(3)

 たぶん敵のスクリプトは[千里爆伸インスタント・ストレッチ]だろうと俺は見当をつけていた。効果範囲内の人間の手足をゴムのように伸び縮みさせるスクリプトだ。相手に使って手足を縮めることも、自分に使って遠距離から長い腕で攻撃することもできる。


 まずは敵のスクリプトを限定クオリファイする。面倒だからミュートするのがよさそうだ。

 それから敵をぶん殴って降参させる。目の前の男に恨みはないが、試合だから我慢してもらおう。


 《♠9ナイン》が細い目を煌々と光らせて俺を見据えた。


「あんたに恨みはないが……」


 若々しい声で、俺が感じているのと同じ言葉が発せられた。


「……そっちから挑戦してきたんだからな。俺も手加減はしないぜ」


 ――空気が染め変えられる。前に戦った[可愛い料理番]もそうだったが、素人にしてはスクリプトの発動が速い。上位幹部だけのことはある。

 俺の[仮想野スパイムビュー]の下端を走る銀色のアラートが、敵の攻撃を告げた。


illegal script detected ('disdimension')

id ('caterpillar')


 ログインID[アオムシキャタピラー]、スクリプト名[大小異同ディスディメンション]。


 くそっ、読み違えた。

 だがもう遅い。相手のスクリプトにかぶせるよう、俺はすでにシーケンスを開始してしまっていた。[千里爆伸インスタントストレッチ]を限定クオリファイするため開始したシーケンスは何の効果も上げられずに消滅。

 [大小異同ディスディメンション]の効果が俺の[補助大脳皮質エクスパンション]に及ぶ。五感の知覚する現実が変容する――!


 足元に敷き詰められた灰色の舗装材の粒が、やけに大きくなったように感じられた。粒と粒の隙間がかなり開いていて、下手するとそこにつまづきそうだ。今までこの床はただののっぺりした平面だと思っていたが、こんなに粗い粒でできていたとは気づかなかった。

 いつの間にか派手な極彩色の壁がすぐ横にそそり立っている。

 俺の背丈よりはるかに高いその壁が、ついさっきまで俺の膝ぐらいまでしかなかった中国製の壺であるという事実に突然気づき、背筋が冷えた。


 俺は小型化している。壺との関係から計算すると、現在の身長はだいたい二十センチほどだ。


 ずし……ん、といういやな感じの地響きが俺の全身を揺さぶった。

 はるか前方に、謎の白い物体が見えた。視界いっぱいに広がる三階建ての建物、に似ている。それが重力を無視した軽やかさで地面を離れ、まっすぐ上昇する。


 俺は呆然として見上げた。

 かなり距離が開いて初めて、俺が見ているのは馬鹿でかい靴底であると認識できた。


 ――くそっ、建物じゃねえ。さっきのあれは、[アオムシ]の運動靴の爪先だ。


 [アオムシ]は天井に頭がつきそうなぐらい巨大化していた。あまりに上にあり過ぎて、奴の顔がよく見えない。目を凝らすと、「身長:一〇〇・〇〇メートル」の文字が[仮想野]に表示された。


 二十センチ対百メートル。

 純然たるサイズの差が俺を恐慌に落とし込む。無理だ。絶対に勝てるわけがねえ。


 巨大過ぎて「足」にはとうてい見えない白い塊が、はるかな頭上から恐るべき高速で俺めがけて落ちてきた。踏みつぶすつもりだ。

 俺はこれ以上必死になったことがないほど必死に駆けた。間に合わないと判断、前方めがけて決死のダイブ。間一髪、俺の踵をかすめるようにして巨大塊が着地した。轟音、地鳴り、強風がいっせいに巻き起こり、吹き飛ばされた俺はころころと床を転がる。


 逃げても無駄だ。俺が一分以上かけて稼いだ距離を、奴は一歩で詰めるだろう。奴の歩幅は俺の五百倍だ。

 早く手を打たないと、あと数秒のうちに足で踏まれるか、掌で叩きつぶされる。


 俺はふらつく頭を振って意識をしゃんとさせ、スクリプトの構築に集中しようと努めた。


focus target=('caterpillar')

run ('easy_contraction')


run ('easy_contraction')

 attribute ('horizontal_inversion')


 俺は[収納自在イージー・コントラクション]を二回連続で発動した。一回目で相手の右腕と左脚、二回目で左腕と右脚が、七分の一に収縮した。[アオムシ]の巨体が床に落ちてきた。激しい振動と轟音。世界が揺らぐ。周囲にそびえ立つ無数の巨大構築物が倒れてくる。後頭部をしたたか何かに打ちつけ、俺は一瞬気が遠くなりかけた。

 駄目だ。意識を手放すな。事象を支配し続けなければ――敵は再び手足を取り戻す。



 あまりやったことはないが、[収納自在]をさらに六回多重発動させた。それにより、[アオムシ]の両手両足は元のサイズの二四〇一分の一まで縮んだ。身の丈百メートルの巨人は腕を軽く振っただけで俺を叩きつぶせる――二十センチの小人としては、これぐらい用心しておくのが妥当だろう。


 ほぼ胴体と頭だけという状態で転がる巨人に、俺は慎重に接近した。


 横たわる[アオムシ]の顔が、俺の手の届くところにあった。五百倍サイズの人の顔は不気味以外の何物でもない。俺の身長の十倍以上はある目玉がぎとぎとと動き、長い睫毛が風を切ってゆったりとまたたく。肌の毛穴の一つ一つがはっきりした陰影を帯びている。

