かして、人をひょいひょいとかわしながら雑踏を抜け、二十五・一メートル進んだところで足を止めた。振り返り、「見張っているぞ」オーラを派手に漂わせてこちらを睨み据えた。


「……仕事熱心な若手だな」

「せやろ。やる気満々やで」

「おまえ、部下の手綱をもっとしっかり締めとけよ。なめられ過ぎだろ」

「あの子は俺の部下やない。アメリカ支局から派遣されてる研修生なんや。上昇志向の強い子でな。早く手柄立てたくてたまらんらしい。やりにくいわ」


 ハクトは俺に目くばせをよこしてから、ごく自然に立ち位置を変え、ライデンに背を向けるようにした。


「あの子がおまえの正体に気づいたから、もう、おまえを見逃すのが難しなった」


 ――目くばせの意味はどうやら、ライデンが読唇術を使える、ということらしい。俺も、漆黒の巨漢に唇の動きを読まれないよう、姿勢を変えた。


「おまえらはずっと俺の位置情報をモニタリングしてたんだな」


 俺の質問に、当然やろ、とハクトは悪びれずに即答した。


「おかげで、ずっと追ってた脱走者の居所をつきとめることができた。ハンを殺したのが誰かもわかった。おまえには礼言わなあかんな」

「……おまえ、ちゃんと、教祖の記憶を消去したのか? やり損なってねえか? 今朝あの女がテレビの生放送に出てるのを見かけたぞ?」

「うっそぉ。そんなわけないやろ」


 軽く受け流してから、ハクトは俺の上着の裾にしがみついているティリーに視線を移した。


「この子を連れて逃げるつもりやったんか」


 その声には珍しく、しんみりした響きが含まれている。


「わかっとるとは思うけど。子連れでの逃亡は不可能に近いで。制約が多すぎる」


 俺は目の前の白い顔、アイシールドの奥の赤い瞳を眺め、ためらった。だが、ためらいはほんの一瞬だった。

 広い世界でハクトだけは、真実を知る権利がある。俺たちはそれだけのものを共有してきた。たとえその後どうしようもなく道を分かってしまったとしても。


「こいつはレジィナの異母妹いもうとだ。クローニングで生まれたが、まぎれもなくレジィナと半分同じ血が流れてる。そして……初めて会ったとき、こいつは俺を『アリス』と呼んだ。コルカタじゃ誰も知らないはずの名前を。どういうことかわかるか」

「……」

「こいつは、レジィナのだ。前世の記憶が一部残ってるんだ」


 俺の言葉に、ハクトは苦いものでも飲み込んだような顔をした。


 ガイナント伝道教会と同様、ブラーフモ・ドクトリンでも輪廻転生を信じている。人間の魂は死後、別の肉体に生まれ変わる――そして前世での行いに応じた境遇を与えられる、という考え方を採用している宗派は多い。

 また、思想上の根拠はないが。「死んだ人間は近い肉親に生まれ変わる」と広く信じられている。孫や甥姪に生まれ変わった、というのはよく聞く話だ。


 ティリーがレジィナの肉親であると知った瞬間、「生まれ変わり」という結論が自然に俺に降ってきた。そうでなければ、この子供が俺の《バラート》での名前を知っていたことの説明がつかないのだ。



 ハクトがスクリプトを使おうとしている気配を感じたが――殺気を感じなかったので、そのままやらせておいた。

 

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id ('white_rabbit')


 奴は水でもすくうように両手を揃えて、ティリーの顔の前に差し出した。白手袋に包まれたその掌には、毒々しい真紅のスナック菓子『VIVA☆カプサイシン』が山盛りになっていた。


 ティリーがぎょっとしたように身を引いた。

 当然の反応だ。唐辛子臭をぷんぷんさせているこの菓子は幼い子供には向かない。ましてティリーは大の甘党だ。


「よせ。そんなもん食わせたら腹を壊すだろうが。生まれ変わりだからって、何もかもレジィナと同じってわけじゃねえさ」

「……」


 ハクトはちょっと残念そうにスクリプトを解除し、手の中のスナック菓子を消した。そしてその手をティリーの頭に載せた。いつくしむように。


「レジィナ……。生まれ変わってもアリスのことだけは覚えてる、ってのがな。くそっ、なんかもう、やりきれんわ」


 [仮想野スパイムビュー]に「まもなくテヘラン行き直通列車が到着します」という駅からのアナウンスがひらめいた。砂色の列車がプラットフォームに滑り込んできた。俺たちが乗る予定だった列車だ。

 列車の扉が開き、客の乗降が始まった。だが俺はその場を動かず、立ち続けていた。


 大勢の客が乗車したため、プラットフォームが急に閑散とした。扉を閉じ、列車は遠い西の街へ向けて走り去った。残された俺たちの間を乾いた風が吹き過ぎた。


「……だったらなおさら、追手にやられるわけにはいかんやろ、アリス。この子の見とる前で」


 言い放ったハクトの顔からは、湿った感情はきれいに拭い去られていた。そこにあるのは《バラート》の将来の局長候補と呼ばれる男の事務的な冷徹さのみだ。


「おまえ、《バラート》に戻るって言えや。今ここで。……本部は《ローズ・ペインターズ同盟》を本格的に壊滅させることに決めた。女王はおらんようになったが、女王が育てたヤバいスクリプト使いどもが《同盟》には大勢残っとる。ハンを殺したサーフェリーとかいうギャングも含めてな。このまま見過ごすわけにはいかん、というのが本部の判断や。

 おまえは幹部として教団に深く潜り込んどる。俺らの作戦にとって、おまえの存在は貴重や。『無期限手配』がかかっとるのは本当ほんまやが……おまえが復帰すると言えば、本部は大歓迎するはずやで」


 俺はハクトを眺めた。同時に、[仮想野スパイムビュー]に表示される背後のライデンの動きをモニタリングしていた。――実際問題、このペアは手ごわい。二人とも複数のスクリプトを使い分ける。相手のスクリプトを限定クオリファイしないと戦えない俺は分が悪い。一人ならなんとか逃げきれる目もあるかもしれないが、ティリーを連れて逃げるのは無理だ。


「……もしどうしても逃げたければ、《同盟》壊滅作戦のどさくさに紛れて姿を消せばええんや。そん時にはライデンも敵との闘いに忙しくて、おまえどころやないやろ。そうなったら、俺がいくつか偽の手がかりをばらまいて、おまえらへの追跡を遅らせたるわ」


 ええ考えやろ、とハクトは肚の読めない顔でへらっと笑った。


 奴は自分の肩の高さで、手のひらを広げてみせた。俺はその手のひらに拳を叩き込み、握手に代えた。そして、「あいたたた……そこ本気で殴るとこちゃうやろ……骨折れたんちゃうか」と悶えるハクトに背を向けた。

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