(6)

 俺は七十一番街の外れの公衆端末から『媽媽的店』に電話を入れた。

 真夜中近い時刻なので、たぶん店じまいにかかっている頃だろう、と読んだ。案の定、茅尚ママはすぐに電話口に現れた。


「『コーカス・レース』の近所の娼館街は、どこのギャング団の縄張りか知らねえか」


 ママが「店の常連から急に電話をもらって驚く善良なレストランオーナー」の芝居を始めないうちに、俺は不機嫌な声を受話器に吹き込んだ。


「もちろん知ってるけど。詳しい話は電話ではちょっと難しいわね。よかったら、これからこっちへいらっしゃいよ、リデルさん。お店は開けておくわ、あなたのために」

「急いでるんだ。……あんた、前に、コルカタ市内のどんな相手とでも話をつけられる、と言ってたな。条件さえ合えば」

条件さえ合えば・・・・・・・。ええ、その通りよ」

「一時間ほど前に、六十五番街で金髪のガキがさらわれた。たぶん、タチの悪い娼館に連れ込まれたんだ。商品にするために。どの娼館かはわからねえ。

 あの辺りを締めているギャングと話をつけて、そのガキの行方を突き止めてくれねえか。もしできるなら、取り戻してほしい。あんたのつて・・で。……条件はそっちで決めてくれ。俺は、金はたいして持ってないが……もしガキの居場所を見つけてくれれば、あんたの欲しいどんな情報でも手に入れてきてやる、無料で」


 茅尚ママの答えが返ってくるまでに少し間があった。実際にはほんの二秒ほどだったのだが、ひどく長く感じられた。


「欲しい情報が二つあるわ、リデルさん。それで手を打ちましょう」

「引き受けてくれる、ってことか?」

「任せて。あなたが私に頼みごとをするなんて……よっぽど大事なのね、その子が。これからすぐに、心当たりに尋ねてみるわ」



 ――大事、だって? アリスのことが?


 電話が切れた後でも、ママのその言葉は俺の耳に残った。


 そんなんじゃねえよな、絶対に。俺にとって、アリスはわけのわからない迷子で、できるだけ早く厄介払いしてしまいたい存在だ。そもそも、明日にでも警察に引き渡すつもりだった。

 ただ、俺のドジのせいでさらわれちまったのが、後味が悪いだけだ。


 意識を取り戻した後、近くの娼館の呼び込みどもに「金髪のガキを見なかったか」と尋ねてみたが、まともな答えは返ってこなかった。六十五番街のような場所で人探しをするなんて不可能だ。


 頼れる相手を茅尚ママしか思いつかなかったのだ。

 あの巨大猿人だって、雇い主とはいえ、完全に信頼できる相手ではない。弱みは見せたくなかったが、やむを得ない。




 馬車を拾えなかったので、俺は七十一番街から四十二番街まで走った。結構な距離だったが、怒りと焦燥が力を与えてくれた。

 『媽媽的店』の扉には『休息中クローズド』の看板がかかっていた。だが、押すと扉は抵抗なく開いた。

 うずくまる十数台の円卓と少し乱れた空っぽの椅子たち。空気中に、ついさっきまで満ちていた人の気配の余韻が漂っているかのようだ。店の片隅で、純白のコックコートを着込んだマウンテンゴリラがサンブーカの瓶を前に座っていた。


「女の子は保護したわ。無事よ」


 茅尚ママは言葉少なに、それだけを口にした。

 俺は礼を言うべきなのかどうか迷いながら、その向かいの椅子に腰を下ろした。


 酒を飲むかと尋ねられたが、断った。精神集中が乱れるとスクリプトを使えなくなる。逃亡中の身に、アルコールは禁物だ。ママは席を立って厨房へ行き、エスプレッソのカップを二つ持って戻ってきた。


「取引よ、リデルさん」


 テーブル上で、カップを俺の方へ滑らせながら、ママは言った。


「私が一本電話すれば、女の子はここへ連れて来られることになっている。その前に……情報が欲しい」

「何でも言えよ。〈オールドマン〉ウィリアムのパジャマの柄だって調べてきてやる」

「もっと、簡単なことよ。私が訊きたいことは二つ」


 茅尚ママの黒目がちな双眸が俺を射抜く。


「あなたがどうやって情報を集めてくるのか知りたいの。どんな種類のネタでもすぐに手に入れてくるわよね……一つや二つの情報源だとは思えない。情報網を築くため活発に動いたようにも見えない。どんな手を使ってるの?」


 俺は顔をしかめた。

 エスプレッソが苦すぎたせいじゃない。コックは人外だが、この店の飲食物はたいてい最高だ。不味まずい物なんかない。


「そういうことは訊かねえ約束だろう」

「そんな約束、した覚えはないわ」

「お約束、ってやつだ。商売上の仁義だ。情報屋に情報源を尋ねる客があるかよ」

「だって、気になるじゃない。あなたの情報はいつも精度が良い……精度が良すぎて、こわくなる。私もこの世界には長いけど、あなたみたいな情報屋は初めてよ。安心してつき合うために、からくりを知っておきたい」


 茅尚ママはグラスにサンブーカを注ぎ、その上にコーヒー豆を数粒散らした。コックコートのポケットから長いスティック状のライターを取り出し、グラスに近づけた。

 四十度のアルコールに引火。青い焔がグラスの上で揺らめく。

 コーヒー豆の焦げる香りが空中に広がった。


「それと、もう一つ知りたいのは、あなたが使ってる幻覚剤は何なのか、ってこと。あなたの仕事中、周りの人間がみんな一斉に『手足が急に縮んだ』という幻覚にとらわれることがあるわね。今夜もそうだったと聞いてる。そんな即効性があって強力な幻覚剤は聞いたことがない。どういう薬剤なのか、どこから入手してるのか……それを教えてくれないかしら」


 俺はママから目をそらし、天井を見上げた。

 アリスの身の安全を買うための代金は、思いのほか高くつきそうだ。


 スクリプトの存在は極秘事項だ。たいていの連中は幻覚だと思い込むので、俺もどうしようもないときは一般人相手にスクリプトを使ったりするが――その仕組みを誰かに教える、というのはまったく話が別だ。

 スクリプトは電脳ネットワークに対する干渉であり、そんなことが可能だと電脳に察知されたら、あらゆる手を尽くして排除される。この地球上で電脳を敵に回したら一瞬も生存できない。

 スクリプトの存在を他の人間に教えれば、それだけ、[ダイモン]に察知される可能性が高くなる。


 だが、茅尚ママは俺と交渉しているわけではない。これは「質問に答えない限り、アリスは渡さない」という恫喝だ。選択の余地はない。

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