 洞窟にも似た大きな鼻の孔から大量の生温かい空気が吐き出され、俺は風圧でよろめいた。


 鼻息の届かない方向から近づき、奴の顔によじ昇った。[アオムシ]は顔を激しく振ったが、俺は髪の毛などにしがみつき、振り落とされるのをこらえた。

 タイミングを見計らってジャンプし、奴の眉毛にきわどく飛び移った。

 眉毛を両手でしっかり握ってぶら下がり、閉じてしまった奴の瞼を蹴りつけた。


 三発蹴ったところで、足元から耳を聾せんばかりの大音声が湧き起こった。


「やめろ!!!」


 [アオムシ]がスクリプトを解除したらしい。[大小異同]により修正されていない状態で「現実」を眺めてみると、床に横たわった若者の横で、なぜか四つん這いになった俺が足だけを伸ばし、相手の目を蹴りつけているところだった。[アオムシ]の目の下の皮膚が深く切れ、血が流れ始めていた。

 俺がまだ自分のスクリプトを発動させているので、[アオムシ]の手足は縮んだままだ。


 ――俺にとって奴は五百倍の巨人だったが、奴にしてみれば俺は普通サイズの人間だ。巨人に抵抗する小人の必死さで俺が顔面を蹴り続ければ、大怪我は必至だ。


 例によって巻き添えを食わない安全圏から試合を見守っていたスナーク博士が歩み寄ってきて、俺の《♠9》への昇格を宣言した。




 なんとなく、話のわかりそうな奴だという印象を受けたので「一杯おごる」と申し出ると、《♠8》に降格したばかりの若者は快諾した。ダバを出て、背後をそれほど気にせず歩ける安全な界隈へ入ってから、手頃な酒場をみつけた。

 俺はグラスに口をつけるふりをするだけで一滴も飲まなかったが、[アオムシ]は良いペースで杯を重ねた。筋トレの手法について情報を交換しているうち話が盛り上がり、打ち解けた雰囲気になってきた。

 警戒心の薄らいだ[アオムシ]は、《ローズ・ペインターズ同盟》について知っていることを気軽にしゃべった。


 奴に言わせると、ハートの幹部とは「最強のスクリプトを持つ猛者たち」だ。

 ハートのエースである《女王》マキヤ・アスドクール。[空言遊戯]を使いこなすハートのジャック。そして、万人を瞬殺する絶対最強のスクリプトを持つ第三の幹部、ハートのクイーン。

 ハートのクイーンは、強すぎる自分のスクリプトを制御するすべを学ぶため、人里離れた施設でトレーニングに励んでいる、という。


 ――とは言っても、それはすべて、[アオムシ]が《同盟》に在籍した三年間にあちこちで耳にした話をつぎ合わせた推測に過ぎない。実際に《女王》やハートのクイーンがどんなスクリプトを使うのか、具体的に知っているわけではないらしい。


「……あんたはこの先、もっと上を目指すのか。次は《♠10》に挑戦するつもりか」


 酔いが回ったらしく、[アオムシ]は真っ赤な顔をしている。俺は即答した。


「ああ。そのつもりだ」

「《♠J》から上は相当手ごわいぞ。レベルが違う。特に《♠K》と《♠A》は《ローズ・ペインターズ同盟》が結成される前から《女王》につき従ってきた古株らしい。《♠J》から上はハートの幹部の親衛隊を務めている」

「……ハートの幹部は『最強』なのに、親衛隊なんか要るのか」

「知らねえけど。昔、誰かがそう言ってたんだ。スペードの上の方の連中はハートの幹部に絶対的な忠誠を誓ってると。だが、挑戦すれば『公式試合』は受けてくれるそうだぜ。あんたがそこまで行けるか見ものだな」


 ふーん、と生返事をした俺は声に熱意をこめそびれた。

 俺が幹部と戦い続けているのは、顔見知りになり、情報を聞き出すためだ。強い敵とぶつかって力試しをすることに喜びを覚えているわけではない。[アオムシ]と違って。


「クローバーの幹部ってのはどういう連中なんだ? 奴らもスクリプトを使えるんだろう?」

「あー……あいつらは『殺し屋』さ」


 その言葉は、声をひそめるでもなく、無造作に吐き出された。

 俺はとっさに周囲を見回した。狭い店なのでテーブルは密集して置かれており、身動きすれば他人に当たるぐらいの混雑ぶりだったが、幸い[アオムシ]の物騒な発言は誰の耳にも届かずに済んだようだ。


「おい、適当なこと言うな、酔っ払い。本気にしそうになったじゃねえか」

「俺は酔ってなんかねーって。馬鹿にすんな。クローバーにならないかと《♢Aエース》に誘われたことがあるんだ、間違いない」


 [アオムシ]は酔っ払いの散漫さで、ふーっ、と息をついた。


「教団にとって都合の悪い人間、危険な人間……そういう人間をこっそり消して回っているのがクローバーの幹部だ。教団にとっては最大の貢献だから、当然、待遇はスペードの幹部よりはるかに良い。クローバーの幹部に求められるのはスクリプトの上手さや強さじゃなく、『人を殺せる覚悟』だ。あんたも長い間教団にいて、見どころがあると認められたら、クローバーになれと誘われるかもしれねーな。……俺は誘われたけど断った。俺は強い奴と戦うのが好きだから幹部をやってるんだ。人殺しまでして出世したいとは思わねー」

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