(4)

 短期間のうちに立て続けに昇格した俺は熱心な幹部だとみなされ、スナーク博士の中で株が上がったらしい。

 俺が《同盟》本部を訪ねると、まん丸な顔に心底からの笑みを浮かべて出迎えられるようになった。

 《♠10テン》との公式試合を要求したが、博士から返ってきたのは「少し待ってもらえますか」という答えだった。《♠10》はコルカタ市を離れていて、いつ戻るかはわからないのだという。


 俺は気にしなかった。「試合はまだか?」と訊きながら博士のオフィスを何度も訪ねる口実ができたのは、むしろ歓迎すべきことだった。

 三回ほど[鏡の国ルッキンググラス]を使って博士の感覚情報と同期した。

 博士の目を通して、デスクの上の書類を読むことができた。《同盟》の会計に関する文書もあったが、ほとんどが経済全般に関する書類だった。中央ユーラシア自由経済圏や世界全体の工業、農業、物流に関する無味乾燥なレポートやデータ。


 毎月第一日曜日に開かれる「廷臣会議」にも、博士の知覚にただ乗りフリーライドして潜り込んでみた。

 ダイヤの幹部が全員出席する会議だと聞いていたが、確かに、スナーク博士を入れて十三人揃っていた。全員がダイヤのバッジを襟に光らせていた。いかめしい顔つきの初老の男女。

 金と権力にまみれた人間のあぶら臭さを漂わせている。会話の内容から察するに、全員が大企業の経営者か人的統治機構せいふの高官らしい。

 この会議でも、話題はもっぱら、経済をどう回すかということだった。「エネルギーの管理」「農業生産計画」「物流の確保」といった語句がしきりと飛び交っていた。


 自慢じゃないが、俺はその手の話題には詳しくない。

 だが――世界のエネルギー、農業生産、工業生産などの管理は、本来[ダイモン]が決めるものじゃないのか? 資源や生態系への長期的な影響を考えながら生産活動をコントロールすることは、人間の手に余るからだ。[ダイモン]が生産全般を管理し、人は[ダイモン]から許可された範囲で、資源を利用、分配、費消する。経済活動というのは、そういうもののはずだ。

 「廷臣会議」で話し合われている内容は、人の踏み込める領域を超えている。それは電脳の領域を侵すものだ。




 「《♠10》との試合の日程が決まった」とスナーク博士から連絡があったのは、前の試合から二週間ほど過ぎた後のことだった。

 ひとけのない巨大な保存庫。荘厳な聖歌『復活の生贄いけにえに』が鳴り響く中、遺物レリックに囲まれて佇んでいるのは、締まりのない体形の四十前の男だった。オレンジ色のもじゃもじゃの髪の下から、眠そうに瞼の垂れた目がこちらをみつめている。身にまとっているのはくたびれきった古着だ。

 一つ間違うと浮浪者に見える。多額の幹部手当を教団から受け取っている男とは思えない。


「僕は興行の準備があるから忙しいんだニャー。さっさと済ませちゃうけど構わニャいか?」

「……何だ、その妙ちきりんなしゃべり方は」

「僕はチェシャーサーカス団の花形、グリニング・タイガー。ユーラシア中の子供たちの人気者ニャのさ。常に役柄を忘れないため、オフの時でもタイガーの口調で通してるんだ。子供たちの夢を壊したくニャいからね」

「タイガーはニャーとは鳴かねえだろ」


 俺のツッコミに、グリニング・タイガーと名乗った男は白い歯をむき出し、大きなにやにや笑いを浮かべた。


 スナーク博士のメモによれば、この《♠10》が使うのは「消える」スクリプトだ。

 姿を消すスクリプトと言えば、[透過消失ロストサイト]ぐらいしか思いつかない。

 とりあえず、相手が使ってくるのはそれだと仮定して限定クオリファイしてみるか。


「それじゃ、いっくニャー♪」


 能天気な宣言と同時にスクリプトが発動した。


illegal script detected: unknown script

id ('cheshire_cat')


 ログインID[チェシャ猫]。スクリプト名、不明アンノウン

 くそっ、またデータベース未登録のスクリプトか。


 [透過消失]を対象にした俺の限定は不発に終わり、謎のスクリプトが効果を発揮した。

 ――目の前からタイガーの姿がかき消えた。


 俺は慎重に周囲の気配を探りながら見回す。だだっ広い空間に多数の遺物だけが無言でうずくまっていた。

 [仮想野スパイムビュー]には周辺三十メートル以内のすべての人間の座標と生物学的情報が表示される。[透過消失ロストサイト]なら視覚的に「見えなくなる」だけなので、[仮想野]にはしっかり映る。こういう一対一の状況なら戦えなくはない。


 だが俺の[仮想野]には誰の情報も表示されなかった。データ上、三十メートル圏内に俺以外の人間は存在していなかった。

 耳を澄ましてみたが、足音も呼吸音も聞こえない。気配も感じない。


 タイガーは本当に


 厄介だな。奴はまだ俺の近くにいるはずなのに、その存在をまったくとらえられないとは。

 当てずっぽうで拳を振り回していればヒットするだろうか。


 俺は保存庫の入口で待機しているスナーク博士を振り返った。スクリプトの効果範囲外にいる博士には、タイガーの姿が見えているはずだ。博士の視線の向かう先を追えば、そこにタイガーがいるかもしれない。

 だが、そんな俺の希望は一瞬で潰えた。博士はまっすぐ俺を見ていたのだ。何の参考にもならねえ。



 たっぷり三分間ほどは、何も起きなかった。

 前ぶれもなく世界が変貌した。

 目に見えない巨大なハサミで時間という連続体が切り取られたかのように。立っていたはずの俺は、次の瞬間床に転がって遠い天井を見上げていた。腕が動かせない。後ろ手に縛られているようだ。

 すぐ隣にタイガーが立ち、俺を見下ろしていた。


「降参するって言いニャよ、《♠9ナイン》。でなきゃ君の頭をめちゃくちゃに踏まなくちゃニャらない」


 のんびりした言葉が降ってくる。だが「ユーラシア中の子供たちの人気者」にあるまじき殺気が、その目にちらついている。


「僕、野蛮なことは嫌いニャんだよ。そんなひどいこと、させニャいでくれよ」


 ――何が起きたのか、いつの間に縛られたのか、理解できない。理解できるのは「ヤバい」という事実だけだ。

 物言いは柔らかいが、この男はたぶん本気で蹴ってくる。そういうタイプだ。


focus target=('cheshire_cat')

run ('easy_contraction')


 俺は、敵が二回目のスクリプトを使わないうちに[収納自在イージー・コントラクション]を発動させ、

 急いで身を起こし、

 倒れ込んできたタイガーの首に両脚を巻きつけ、首4の字をかけた。


 一瞬で落としてやった。手加減はしない。



 タイガーが気絶しても俺の両手のいましめは解けなかったから、これはスクリプトの効果ではなく、現実のロープなんだな。

 スナーク博士がまん丸な体を揺すって歩み寄ってきた。


「あなたは『公式試合に素手で勝つ』と言ってましたが……本当に、力技の勝負ばかりですね」


 俺の手首を縛るロープを切りながら、あきれたような声を出す。

 ――「ばかり」ではない。たまたま二戦連続そうなっただけだ。


 タイガーの意識はしばらく戻りそうになかった。スナーク博士が戦闘続行不能を宣言し、俺は《♠10》に昇格した。

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